「…そうかも知れません。とは哀れな生き物ですよ。大切な物が何か分かっているのに、どうしても他が邪魔をしてしまう」
哀れ、と言った時の山南が酷く遠い存在に見えた。繋ぎ止めねば何処か手の届かない場所へ行ってしまう、そのような気がする。
明里は双眸から、事前避孕藥 ほろりと美しい雫を流した。泣きぼくろを伝い、山南の頬の上に落ちる。
山南はその姿を見て、どうしようも無いくらいの愛しさが胸を占めた。気丈に気高く振舞っていた彼女が自分の為に泣いている。
沢山の不義理を働く男の為に、だ。
「…泣かないで下さい。私に、この涙に報いることは出来るのでしょうか」
山南は手を伸ばすと涙を拭う。そして起き上がると、正面に移動した。
「…もっと、うちに逢いに来ておくれやす。昼間でもええから。お姿を見たいんや」
「おさとさん…」
駄目で元々と思いつつ、明里は初めて駄々をこねるような言い方をする。
出来ることなら、山南の姿だけを毎日見ていたかった。それ程に惚れ抜いていた。
山南は再び明里の両手をそっと掬う。笑い皺が薄らと刻まれた、明里の大好きなその瞳が真剣味を帯びた。
「……おさとさん、近いうちに貴女をしても宜しいでしょうか」
落籍。それはこの廓で遊女として働く妓であれば憧れる言葉である。
だが、妓は相手を選ぶことは出来ない。思いを寄せる相手と結ばれる確率は限りなく低かった。
加えて、仮に良い縁があったとしても側室の場合が殆どであり、肩身の狭い思いをして生きていくことになる。
「……ほ、んま?」
やっとの思いで紡ぎ出した言葉が震えた。ずっと夢見ていた申し出に胸がいっぱいになり、涙腺が崩壊したように止めどなく溢れる。
「ええ。こんな嘘なんて吐きません」
「うち…、うち…。山南せんせがええどす…ッ。ずっとお慕いしておりましたんえ」
明里が流す美しい涙に山南の心は酷く揺さぶられた。
人生の伴侶にするならば、明里だと決めていた。だが、今回の落籍の申し出はそれの為ではない。
万が一自身に何かあった時に備え、この愛しいを籠の中から出してあげたいと思ったのだ。
「……貴女を自由にしてあげたいんです。準備するのに時間がもう少し掛かりそうなのですが、年明けまで待って頂けますか」
"自由にしてあげたい"。本来なら引っ掛かる筈の言葉だが、あまりの嬉しさに明里は気付かなかった。
一方で、別室では桜司郎と沖田が妓を寄せ付けないため、松原が一人で相手をしていた。
綺麗な妓に次々と酒を勧められ、松原は上機嫌ですっかり酔っている。
「…山南さん、少しは気分転換出来ましたかね」
沖田は山南がいる部屋の方を向きながら、そう呟く。
「ええ、きっと。最近凄くお疲れのご様子でしたし」
「貴女も気付いてましたか」
沖田の声に桜司郎は頷いた。
江戸について話した時の羨望に近い表情と、"帰るところもない"と言った時の表情がどうにも忘れられない。
「あの、沖田先生」
「はい。何でしょう」
「そんなに、江戸は良かったのですか…?」
突然の脈絡の無い質問に、沖田は怪訝そうに首を傾げた。そして穏やかな笑みを浮かべる。
「ええ…。貧乏を極めていましたけどね、皆で助け合って何とか生きていました。勿論、今は今で楽しいですがね。何故ですか?」
「明確に言葉にされていた訳では無いのですが…。山南先生がそのような表情をなさったから…」
表情という曖昧なものだったが、表現豊かな桜司郎の目に止まったのだからと神妙な面持ちになった。
「そうですか…。私も気に掛けるようにします」
「有難うございます」
「いえ、山南さんは私にとって兄ですから。今まで沢山助けて貰ったから、私も少しくらい恩返しをせねば罰が当たります」
沖田はそう言うと目を細める。
──江戸、か。確かにあの頃は食う物に困ったとしても、皆笑っていた。だが今はどうだろう、名が売れるようになって生活も困らなくなったというのにギスギスしている。
山南さんも辛かろう。きっとあの左腕は戦闘には耐えられない。剣士として生きたかった人だからこそ、余計に苦しんだではないか。
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