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大森第一小学校第40期卒業生同期会

卒業して幾星霜、さあ懐かしい面々と再会し、浮世の憂さも忘れて、思い出話に花を咲かせよう!

つぶやきの部屋136

2025-02-15 16:44:55 | Weblog

「憑依」

「霊などがのりうつること」と広辞苑にあるようにビリー・ホリディが、
その魂が、憑依したかのようにちあきなおみが演じたのが『LADY DAY』。
先日(2/3)、NHK-BSの18:45~19:30で放送された「アナザーストーリーズ」
で、僕にとっては垂涎ものの『LADY DAY』の、一部ではありますが、歌を
耳にすることができました。やはり録音されたものが遺っている!写真も
沢山遺されている!映像もあるのでは?
 「憑依」という言葉を使ったのは、訳詞を担当した吉田旺で、“ビリー・
 ホリディをちあきさんに憑依させる言葉を選ばなきゃいけないと思った”
 と番組内で語っている。
 今回は、一部使用ならと云うことでちあきがOKを出したのだと思うが…。 
 註)『LADY DAY』については、つぶやきの部屋126「歌を盗られたカナ
 リヤは」を参考にしてください。

僕が持っている初演時のパンフレット(後に手に入れたもの)には、ビリー・
ホリディが1959年3月の深夜にフィラデルフィア市の南部にある小さなバー
(Emerson's Bar & Grill)で最後に演じた曲として以下の曲がラインナップ
されています。
・「I Wonder Our Love Has Gone」
・「When A Woman Love A Man」 
・「What A Little Moonlight Can Do」
・「Crasy He Calls Me」
・「Gimme A Pig Foot」
・「Baby Doll」
・「God Bless The Child That'
・「Foolin' Myself」
・「Somebody's On My Mind」
・「Easy Living」
・「Strange Fruit」
・「The Man I Love」
・「Ain't Nobody's Business If I Do」
・「Them There Eyes」
・「Don't Explain」
・「Deep Song」

どれもこれもビリー・ホリディの短い生涯(1915/4/5~1959/7/17)の中で、
黒い肌がゆえの人種差別の苦悩と闘いの末に生み出されたものばかりですが、
ちあきの『LADY DAY』が上記と全く同じラインナップであったかどうか分か
りませんが、番組の中で『LADY DAY』でピアニストを演じた作曲家倉田信雄
は、「Foolin' Myself」がエンディング曲であったかのように語っています
ので若干の入れ替えがあったのかも知れません。
 ちあきが大きく腕を広げて涙して歌った。倉田ももらい泣きしたとも語っ
 ている。

番組では「Foolin' Myself」も触りだけ流れますが、僕が一番聴いてみたか
った「Strange Fruit」は前半部分をしっかり歌っていました。
邦題だと「奇妙な果実」(石原慎太郎の『狂った果実』(Crazed Fruit)は
題名もパクった?)。
原詞は、

Southern trees bear strange fruit,
Blood on the leaves and blood at the root,
Black bodies swinging in the southern breeze,
Strange fruit hanging from the poplar trees.

Pastoral scene of the gallant south,
The bulging eyes and the twisted mouth,
Scent of magnolias, sweet and fresh,
Then the sudden smell of burning flesh.

Here is fruit for the crows to pluck,
For the rain to gather, for the wind to suck,
For the sun to rot, for the trees to drop,
Here is a strange and bitter crop.

ですが、憑依を促すために吉田が付けた詞は、
(見出し画像の中央下部に載っています)

南部のポプラの枝にや
奇妙な黒い実がうれる
その実を風が揺するたび
したたり落ちる 血の涙
のどかな町 南部に
首吊られた魂
悼むように香る
モクレンの花の白さよ
カラスどもに ついばまれ
雨風にたたかれて
いつか腐れおちてゆく
黒い奇妙な果実よ

ビリー・ホリディは44歳で生涯を終えますが、ちあきがマイクを置いたのも
同じ44歳のとき。憑依は怖い。(;´Д`)


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つぶやきの部屋135

2025-01-28 16:28:55 | Weblog

「認識の違い」

昨日(1月27日)のフジテレビによる「やり直し会見」23時過ぎまで
最初からずっと見ていましたが、怒号が飛び交うようになって、もう
大したことも明かされるようなことは無いだろうと見切りをつけて
寝ることにしましたが、10時間を超す会見になったそうですね。草木
も眠る丑三つ時までじゃ、爺さんばかりの受け手側は心底疲れただろ
うね。

全体として云えるのは、限りなく黒に近いダーク・グレーかな。黒色
も光の当て方でそのように見えるという意味でですが。

既にネットでは、女子アナX嬢の名も明らかになっているし、中居に
献上したフジテレビプロデューサーA氏の名も割れている。
CMを提供している大手各社も当然のことながら、週刊誌で暴かれた
内容以上のことを調査して知っているだろうから、A氏の処分の成り
行きを見守っている筈だ。A氏を首にしてもフジサンケイグループの
子会社で拾うようなことをすれば、それこそ代表の日枝氏にまで累が
及ぶことになる。それは辞任したフジテレビ会長嘉納、同社長港両氏
にいても同様だ。つまりこれからが見ものなのであって、第三者委員
会の結論がどのようになろうとも、人事に注目することでフジテレビ
が再生できるか否かの判断ができそうだ。

それらは横において、表題の「認識の違い」ですが、被害者X嬢と加
害者中居との間に認識の違いがあると港氏が会見で話したことについ
て。たぶん、以下のことだろうと思う。
中居はX嬢に結婚話を釣り餌にしてことに及ぼうとしたが、それが拗
れて怪我を負わせるようなことになった(と中居は云っている)。
不同意性交どころか婦女暴行致傷罪だ。
中居が9000万円の示談金を支払ったのは、20万円で済まそうとした彼に
そのようなものでは済まないことを周りが弁護士も交えて指摘したから
に他ならない。おそらく今後も芸能活動は支障なく続けられるからと
甘言を弄してのこと。
だから中居は1月9日付の「お詫び」と題するペラの中で“示談が成立
したことにより、今後の芸能活動についても支障なく続けられること
になりました”なんて白状紛いのことを公表しただけでなく、X嬢の
感情を逆なですることになることも気に留めない。つまり謝罪の気持ち
なんて端から微塵もないことが露呈したようなものだ。
また、このことは彼には余罪がまだ沢山あり、相手を黙らせる相場が20
万円であることを暗に語っていると考えるべきだ。その労を取ったのが
A氏であろうことも想像に難くない。

週刊新潮(1月30日号)の特集によると、前社長港氏は“昔から女子アナ
を接待の場に同席させていたのですが、共テレ(注:共同テレビのこと)
の社長になってから(注:出世レースで負けて15年に子会社の同社に飛
ばされてから)は、″復権″のために女子アナを定期的に使うように
なった。接待の相手は主に芸能事務所を経営するお歴々で、その会合は
『港会』として知られるようになりました。彼を気に入った、芸能界の
ドンたちがフジの天皇として君臨する日枝久相談役(87)に再起用を進
言したと言われています”、で日枝氏の指名を受け社長に就任。
A氏についても同誌は、“仕事ができないことで有名で、そのポンコツ
ぶりが面白がられて、『めちゃ×2イケてるッ!』のプロデューサーに引
き上げられた人です。(略)しかしまさか今の地位まで出世するとは思
いませんでした。(略)仕事ができるかどうかは二の次。上層部や大物
芸能人を味方につけた者が勝つ文化(注:フジテレビの社風)なのです”
と事情通が語る。
港氏もとんねるずを切っ掛けにして出世街道を歩んでいる。
他のルートもあると思うけど、今回の事案に関しては、日枝⇔港⇔A。
親亀がこけない限り子亀、孫亀もこけない(悪い文化は残る)。
腐った根っこが残る限り、よい花や葉をつけることは無い。

追記1/30)
『週刊文春』が、X嬢が被害にあったときにA氏が直接関係していない
(A氏が誘ったのではなく、中居自身が誘った)旨の訂正をネットで行
ったことで非難を浴びていますが、裏どりに杜撰なところがあったこと
は否めませんが、その1週間前に中居のBBQパーティにX嬢を出席する
よう促したのが上司のA氏であったことは確か。
そこで連絡先の交換をしたからといって個人的な繋がりを求めたのでは
無く、仕事上の儀礼的慣習と捉えるのが大人の考えと云うもの。
だから事件前の中居からの食事会への誘いに、X嬢がA氏にそのことを伝
えたか、どうすればよいか相談したか否かが焦点になる。A氏が上司の
立場から何らかのそれを促すような言葉を掛けたのであれば、A氏が関
与したことは逃れようがない。


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つぶやきの部屋134

2024-12-22 18:36:10 | Weblog

「紅一点」

多くの男性の中の女性一人の場合を云うようになりましたが、元々は
ただ一つ異彩を放つもののことを云います。
その紅一点と云うに相応しいのが黒澤明監督の『隠し砦の三悪人』で
雪姫役をやった上原美佐。
彼女なしでは、『風と共に去りぬ』のスカーレットを演じたビビアン・
リー同様に、異彩を放つ作品にはならなかったと云っても過言ではない。

いずれもこれはと云う女優が見つからず、やっとのことで監督自らが
原石を探り当てたわけですが、『隠し砦の三悪人』の場合は一般公募
したものの、黒澤の求める「若くてお姫様らしい気品と野性味がある」
女性が全国からの応募者4000人の中には見つからなかった。
しかし天の配剤か、名古屋の東宝系映画館に行った際、そこにいた支
配人に声をかけられたのが上原美佐。
 1981年4月4日にフジTV系列「ゴールデン洋画劇場」で『隠し砦の三
 悪人』が放送された後に黒澤監督、千秋実、藤原釜足、上原美佐が
 出演して当時を振り返った10分ちょっとの座談会があり、そこで上
 原自身がそう語った。
 作品にかかわったのは20歳前後、撮影は20歳から21歳に掛かる頃と
 語ってもいますので、(彼女の誕生日は1937年3月26日なので)おそ
 らく福岡から上京して文化女子短期大学在学中のことだと思います。
 クランクインは、後に記述しているように彼女が21歳のときですが、
 撮影に入る前には乗馬(障害を跳べるまで)の練習や姿勢を正すた
 めに剣道も習ったと云いますが、演技やセリフの稽古をみっちりや
 る余裕は無かったようで、演技指導は、上原がまるで(文楽の)人
 形のようにと語っているように、その場その場で黒澤が手取り足取
 りして教えたそうです。セリフは唖の役どころを多くして乗り切っ
 たと云います。

初々しい演技であってもピカリと輝く存在感があって、三船敏郎や千
秋実、藤原釜足など錚々たる役者達に引けを取るようなことはありま
せんでした。
僕が黒澤作品の中で一番好きなのがこの『隠し砦の三悪人』なのは、
痛快活劇であることも然ることながら、黒澤の求めた「気品と野生の
相反するもの」を彼女が巧まずして醸し出してくれたことで、凛然と
した作品に仕上がっていることにあります。特に終盤の火祭りの場面
が好きで、束の間ながらも雪姫の解き放たれた喜びが観ているこちら
にも伝わってきて嬉しくなるほど。結局は、雪姫の心ばえが苦難を共
にしてきた一党や敵将の田所兵衛までをも救うことになるのですから、
彼女こそこの物語の主役と云えるのです。それを見事に演じるという
より啓示してくれたように思うのです。

1958年5月27日に隠し砦の舞台となった兵庫県西宮市の蓬萊峡で撮影が
始まり、3度の台風のために撮影が大幅に遅れたこともあって、劇場公
開されたのはその年も押し詰まった12月28日のこと。
予算も大幅にオーバーしたものの、興行的には大成功で、1958年度の
邦画配給収入ランキングで5位、東宝配給映画の年間興行成績(58年7月
~59年6月)では1位となった。加えて第32回キネマ旬報ベスト・テンで
2位、第9回ブルーリボン賞で作品賞、海外でも第9回ベルリン国際映画
祭で監督賞と国際映画批評家連盟賞をそれぞれ受賞した。

好評を博したにも拘らず、上原美佐は10本にも満たない作品に出演した
だけで、「私には才能がない」とわずか2年で引退してしまった。
上述した座談会の映像のテロップには、「その後引退。現在2児の母親
として主婦業に専念している。」とあったが、(銀行員と1962年に結婚
したまでは判明しているが、)現在どうしているか気になったので調べ
てみたところ、2003年に亡くなったとのこと。(享年66。一般人ゆえに
その詳細は分からず仕舞い。)
 公募者の中の一人、樋口年子は、雪姫役の選に漏れたものの、宿場で
 上田吉二郎演じる人買いから救われる秋月領の百姓娘役を掴んだ。
 囚われ縄を打たれた彼女が「私が雪姫です」と云う場面には思わずク
 スリとしてしまう。百姓娘なのに高札を読めるのには、首を傾げてし
 まう。
 その樋口年子も1979年に39歳の若さで亡くなっている。

黒澤他スタッフ陣も三船他俳優陣もその主だったひとは殆どが物故者と
なったが、この『隠し砦の三悪人』は辛いときや悲しいときなど凹んだ
ときに必ず観る僕にとっては紅一点の作品。

すべてに合掌。

                               ブログトップへ戻る


つぶやきの部屋133

2024-12-09 20:07:01 | Weblog

「タコの惑星」

ちょっと前にネット記事に載っていたのですが、”人類滅亡後に地球の支配者となるのは
タコである”と英オックスフォード大学の研究チームが発表したそうな。

その理由として、
・タコは高い知能とコミュニケーション能力を備えている。
・タコは水の外で30分間呼吸できる。
・タコは彼らならではの陸地での狩猟法を開発できる。
そして、このことから
”一部の個体は海で都市を建設する可能性もある”としている。

人類滅亡は現実味を帯びていますが、サルの惑星にはならないでタコの惑星になるとはね。
卓見と思えるのは、126年も前の1898年にH.G.ウェルズがSF小説『宇宙戦争』で侵略者を、
タコに似せた姿で表現したこと。すでにタコの上記のような特性を知悉していたとしたら
大したものです。

僕は、原作も読んでいないし、原作に基づいて製作された1953年の『宇宙戦争』も観ていま
せんが、スピルバーグ監督作品『宇宙戦争』(2005年、トム・クルーズ主演)の映画は、TV
でですが、観ました。特撮が良くできていて手に汗握る作品に仕上がっていたと思います。
原作通りに地球外からの侵略者として描かれていますが、地下から湧き出てくるのですから、
人類滅亡後に地底深くに潜んで高度な文明を築いていたタコが、長い年月を経て、またもや
愚かな人類の出現によって、地上のみならず地下の世界まで累を及ぼされるのは敵わんと決
起して湧き出てきたのであれば面白いのに。そして人類を滅ぼして、地球がタコの支配する
惑星になればもっと面白いのに。
誰です、「このタコが!」なんて云ったのは。(◎_◎;)

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つぶやきの部屋132

2024-11-22 14:47:13 | Weblog

「初物尽くし」

大谷がナ・リーグの最優秀選手(MVP)を受賞しましたね。当然の受賞なのですが、
大谷が指名打者(DH)だけで守備に就いたことがないからと、メッツのリンドーアを
推すへそ曲がりな輩もいたようですが、満票での受賞が示すように、その驚異的とも
云える様々な記録には文句の付けようがない筈。(巻末を参考) 
 
DHでのMVP受賞が史上初ならば、二年連続での満票も初(3度のMVPがすべて満
票というのも初)、リーグを跨いでの連続受賞も初。おまけに二冠(本塁打と打点)王
だし、三冠王まであと一歩(打率は2位)だった。
 投手で途中交代してもDHで出場し続けることができるようにルールを変えた大谷
 ですからね。これで指名打者だけの選手や投手だけの選手にもレールを敷いてあげ
 たことになる。
 ア・リーグ、ナ・リーグの両リーグで受賞するのは1961年レッズと1966年オリオー
 ルズで受賞したフランク・ロビンソン以来2人目。 
 3度のMVP受賞者はエンジェルスでの同僚であったトラウトを含めて12人で、2位
 タイなのですが、1位はバリー・ボンズの7度ですから大谷に新たな目標ができた。
 35歳までが全盛期だと思えますので、記録を塗り替えることも十分考えられる。

なによりも50-50(本塁打数と盗塁数。最終的には54-59。59盗塁は2位)を達成した
最初の選手となったこと。へそ曲がりは、この異能の偉業達成にも目を向けるべきだ。
当分(それも結構長い期間)ボッチクラブとなる金色堂ですからね。

大谷自身にとっては、エンジェルス時代に熱望していた、ポストシーズンに進出し、
ワールドチャンピョンとなることが(チームの一員としての)目標だったと思うので
すが、それを移籍したその年に実現することが出来た。
上述したように35歳までは八面六臂の活躍が期待できそうなので、5連覇以上が望める
かも知れませんね。(これまでヤンキースの5連覇<1949~1953年>がある。)

三冠王、サイ・ヤング賞も含めて、これからも初物を沢山生み出してね。ヽ(^o^)丿

参考1)
大谷がナ・リーグで1位,2位となったのは、
・打席  731(1)
・出塁率 0.390(1)
・安打  197(2)
・打率  0.310(2)
・長打率 0.646(1)
・本塁打 54(1)
・長打  99(1)
・打点  130(1)
・塁打  411(1)
・得点  134(1)
・四球  81(2)
・盗塁  59(2)
・OPS 1.036(1)
・敬遠  10(2)
・ISO 0.336(1)※ISO(Isolated Power)は、打者の長打力を測るための指標
・本塁打率 11.78(1)

参考2)
大谷が獲得した主な表彰とタイトル
・週間MVP4回
・月間MVP1回
・本塁打王
・打点王
・スポーツメディア「スポーティング・ニュース」の年間最優秀選手※ジャッジを退けて受賞
・選手会ナ・リーグ最優秀野手
・正力松太郎賞特別賞
・シルバースラッガー賞(DH)
・エドガー・マルティネス賞※最も活躍した指名打者(DH)に贈られる
・ハンク・アーロン賞※卓越した打者をファン投票などで選出する
・ALL MLBファーストチーム(DH)
・ナ・リーグMVP

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つぶやきの部屋131

2024-10-31 20:23:43 | Weblog

「手に汗握る7点の攻防」

朝、目覚めたときに今日(現地10月30日)の第5戦は、7点が勝敗の分かれ目に
なると、まるで天からの啓示のごとく、頭に浮かんだのですよね。
それなら、打撃戦でさぞかし面白い試合になるな、なって欲しいななんて思っ
ていたら、ヤンキースのジャッジがホームランを打ったりして、あれよあれよ
と5点も取った。守ってはコールが第1戦目にましてドジャース打線を抑え込ん
でいた上に、フリーマンのホームラン級の当たりをジャッジがファインプレー
で捕球した。
こりゃ一方的になりそうだとガッカリして見ていたら、5回表にジャッジが何て
こたぁないフライを落球してから潮目が変わった。エラーが重なってあれよあ
れよという間に5対5になっちゃった。で、次の1点をどちらが取るかで勝敗が決
すると…。

で、6回裏にヤンキースが1点取った。ロス決戦になるのかなぁ。寝ていた子を
起こしちゃったことだし、大谷は逆にねんねんころりになっちゃったし、山本
にかなりのプレッシャーがかかるし、山本で負ければ、3連勝4連敗なんて悪夢
が待っているんじゃないか、なんてことも頭をよぎった。

でも7点じゃない。そして神様はヤンキースには微笑まなかった。第4戦のヤン
キースファンのベッツに対する不埒な行いにご立腹だったのか、8回表にヒット
無しで2得点が。
そして6対7となった。もしもヤンキースが2勝2敗であったなら、多分違う展開
になっていたように思う。追い詰められてベンチ全体が打ち沈んだようになっ
ていたからね、こりゃドジャースが勝ったとそのときに確信した。

勝敗はさておいて、今日の試合は実に面白かった。油断大敵という教訓や勝負は
下駄を履くまで分からないという諺を地で行く試合だったものね。(*^▽^*)

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つぶやきの部屋130

2024-10-28 13:02:50 | Weblog

「云っただけ番長」

目が据わっていても肝は据わっていない。
「聴くだけ番長」に続いて「云っただけ番長」ではね、こうなるのも
必然だったと思う、第50回総選挙。

今日(10月28日)の読売新聞朝刊の「編集手帳」には‟「政治とカネ」の
問題の鎮静化をはかるどころか、首相自らの言動や判断が逆風を強めた
面は否めないだろう🔶自民党総裁選での主張を覆し、異例の早期解散
に踏み切ったことは変節を印象づけた”とあるが、極めて正鵠を射てい
ると思う。
冷や飯を食わされていたときの言行は、引かれ者の小唄そのものだけど、
聴く者に耳障りのよいことをさんざん云ってきたので、しかも強面でネッ
チリと云うものだから、この人こそはなんて勘違いをしてしまう。
石破本人も思い違いをしていたのでしょうね。おそらく自分を支えてく
れて総裁にしてくれた森山幹事長の甘言に相好を崩して、国民の「ご祝
儀相場」を当て込んでの早期解散だったのだろうけど、自身が自信たっ
ぷりに与党で過半数が勝敗ラインなんて低い目標をたてたにも拘らず
惨敗。

裏金問題が惨敗の原因だなんて云っているようだけど、なら早期解散す
べきではないでしょうに。問題の鎮静化をはかるべく、得意の弁舌を揮
って国民の理解を得ることに腐心すべきだった。
それを「ルール」を振りかざして、裏金議員のレッテルを貼って、非公
認にしたり比例区での重複を認めなかったりしてクリーンである振りを
したものの、こともあろうか選挙中にそれら議員が党支部の代表だから
と、公認者と同額の2000万円を資金提供するなんて火に油を注ぐような
愚行をやってのけた。
ここまでやると、石破と森山が邪魔者を消そうとする企みが透けて見え
るようにも思える。(その割を食ったのが与党公明党でもあったような。)

自民党の党是であり保守本流の憲法改正、それがもっとも可能な勢力が
あったにもかかわらず、石破本人もさんざんあちこちで主張していたに
もかかわらず、石破が「云っただけ」に終わらせてしまった。所詮は愚
かな二世議員のひとりでしかなかった。

責任問題が党内で巻き起こるのは必定なのだが、選対委員長の小泉の詰
め腹を切らせて、トカゲの尻尾切りで逃げ切ろうとする。そこには親玉
としての責任の取り方すら知らない、据える肝すらない、情けない口先
だけの姿しか見て取ることができない。
このまま石破政権が続くようでは、来年の参院選も都議選も惨敗を喫す
るだろうし、何より国内、国際ともに日本丸が海図の無い航路を漂流す
ることになるのが恐ろしい。嘆かわしや~(/_;)

                               ブログトップへ戻る


つぶやきの部屋129

2024-10-25 13:19:59 | Weblog

『いごこち満点』

若い頃、調べてみたところTBSで1976年4月6日から9月28日まで放映されていたと
ありますから、昭和51年で28歳を挟んだ時期に当たりますが、このコメディータ
ッチのホームドラマで初めて西田敏行という俳優を知りました。

僕は、子供の頃に『風小僧』や『白馬童子』を見て以来、山城新伍のファンでし
たから、彼が出演しているので見始めたのですが、福島弁丸出しの西田敏行と
山城新伍との掛合いが面白いの何のって、すっかり嵌ってしまいました。

その懐かしい番組が再放送で流れていた(BS11で毎週木曜日夕方)のを知ったの
は、西田の訃報を知ってから。全25話ですから、最終話が昨夜10月24日でしたの
で、5月からやっていたのですね。その頃は個人的にかなり落ち込んでいたもの
ですから、そういった情報に気を配る余裕がなかったのです。
ラス前(第24話)の10月17日が西田の亡くなったその日ですから、午後6時から
の放送には間に合わず、かろうじて最終話(第25話)だけ見ることができました。
懐かしかったですね。西田も29歳ちょい前ですから若い、細い、元気、溌剌!
是非再放送してもらえないだろうかと局に要望したけど、ボケないうちにやって
くれるだろうか…。

西田のその後の活躍は皆さんご存じの通り。あとちょっとで喜寿(11月4日)を迎
えるというのに。享年76。
冒頭の画像は、番組の1コマ。
合掌

                               ブログトップへ戻る


つぶやきの部屋127

2024-09-20 16:49:13 | Weblog

「一生忘れられない日」

と試合後のインタビューで答えた大谷。
それもその筈、50-50(51‐51)をいとも簡単に成し遂げた。
つい此間、フォーティ・フォーティ・クラブの仲間入りを果たし
たばかりだと云うのに、当分誰もこないであろうフィフティ・
フィフティ・クラブで独りぼっちとなった。

それにしても今日の試合(対マーリンズ)での大活躍で他の記録
達成も見えてきたのですよね。
 6打数6安打(内HR3本)、10打点。2盗塁。サイクルヒットの
 可能性もあったが三塁でタッチアウト。

ホームラン(現時点で51)、打点(現時点で120)はナ・リーグで
トップ。まず二冠は揺るぎないところですが、8月の不振で下げた
打率も今日の結果で三冠王がチラっと見えてきた。
現時点での打率は「.294」で、残り試合はロッキーズ戦3、パドレ
ス戦3、ロッキーズ戦3の9試合。
現時点でのナ・リーグの首位打者はアラエス(パドレス)の「.320」
ですから、その打率に大谷が達するには、以下のようになります。
 必要な総安打数=目標打率×総打席数。これに実際の数値をあて
 はめると、(残り試合は1試合あたり4打席とした)
 0.320×(567+9×4)=192.96

つまり、約193本の安打が必要です。現在の安打数が170本なので、あ
と23本となります。 
ですから、一試合当たり2.555…本。5試合3安打、4試合2安打で達成
できることになります。
厳しい数字ですが、アラエスも打率を落としてくる可能性があるので、
こちらもフィフティ・フィフティ。ホームでの対パドレス3戦が見もの
です。!(^^)!

追記)2024.10.03
大谷は197安打だったので、どこか数字が違っていたようです。
567という数字に間違いがあった、と反省しきり<(_ _)>
それにしてもおしかったね。でも沢山良い記録を遺したから
チョベリグ(もはや死語)(^^ゞ


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つぶやきの部屋126-4

2024-09-07 16:35:15 | Weblog

「歌を盗られたカナリヤは(その4)」

ひばりの「不死鳥コンサート」には、コロムビアに大儲けを企んだ仕掛け人がいて、ひば
りを焚きつけて開催の運びに至ったのだけど、ひばり自身はちあきの歌であったなんて知
らなかったと思いたい。(「真赤な太陽」の前科があるので何とも云えないが、そのとき
とは状況が違う。)
で、既に吹き込んでいたものを選りに選って、さんざんちあき等を甚振(いたぶ)ったコロ
ムビアに搔っ攫われたことに、加えて唯々諾々と従ったテイチクに対しても、腹に据えか
ねる思いがしたと思うのです。
 コロムビアは、ちあきが郷鍈治と付き合い始めてから彼女の音楽活動に影響が出ている
 ことに不満を持っていて、『週刊文春』(1978年9月14日号)に‟コロムビア側はときに
 は二人の関係をマスコミに否定するなど努力を重ねてきた。それなのに一言の断りもな
 く、電撃結婚をしてしまった”とリークしたのも、7月に専属契約解除をしたことの言い
 訳でしかない。それ以前(1975年6月にそれまでの三芳プロダクションから独立後)にも、
 三歳で死別したことになっていた父親が生きていて、たびたび事件沙汰を起こしていた
 ことや、ちあきとの交際がうわさされていた森進一、千昌夫、荻島慎一と結び付けられ
 るようにして、ちあきが年に一度は産婦人科に入退院をくりかえしていたと酷い記事を
 書きたてられている。
 先に取り上げた映画『象物語』の主題歌2曲をちあきが歌ったときにも、「レコード業界
 のためにも、当方が契約を解除した歌手を使ってほしくない」とコロムビアが横槍を入
 れたらしい。

このときに「もう歌いたくない」とちあきは郷鍈治に訴えたのでしょう。
 コロムビアを契約解除されたときで無いと思うのは、デビュー3年目(1971年)に目黒区
 八雲に当時の金額で三千万円とも四千万円ともいわれた邸宅を建て、そこに母ヨシ子と
 二人の姉の家族と一緒に住むようになって、一家の大黒柱として稼がなきゃならない立
 場にあったから。郷鍈治と結婚したばかりでもあり、生活のためには歯を食いしばって
 頑張らなけりゃいけないときに、そのような甘えを云う筈がないと思うからです。

母ヨシ子が1984年1月18日に乳ガンで亡くなっていたので、最早ちあきにとっては、彼女の
天賦の才能の理解者であり、やくざな世界での庇護者であり、信頼のおける者は郷鍈治だ
けになっていた。
その彼が「僕のために歌ってほしい」、防波堤となって守るからそうしてほしいと願った
のでしょう。
だから郷鍈治が死の間際に「もう歌わなくていいんだよ」と声を絞るようにしてちあきに
伝えたことに繋がる。
 よくぞ宥めてくれたと、郷鍈治に感謝したい。なぜなら、その後も素晴らしい歌を沢山
 残してくれたのですから。ただし、船村徹作品を新たにレコーディングすることは無か
 った。

でもどうして予定されていたオリジナル・アルバムが宙に浮いてしまったのだろう?
『LADY DAY』の再演に協賛社として名を連ね、宣伝用ポスターにそのアルバム発売日まで
告知していたと云うのに…。
 当時のテイチク社長は、コロムビア時代の「喝采」以来ずっとちあきに寄り添ってきた
 東元晃。彼がちあきを慰撫して、ちあき側も気を取り直して、アルバム制作に取り組ん
 だ筈なのに。

結局、オリジナル・アルバムの発売は見送られ、そのアナウンスも無く、『LADY DAY』に
ついても大きな劇場での再演も行われることはなかったし、収録されたであろう映像や
歌の数々についてもテイチクが何ら語ることは無かった。
この辺りの経緯は僕の中でも揣摩臆測すら及ばない。
 
冒頭の写真は、その見出しにあるように2年前の『週刊新潮』に掲載されたもので、亡夫の
命日に母も眠る墓に向かうちあきの姿です。(例年同じような出で立ちだ。)
写真に添えた説明書きには‟近所のスーパーに立ち寄り、墓前に供える花を念入りに選んで
いた。(中略)彼女がスーパーで買ったのは供花だけではない。30分ほど店内を歩いてカ
ゴに入れたのは、2割引きの芋の煮っ転がしや、3割引きのカット野菜といった食料品。(後
略)”とある。
アパート経営や印税もあって金銭的には困っていないが、外出も滅多にしないし、上記の
ように質素な生活をしているようです。

歌を忘れたカナリヤは、「♪ぞうげの船に銀のかい 月夜の海に浮かべれば 忘れた歌を思
い出す」けど、歌を盗られたカナリヤは、もう二度と華やかではあるが恐ろし気な歌の世界
には戻らずに、ひたすら平平凡凡たる静かな余生を送っている。

直(9月11日)に郷鍈治の三十三回忌がやってきます。その後すぐに(9月17日)ちあきが喜
寿を迎えます。
デビューは、A面「雨に濡れた慕情」B面「かなしい唇」をリリースした1969年6月10日です
から、55周年になります。
33、55、77とまるで七五三がダブルでやってくるような記念の年ですから、商売熱心な連中
がまたぞろ騒ぎ立てていますが(もっともファンとしてはどのような形であれ嬉しいのです
が)、ちあき本人は多分無関心。洗濯機の中で様々な色合いの衣類がまるで万華鏡のように
ぐるぐる回る様をぼんやり眺めて居たいのではと…。

(了)

                               ブログトップへ戻る


つぶやきの部屋126-3

2024-09-03 13:01:00 | Weblog

「歌を盗られたカナリヤは(その3)」

2003年4月下旬に通販商品として日本教育音楽センター(後ユーキャン)から発売さ
れたアルバム『うたくらべ ちあきなおみ』。その名が示すようにコロムビア、ビ
クター、テイチク時代の作品をVol.1「誕生」からVol.10「爛熟」まで10ブロックに
分けて、それぞれにカテゴライズされた166曲もの作品が収められてあって、それ
ぞれの時代を味わうことができるようになっています。
この商品には歌詞集の他にちあきのフォトアルバムが付録として付けられてあって、
そこに縁のあるひとの賛辞が寄せられているのですが、その中のひとり船村徹は次
のように述べています。
“唄書きにとって、「ちあきなおみ」ほど恋しくなる素材はない。「美空ひばり」と
の唄作りが闘いなら、ちあきとのそれは恋愛のようなものだ。”(抜粋)

この前には、‟年齢のせいだろうか、(中略)小さな悲しみのようなものが心に刺さ
ったまま取れずにいる。「ちあきなおみ」をあきらめきれずにいるからなのだ。”と
ある。心に刺さったまま取れずにいるものとは一体何なんだろう。それが「歌を盗ら
れた」ことと関係していて、そのために彼女との信頼関係が損なわれて、‟あの娘は
きっと戻ってくる”と語った船村の望みが到頭叶わうことがなかったとしたら…。

船村は、ちあきと美空ひばりとを喩えで比較していますが、それが同じ曲を通じての
想いだとしたら…。
幻のオリジナル・アルバムの発売予定が1990年6月21日であるならば、アルバム『紅と
んぼ』同様に12曲ほどの新譜で臨まなければなりませんから、すぐにというより既に
取り掛かかっていた筈です。
 『紅とんぼ』のリリースが1988年10月5日で、それに収めるか迷った「母のいない
 故郷」が1983年以前に作られていたとしたら、かなり前から兄弟とも云える2つの
 オリジナル・アルバムが同時に企画されて、その準備に取り掛かっていたと考える
 ことができます。

では、その頃に何があったのか?
地方公演中の1987年4月22日に慢性肝炎と両側大腿骨頭壊死という重病で済生会福岡
総合病院に緊急入院した美空ひばりが、再起不能説も囁かれる中、突然その夏(8月)
に退院したのは、竣工した東京ドームをこけら落としの舞台にする話が持ち上がった
からであり、直ちに復帰作の依頼が船村徹と星野哲郎に持ち込まれた。
そして、その年の10月9日に演奏と同時録音(伴奏と同時の一発録り)されたのが、
以下の2曲である。
「みだれ髪」、作詞星野哲郎、作曲船村徹、編曲南郷達也
「塩屋岬」、作詞星野哲郎、作曲船村徹、編曲蔦将包
そして、A面「みだれ髪」、B面「塩屋岬」として1987年12月10日にコロムビアから
発売され、5万人もの観客を集めて行われた1988年4月11日の「不死鳥コンサート」の
話題も相俟って、ミリオンセラーとなった。
 美空ひばりのシングル出荷枚数の集計によると、「川の流れのように」の205万枚
 を筆頭に、「柔」195万枚、「悲しい酒」155万枚、「真赤な太陽」150万枚、「リ
 ンゴ追分」140万枚、に次いで「みだれ髪」が125万枚となっている。
 
同時録音せざるを得ない体調の中、立ち会った船村はこのときのことを以下のように
語っています。
”「みだれ髪」のワンコーラス目の詞でいうと♪投げて届かぬ 想いの糸が~という
一節がある。この届かぬの『ぬ』から『が』の間の音の動きを、私は完全五度の音程
に書いておいた。この部分は、私が最もあれこれと苦しみ抜いたところである。完成
した段階でも、なんとなく気持ちが引っかかっていたのだった。……スタジオに流れ
るひばりさんの歌は、とても病み上がりとは思えないような、張りのある美しい歌声
だった。録音後、改めて聞いてみると、私が書いた完全五度音程が、スムーズに流れ
る短三度の動きに直され、歌われていたのだ。「やられた……」。だれにも見つから
ないように、その場で私は譜面を書き直した”。
 短三度(たんさんど)は、音楽理論における音程の一つで、二つの音の間に半音が
 3つある音程を指す。
 例えば、ド(C)からミ♭(E♭)の音程が短三度で、具体的には、以下のような特
 徴がある。
 ・音程の幅:短三度は、全音1つと半音1つの組み合わせで構成される。例えば、ド
  からミ♭、レからファなどが該当する。
 ・音の響き:短三度の音程は、長三度(全音2つ)に比べてやや暗く、悲しげな響き
  を持っている。
 要するに、ひばり得意の侘しげな演歌調になる。

ね、船村はひばりとは闘うどころか有無を言わさずあっさりと寄り切られた。作曲家も
形無し、向っ腹も立った筈。
対して、ちあきはその部分を船村の音符に込めた思いを優雅に表現仕切って歌った筈。
 完全五度(かんぜんごど)は、音楽理論における基本的な音程の一つで、以下のよ
 うな特徴がある。
 ・音程の幅:完全五度は、基音から七半音(全音4つと半音1つ)離れた音程です。
  例えば、ド(C)からソ(G)、レ(D)からラ(A)などが完全五度に該当する。
 ・音の響き:完全五度は、非常に安定していて調和の取れた響きを持つ音程で、
  このため和音の基礎としてよく使われる。音楽の中で非常に重要な役割を果たし
  ており、和音の構成やメロディの進行において欠かせない要素である。
 要するに、ちあき向きの抒情的な曲調になる。

美空ひばりはのファルセットは誰もが認めるものですが、ひばりの母からは本当はファ
ルセットは苦手なのでやめるよう言われていたにも拘らず、「みだれ髪」では一番高い
ファルセットのさらに半音高い音をサビで使った。
平成24年(2012年)1月7日の「週刊N新書」(テレビ東京、11:30~)に船村徹がゲスト出
演したときに、番組ホストの田勢康弘に「みだれ髪」について、病み上がりの美空ひば
りに、あのファルセットを使用する出だしはきつかったのでは、と突っ込まれていた。
船村は、あえてそのようにしたとか何とか苦しい言い訳じみたことを返していたけどね。

星野哲郎も次のようなことを語っている。「みだれ髪」の二番の歌詞に‟祈る女の性かな
し”があるが、ひばりの容態を見てのことかのようにして、他の歌詞に変えることを打
診したところ、ひばりは「今の私は『祈る』という言葉を大事にしたい」と云ったので、
そのままにしたと。
初めからひばりのために書いたのであれば、容態がどのようなものか人伝にでも分かり
そうなもの。取って付けたようなエピソードとしか受け取れない。

ね、美空ひばりにと考えていたメロディーや歌詞じゃなかったように思えるでしょ。
ちあきならファルセットじゃなく地声で歌える。それも演歌調じゃなく抒情的に歌える。
それに先ほど並べて比較したアルバムの中で『紅とんぼ』には、作詞星野哲郎、作曲船
村徹の「ひとりしずか」があるけれど、『男の友情』には1曲も無い。けったいな話だ。

(続く)

                               ブログトップへ戻る


つぶやきの部屋126-2

2024-09-02 13:03:21 | Weblog

「歌を盗られたカナリヤは(その2)」

『紅とんぼ』とあるのは、1988年10月5日発売のオリジナル・アルバム『紅とんぼ
/ちあきなおみ 船村演歌を唄う』を指しています。
この後に発売されたのは、1989年3月21日発売のアルバム『男の郷愁』と1989年6月
21日発売のアルバム『女の心情』。どちらも時期的に合致しないだけでなく、とも
に昔の歌をカバーしたものです。
しかも冠にあるように『紅とんぼ』は全て船村徹作曲のものなのに、カバーものに
は船村作品は『男の郷愁』では「矢切の渡し」の1曲だけ、『女の心情』でも「さだ
め川」の1曲だけです(共にコロムビア時代のものでは無く、テイチクで再レコー
ディングしたもの)。
オリジナルとあるからには、『紅とんぼ』同様に船村徹の新譜尽くしのアルバムで
あった筈なのです。

ちあきが表舞台から姿を消してから3年近くの時を経て怪しげなアルバムがリリー
スされました。1995年5月21日発売の『男の友情 ちあきなおみ船村徹を唄う』と
題されたものです。
 1992年9月11日に最愛の夫郷鍈治が肺がんが原因の心不全で亡くなり(享年55)、
 16日の記者会見の席ではちあきは姿を見せず、以下の自筆コメントが発表(代
  読)された。
 「故人の強い希望により、皆様にはお知らせせずに身内だけで鎮かに送らせて
 いただきました。主人の死を冷静に受けとめるにはまだ時間が必要かと思います。
 皆様には申し訳ございませんが、静かな時間を過ごさせて下さいます様、よろし
 くお願い申し上げます。ちあきなおみ」。
 以後表舞台から姿を消した。
 ※14日に親族だけで郷鍈治の密葬・告別式が行われた。

冒頭の画像は、カセットで発売された二つのアルバム、『紅とんぼ/ちあきなおみ
船村演歌を唄う』と『男の友情 ちあきなおみ船村徹を唄う』とを比べたものです。
この二つの内容を見比べながら論を進めることにします。
怪しげなアルバムで、赤枠で囲った曲は『紅とんぼ』に収録されているものですし、
青枠で囲った曲はアルバム『男の郷愁』に収録されているもの、ピンク枠で囲った
曲は『女の心情』に収録されたものです。
黒枠で囲った曲は先述した「母のいない故郷」で、鳥羽一郎が1983年11月にシング
ルリリースしています。ちあき版は、この怪しげなアルバムが初出になりますが、
この後で述べる理由から2001年9月21日発売の5枚組アルバム『The Anthology of NA
OMI CHIAKI ちあきなおみ大全集』まで待たねばならなくなりました。
 ちあきの「母のいない故郷」は、抒情的なよくできた作品だと思うのですが、船
 村は『紅とんぼ』に収録することをしなかった。そして幻となったオリジナル・
 アルバムへの収録も考えていなかったのだろうか。それで弟子の鳥羽一郎に回し
 たのだろうか。ただ、記憶が曖昧で申し訳ありませんが、何かのTV番組(ちあき
 の特集番組であったか)で、船村の奥様が、船村がちあきの「母のいない故郷」
 を何度も何度も繰り返し聴いていたと話していたので、船村には捨て難い思いも
 あったのは確か。
 なお、鳥羽一郎のリリース時期から推して、アルバム『紅とんぼ』と幻のオリジ
 ナル・アルバムに着手した時期は1983年より前と考えることができそうです。

怪しげなアルバムで枠囲いしなかった曲(*印の付いたもの)は、全てJASRACには
最近まで登録されていなかった(ちあきの名が無かった)ものです。つまり未発表
曲として長いこと扱われていたのです。
 「母のいない故郷」もしばらくは同じ扱いになっていたために、前述したように
 「盗られた歌」ではないかとの疑いをもたれた。

何故そうなったのかですが、未完成曲(仮歌の状態)のものが含まれているとクレ
ームが付いたからです。船村徹からと云われていますが、それはテイチクへ申し出
たのが彼であっただけの話であって、ちあき側からのクレームを受けた船村がそう
したのが真相でしょう。船村の冠の付いたアルバムですからね、発売にあたって彼
の了承を得ていない筈が無いからです。
その仮歌と明らかに分かるのが「夜啼鳥」です。残りの4曲のうち「女の影」と「炎
の秋」も好い出来映えとは云えません。(個人的には、歌詞よりもメロディーに手
直しが必要と思える。)
 「たまゆらの宿」と「居酒屋『津軽』」は、ちあきの歌唱もしっかりしています
 ので納得の行く仕上がりだったと思います。ですからこの2曲はちあき以外にも
 提供されて数名のアーティストが登録されています。しかし、ちあきが最初に登
 録されてしかるべきなのに、それぞれ3番目と2番目です。「夜啼鳥」、「女の
 影」、「炎の秋」の3曲に至っては、ちあきしか登録されていません。
 つまり船村自身満足の行くものは、他の歌手に提供したからなのですが、何故に
 そのようなことになったのか?
 
結局、オリジナル・アルバムでもベスト盤でも無い、この怪しげなアルバムは2年で
廃盤となります。
 降って湧いたようにリリースされたのは、おそらくその年に紫綬褒章を叙勲した
 船村を祝っての(テイチクの忖度の働いた)もののように思うのですが…。
 廃盤になったとは云え、2年間は流通していたので、経緯や事情は不明ですが、今
 になってちあきの名もJASRACに登録された。

作品には、作詞家、作曲家、歌手の他に編曲家も加わります。船村徹の長男蔦将包
も船村作品に数多く携わっています。
ここではアルバム『紅とんぼ』とアルバム『男の友情』について、どのようなメン
バーが携わっていたのか(船村を除いて)曲ごとに比べてみることにします。
(曲名、作詞家、編曲家の順。◎印は両方のアルバムで重なったもの。〇印は他の
アルバムからのもの。×印はちあきの歌としてはボツとなったもの。)

◎「紅とんぼ」、吉田旺、南郷達也
◎「都の雨に」、吉田旺、南郷達也
・「情け歌」、石本美由紀、丸山雅仁
◎「君知らず」、千家和也、南郷達也
・「冬の華」、吉田旺、前田俊明
・「帰郷」、吉田旺、蔦将包
◎「歳月川」、新本創子、南郷達也
◎「しのび雪」、新本創子、前田俊明
◎「汐鳴り」、吉田旺、丸山雅仁
・「昭和えれじい」、吉田旺、南郷達也
・「ひとりしずか」、星野哲郎、前田俊明
・「片情」、吉田旺、蔦将包

〇「男の友情」、高野公男、蔦将包←アルバム「男の郷愁」から
〇「さだめ川」、石本美由紀、蔦将包←アルバム「女の心情」から
×「夜啼鳥」、吉田旺、丸山雅仁 ←仮歌、ちあきのみ登録
〇「矢切の渡し」、石本美由紀、蔦将包←アルバム「男の郷愁」から
×「女の影」、千家和也、斉藤恒夫←ちあきのみ登録
・「母のいない故郷」、新本創子、南郷達也←後にちあきも登録
×「炎の秋」、しの綾、前田俊明←ちあきのみ登録
×「たまゆらの宿」中山大三郎、丸山雅仁←後にちあきも登録
×「居酒屋『津軽』」吉田旺、丸山雅仁←後にちあきも登録

こうすると面白いことが分かります。
あくまでも推測ですが、殆ど同じメンバーで臨んでいることから、ボツ曲も「母の
いない故郷」と同様にかなり前から着手していたと思えることです。
幻と消えたオリジナル・アルバム用として『紅とんぼ』同様に新譜が作られていた
としたら、ボツ曲だけではまだ足りていません。一体全体10曲ほどの新譜はどうし
たのか?

(続く)

                               ブログトップへ戻る


つぶやきの部屋126-1

2024-09-01 14:35:20 | Weblog

「歌を盗られたカナリヤは(その1)」

ひと頃、ちあきなおみのファンの間で、彼女が呟いたとされる「歌を盗られた」
が、どの曲なのか憶測が飛び交ったことがあるのですよね。

いつそれを呟いたのか、それがハッキリすれば絞り込むことも可能になるのです
が、分からないが故に次のようなものが取り上げられました。

まずは、コロムビア時代の「矢切の渡し」。後に細川たかしが歌って、レコード
大賞に輝いた石本美由紀作詞、船村徹作曲のちあきにとって代表曲の一つ。
でもね、コロムビアを去った(1978年7月21日契約解除)後に誰が歌おうと競作
扱いならば、盗られたとは云わない。ましてや自分がレコード大賞を獲れたかど
うかわからないものをやっかんで口走るほど彼女は迂闊でも愚かでも無い。
それにちあきは、テイチク時代に「矢切の渡し」を再レコーディングしてもいる。
盗られたとは言い難い。 
 ちあきを筆頭として、84名(組)のアーティストがJASRACに登録されている。
 ※JASRACは、一般社団法人日本音楽著作権協会のこと。
 ちあきの「矢切の渡し」は、初めは「酒場川」のB面曲だったが、後に梅沢富
 美男が芝居でのBGMとして使用したことから話題となり見直されるようになっ
 た。
 (ちあき本人は「酒場川」の方が気に入っていた。僕もこの曲の方が優れて
 いると思うけど、一般大衆に受けることとは別の話。ちあきにミリオンセラ
 ーが無いのも彼女の歌が大衆向けではないからだと思う。)

次に上がったのがサントラ『象物語』に収録された「風の大地の子守唄」と「ア
フリカン・ナイト」。シングル化にあたって黛ジュンに替わったことからその
ような見方がされたのですが、映画が劇場公開されたのが1980年3月20日なので、
ちあきは無所属の状態で引き受けたことになり、後にそれらの版元であるCBS・
ソニーに移籍した黛ジュンがシングル盤でリリースするのは自然の流れ。
(JASRACにはアーティストとして黛ジュンの名しか無かったことからも、ちあき
側とは相互了承済みの映画だけでのワンポイント・リリーフであると考えるのが
妥当だ。以前にも書いたように本来はCBS・ソニー所属の山口百恵が歌うことに
なっていたのが結婚のゴタゴタからフリーのちあきにお鉢が回ってきた。)
これまた盗られたとは言い難い。
 黛ジュンは、1980年に東芝音楽工業からCBS・ソニーに移籍した直後の2月25日
 に上記2曲のシングル盤をリリースしている。レコーディング時期は不明だが、
 短期間での発売に至るためには、ちあきの歌を参考にできる状況にあったと
 考えることができる。

次に取り上げられたのは、テイチク時代にレコーディングされた「母のいない故
郷(ふるさと)」。
これはこの後に解き明かして行く曲でもあるので、ここでは簡単に触れると、
当初JASRACでのアーティスト登録に他の歌手の名はあってもちあきの名が無かっ
たことから生じた疑惑でした。
現在は、5人中の4番目にちあきも登録されています。ちあきの曲がしばらくお蔵
入りしていて、それが解禁されて世に出た時期が遅かっただけなのですが、その
時期がちあきが長期の活動休止に入った後なので、いかにも怪しげですが、後に
述べる理由から、この曲もちあきが口走ったものとは違うと思います。

では、ちあきが盗られた曲は何だったのだろうか。
ここからは、憶測の域を出ませんが、ヒントにはなると思えることを縷々(るる)
述べて行きます。
その手掛かりとなったのが、冒頭に掲げた見出し用の画像で、ちあきが最初に手
掛けたソロ・ミュージカル『LADY DAY』の宣伝用ポスターでした。
正確に云うと、初演(1989年11月)でのものでは無く、好評を得て再演(1990年
5月)したときのものです。、
 『LADY DAY』は、ちあきとピアノ(倉田信雄)だけのひとりミュージカルで、
 オリジナルはロネット・マッキーの『Lady Day at Emerson's Bar & Grill』。
 死と向き合ったビリー・ホリディをロネットがニューヨークの小さなホールで
 演じて絶賛された。ロネットが歌ったジャズの名曲の数々を吉田旺が和訳し、
 ちあきが歌い演じ、いまや伝説と化した舞台です。
 ※「LADY DAY」は、ビリー・ホリディの呼称。

初演のときの協賛は「金鳥」だけでしたが、再演のときには「テイチク」も名を
連ねているのは、好評を得たことから商売になると踏んだからだけなのか?
 シアターVアカサカというキャパが250人ほどの小さな劇場での公演であり、
 当初は評判にもならなかった代物。当該劇場は小さいながらも、俳優で演出
 も手掛けたことのある瑳川哲朗が1989年2月に設立・運営したものであり、
 収録機材は揃っていた。

でもそれだけではないと思うのは、歌を盗られたことと関係がありそうだから。
映像が未だに日の目を見ないのもそれゆえと思えるから。

画像下側の白い帯の左側にある赤い楕円の中、少し小さいので読み難いのですが、
“『紅とんぼ』から1年半、ちあきなおみの新境地を開く、待望のオリジナル・
アルバム6月21日発売予定”と書いてあります。
ところが、この再演直後に発売予定とされていたオリジナル・アルバムは発売さ
れなかったのです。

(続く)

                               ブログトップへ戻る


つぶやきの部屋125

2024-08-25 13:05:34 | Weblog

「ほっととホット」

「(40―40達成は)もちろんうれしい。何より勝てた、最後に打てたことが、
本当に、ドジャースに来てからの、いまのところ一番の思い出になった」
大谷にとっては通過点でのことでしかないとは云え、やはりドラマチックな真夏の
出来事でしたね。

見出しに使った画像は、大谷が満塁サヨナラホームランを捉えた瞬間、その飛球の
行方を追う観客たちの様々な仕草・表情、三塁を回るときのヘルメットを放り投げ
て飛び跳ねる大谷の姿をコラージュしたものです。

「(打席に入り)構えている段階で、いい未来があまり見えていない感じ」
大谷の8月の成績、ホームランこそ7本打っていたけど、打率は1割9分8厘(いずれも
現地22日現在)と不振も不振の大スランプに陥っていた。
だからね、大谷に打席が回ってきたときに、またチャンスを潰すのでは、なんて不安
だったのですよね。
それまで4打数1安打、その安打だって内野安打で決してよい当たりではありませんで
したからね。

「最初分からなかったので、(外野手が)触っているか、フェンスに当たっているか。
審判が(手を)挙げてくれて分かりました」
それほど微妙なグランドスラムだったわけですが、人知の及ばぬ力が働くのがヒーロー
のヒーローたる所以。まるで天による筋書きのようなヒーロードラマでしたからね。

「うれしいっていうよりほっとした感じ。勝って、打てて良かったなっていうのがまず
(スタンドに)入った瞬間はそんな感じだった。興奮っていうよりかは、ほっとした感じ
の方が強かった」
出てきた出てきた掲題が。不振な上にチャンスに弱いなんてレッテルを貼られていたか
らね、安堵もしただろうけど身体は正直。昨年のWBCでトラウトをスイーパーで三振に仕
留めて優勝したときに投手大谷が被っていたキャップを放り投げたのを覚えているでしょ。
昨日もヘルメットをそうした。身体は宙を跳ねていた。ホットだったのですよ。
プレッシャーという名の肩の荷が下りて、心も身も軽くなった。「ほっと」と「ホット」
が、ない交ぜになっていたのですよ。

おまけ。
大谷、髪型変えましたね。ずっと男前になりました。裕次郎くらい短くしても好いかな。


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