私の日記帳

主に趣味の旅行やダイビングのことを記していましたが、
このごろは母の思い出日記のようになっています。

在宅死の条件

2009-05-22 | 日記
母は家で亡くなった。
医療用のベッドだったけれど
酸素マスクの機械音が響いていたけれど
おしっこの管がついていたけれど。
確かに「我が家」だった。

最愛の夫
毎日お見舞いに来てくれていた近くに住む姉
娘である私
この3人が見守る中呼吸が止まった。
もうひとりの娘である私の姉が出勤し
唯一の孫である私の息子が登校し
普通の家庭の朝の生活の中での死だった。

なぜ病院で死ぬ事を選ばなかったか?
自然と流れがそうなったとしか言えない。
条件が整ったから。

病院に見捨てられて、いきなり傾眠。
父はうろたえて、どこに助けを求めれば良いかわからなかった。
そして私に電話してきた。
駆けつけた私も正直わからなかった。
救急車を呼ぶか
前の大学病院の緊急に駆け込むか
それとも紹介された病院に連絡してみるか。
そして連絡したのが、紹介された病院だった。
そこから在宅医療がはじまり、在宅死への入り口になった。
もし救急車を呼んでいたら
大学病院に運び込まれ、二度と家には戻れなかっただろう。
在宅医療をしながらも、家での介護は不安だらけだった。
ホスピスに申し込んだが満床で3ヶ月待ちだった。
しばらく私が助っ人として通い、父と介護した。
私が父と喧嘩をし、今度は姉が助っ人に。
父は転移したガンを切除したばかりという最悪のタイミング。
姉も父も疲れていたところに、新しい助っ人登場。
遠くに住む母のお姉さんが、四国から遥々来てくれた。
「遠くの身内より近くの他人」という言葉はあてはまらない
2週間ほど居てくれた。
ホスピスを待っている間に、父までも駄目になりそうだった。
そこで、老人ホームのような療養型の入院施設に申し込んだ。
入院許可が出るまでみんなで助け合おう!
と言っていたら結構早く許可が出た。
同じ頃、在宅の医師から余命2週間と言われた。
そこで、急遽家族会議。
母は話が出来る頃「できれば家族と一緒にいたい」と言っていた。
あと2週間なら最期まで家で皆で過ごそう。
父も姉も私も同じ気持ちだった。

父は病気でフラフラ
姉は会社員
ということは・・・・
そこで私が子供を連れて、実家に移り住むことになった。

朝、姉が泊まっていた日は父が駅まで車で送っていき
そしてまた父が子供を学校に車で送って行き
8時には、元助っ人の四国のお姉さんからモーニングコール
お昼前には近くの親戚がオカズを持ってきてくれる。
お昼ごはんを食べたら、私が自宅に戻り、
子供を学校から迎え、お稽古事に送り出し、買い物をし、夜また実家へ戻る。
そして私が母の夜の見守りをする。
そんな毎日だった。

これから在宅死を目指す人がいるのなら読んで欲しい。
私達家族が在宅死を迎えられたのは
どんな条件が整ったからなのか。

一、母が病院を望まなかった。
一、家族以外に助けてくれる人がいた。
一、姉が独身で介護休暇が使えた。
一、近くに住む私が専業主婦で夫の理解があった。
一、医師が深夜でも駆けつけてくれた。
一、期間限定の介護だった。

こんな条件です。
なかなか難しいと思う。
一つでも欠けると無理だと思う。

在宅死についての是否はさておき
母はどう思っただろう。
そこが一番肝心だけど、誰にもわからないことです。

最新の画像もっと見る