私の日記帳

主に趣味の旅行やダイビングのことを記していましたが、
このごろは母の思い出日記のようになっています。

安楽死と自然死

2009-06-03 | 日記
ガンで死ぬということで
大きな勘違いがいくつかあった。
その一つがどういう死に方をするかということ。

自然死というと
穏やかな死をイメージしていた。
自然に、眠るように、気が付いた時には息をしていない。
みたいに。

でもそれは
俗に言うところの安楽死のことだったんだ。

安楽な死ならば、自然だろうが薬を使おうが安楽死。
苦しもうが安楽だろうが、自然に死に至れば自然死。
ということだったんじゃないかな。

私は自然死というのは安楽死のことだと思っていた。
でも違ったんだな。
母は自然死だったけど、安楽死ではなかったと思う。
苦しみぬいた果てでの死だったと思う。

ガンで死ぬということは
今の時代ではありふれた出来事かもしれない。
でも、在宅で死ぬ人はまだ少数だと思う。
入院していると見ないですむことも
在宅なら全部見ることになる。

ガンで自然死を目指すのはオススメできない。
なぜなら
苦しみぬかなければいけないから。
それなら、苦しむ前の安楽死をオススメする。

図書館や書店のガン関係の書籍はかなり充実している。
私は片っ端から読み漁った。
たいていは
「眠るように逝きました。」
とか
「さようならと涙を流しました。」
とか
そんな話ばかり。
私もそんな最期を迎えるものだと思っていました。
でも、闘いが終わってみて振り返ると
本に書いているような、美談ではすまなかった。


また後日改めて
本とか映画とか美化されたガン死について
ふれたいと思います。

電脳おやじサポート

2009-06-03 | 日記
父のブログが追いついてきた。

はじめに4月16日の記事を見本で作って
あとは自分で入れていくんだよ
っていってあった。
3月19日からの毎日の日記をこつこつ入れ続け
とうとう4月16日まできました。
毎日よく頑張っています。
「さっき入れたよ」
とか
「今日のところは泣けるわ」
とか電話で報告してくれる。
すっかりキーボードにも慣れたようです。

父の「ガン闘病記」が
今ガンや難病と闘っている人やその家族、
介護で困っている人
医療・福祉業界を目指す人
そのような人達の参考になれば幸いです

忌明け

2009-06-02 | 日記
この前の日曜日に
母の三十五日の法要があった。
俗に言う四十九日の二週間早いやつ。
月末に亡くなった場合は
四十九日の変わりに三十五日をするんだって。
いままで、全くそういった作法を知らなかった。
自分の宗教もなにも関心が無かった。
母の死があり、少し宗教に興味がわいてきた。

まず
私は仏教徒らしい。
で実家は真言宗
嫁いだ先は曹洞宗
ということ。
これは新発見だった。
女は嫁ぐと信仰もかわるんだ・・・・
私「私達の宗教は何なの?」
夫「いや、わかんないな」
私「ご両親に聞いてみてよ」
夫「もしもし、うちの宗教はなに?」
姑「わからないわ」
夫「・・・・・」
姑「永平寺の仏教なんだけど」
夫「こっちで調べるわ」
そんなやりとりのすえ宗派が判明。
こんなものなのね。
それにしても曹洞宗というのは
このあたりでは珍しいです。

ということで私は曹洞宗なんだけど
今は真言宗について興味津々。
自分のアホさを披露するようだけど
仏教って全部空海で高野山なんだと思ってた・・・・
真言宗だけだったのね。
祖母が亡くなった時、高野山に納骨に行き
母が亡くなって、また高野山に行く事になってたから
みんなそうだと思ってた。
よく考えれば
奥の院は四次元ポケットじゃないんだから
日本の仏教徒が全部入るはず無いんだけどね。

子供向けの歴史漫画で空海を学び
凄い人なんだな~って感心した。
先週はテレビでミイラのことしてて
空海の入定のことに触れていた。
案外宗教って身近だったのね。

住職の毎週のお経のときの話は面白かった。
眠たくなるようなお説教は無しで
それでいてなるほどと思う話をしてくれた。
でも、三十五日で忌明けしたから
これからは月に一度になってしまう。
お坊さんの話が聞けなくなるのを残念に思うって
ちょっと年寄り臭いような気がしないでもない。

母が亡くなった日の枕強からはじまって
この間、繰り返しお経を聞いてきた
覚えてしまいそうなくらい聞いた
と思ってたら
「うんたらた~」
「まりぼりそわか~」
「・・まじんばら・・・」
突然子供がブツブツと唱えている。
ん?やはり覚えてしまったか?


こんな感じで母はあの世へ旅立ちました。

ちょうど一ヶ月

2009-05-28 | 日記
母が亡くなってちょうど一ヶ月。
雨の中、朝から実家に行って来た。
訪問看護ステーションの担当看護師が
大きな花束を供えにきてくれたらしく
家中が花で溢れていた。
一緒に最期を看取った母のお姉さんが
チーンとならしに来てくれた。
母の同級生も電話をしてきてくれた。
あぁ、一ヶ月か。
もっと前だったように感じる。
遺影の前でゴロゴロしながら本を読んで過ごしていた。
何度か「おかあさん」って呼んでみた。
返事はもちろんないけれど
なんだか嬉しかった。

在宅死の条件

2009-05-22 | 日記
母は家で亡くなった。
医療用のベッドだったけれど
酸素マスクの機械音が響いていたけれど
おしっこの管がついていたけれど。
確かに「我が家」だった。

最愛の夫
毎日お見舞いに来てくれていた近くに住む姉
娘である私
この3人が見守る中呼吸が止まった。
もうひとりの娘である私の姉が出勤し
唯一の孫である私の息子が登校し
普通の家庭の朝の生活の中での死だった。

なぜ病院で死ぬ事を選ばなかったか?
自然と流れがそうなったとしか言えない。
条件が整ったから。

病院に見捨てられて、いきなり傾眠。
父はうろたえて、どこに助けを求めれば良いかわからなかった。
そして私に電話してきた。
駆けつけた私も正直わからなかった。
救急車を呼ぶか
前の大学病院の緊急に駆け込むか
それとも紹介された病院に連絡してみるか。
そして連絡したのが、紹介された病院だった。
そこから在宅医療がはじまり、在宅死への入り口になった。
もし救急車を呼んでいたら
大学病院に運び込まれ、二度と家には戻れなかっただろう。
在宅医療をしながらも、家での介護は不安だらけだった。
ホスピスに申し込んだが満床で3ヶ月待ちだった。
しばらく私が助っ人として通い、父と介護した。
私が父と喧嘩をし、今度は姉が助っ人に。
父は転移したガンを切除したばかりという最悪のタイミング。
姉も父も疲れていたところに、新しい助っ人登場。
遠くに住む母のお姉さんが、四国から遥々来てくれた。
「遠くの身内より近くの他人」という言葉はあてはまらない
2週間ほど居てくれた。
ホスピスを待っている間に、父までも駄目になりそうだった。
そこで、老人ホームのような療養型の入院施設に申し込んだ。
入院許可が出るまでみんなで助け合おう!
と言っていたら結構早く許可が出た。
同じ頃、在宅の医師から余命2週間と言われた。
そこで、急遽家族会議。
母は話が出来る頃「できれば家族と一緒にいたい」と言っていた。
あと2週間なら最期まで家で皆で過ごそう。
父も姉も私も同じ気持ちだった。

父は病気でフラフラ
姉は会社員
ということは・・・・
そこで私が子供を連れて、実家に移り住むことになった。

朝、姉が泊まっていた日は父が駅まで車で送っていき
そしてまた父が子供を学校に車で送って行き
8時には、元助っ人の四国のお姉さんからモーニングコール
お昼前には近くの親戚がオカズを持ってきてくれる。
お昼ごはんを食べたら、私が自宅に戻り、
子供を学校から迎え、お稽古事に送り出し、買い物をし、夜また実家へ戻る。
そして私が母の夜の見守りをする。
そんな毎日だった。

これから在宅死を目指す人がいるのなら読んで欲しい。
私達家族が在宅死を迎えられたのは
どんな条件が整ったからなのか。

一、母が病院を望まなかった。
一、家族以外に助けてくれる人がいた。
一、姉が独身で介護休暇が使えた。
一、近くに住む私が専業主婦で夫の理解があった。
一、医師が深夜でも駆けつけてくれた。
一、期間限定の介護だった。

こんな条件です。
なかなか難しいと思う。
一つでも欠けると無理だと思う。

在宅死についての是否はさておき
母はどう思っただろう。
そこが一番肝心だけど、誰にもわからないことです。