私の日記帳

主に趣味の旅行やダイビングのことを記していましたが、
このごろは母の思い出日記のようになっています。

ちょうど一ヶ月

2009-05-28 | 日記
母が亡くなってちょうど一ヶ月。
雨の中、朝から実家に行って来た。
訪問看護ステーションの担当看護師が
大きな花束を供えにきてくれたらしく
家中が花で溢れていた。
一緒に最期を看取った母のお姉さんが
チーンとならしに来てくれた。
母の同級生も電話をしてきてくれた。
あぁ、一ヶ月か。
もっと前だったように感じる。
遺影の前でゴロゴロしながら本を読んで過ごしていた。
何度か「おかあさん」って呼んでみた。
返事はもちろんないけれど
なんだか嬉しかった。

在宅死の条件

2009-05-22 | 日記
母は家で亡くなった。
医療用のベッドだったけれど
酸素マスクの機械音が響いていたけれど
おしっこの管がついていたけれど。
確かに「我が家」だった。

最愛の夫
毎日お見舞いに来てくれていた近くに住む姉
娘である私
この3人が見守る中呼吸が止まった。
もうひとりの娘である私の姉が出勤し
唯一の孫である私の息子が登校し
普通の家庭の朝の生活の中での死だった。

なぜ病院で死ぬ事を選ばなかったか?
自然と流れがそうなったとしか言えない。
条件が整ったから。

病院に見捨てられて、いきなり傾眠。
父はうろたえて、どこに助けを求めれば良いかわからなかった。
そして私に電話してきた。
駆けつけた私も正直わからなかった。
救急車を呼ぶか
前の大学病院の緊急に駆け込むか
それとも紹介された病院に連絡してみるか。
そして連絡したのが、紹介された病院だった。
そこから在宅医療がはじまり、在宅死への入り口になった。
もし救急車を呼んでいたら
大学病院に運び込まれ、二度と家には戻れなかっただろう。
在宅医療をしながらも、家での介護は不安だらけだった。
ホスピスに申し込んだが満床で3ヶ月待ちだった。
しばらく私が助っ人として通い、父と介護した。
私が父と喧嘩をし、今度は姉が助っ人に。
父は転移したガンを切除したばかりという最悪のタイミング。
姉も父も疲れていたところに、新しい助っ人登場。
遠くに住む母のお姉さんが、四国から遥々来てくれた。
「遠くの身内より近くの他人」という言葉はあてはまらない
2週間ほど居てくれた。
ホスピスを待っている間に、父までも駄目になりそうだった。
そこで、老人ホームのような療養型の入院施設に申し込んだ。
入院許可が出るまでみんなで助け合おう!
と言っていたら結構早く許可が出た。
同じ頃、在宅の医師から余命2週間と言われた。
そこで、急遽家族会議。
母は話が出来る頃「できれば家族と一緒にいたい」と言っていた。
あと2週間なら最期まで家で皆で過ごそう。
父も姉も私も同じ気持ちだった。

父は病気でフラフラ
姉は会社員
ということは・・・・
そこで私が子供を連れて、実家に移り住むことになった。

朝、姉が泊まっていた日は父が駅まで車で送っていき
そしてまた父が子供を学校に車で送って行き
8時には、元助っ人の四国のお姉さんからモーニングコール
お昼前には近くの親戚がオカズを持ってきてくれる。
お昼ごはんを食べたら、私が自宅に戻り、
子供を学校から迎え、お稽古事に送り出し、買い物をし、夜また実家へ戻る。
そして私が母の夜の見守りをする。
そんな毎日だった。

これから在宅死を目指す人がいるのなら読んで欲しい。
私達家族が在宅死を迎えられたのは
どんな条件が整ったからなのか。

一、母が病院を望まなかった。
一、家族以外に助けてくれる人がいた。
一、姉が独身で介護休暇が使えた。
一、近くに住む私が専業主婦で夫の理解があった。
一、医師が深夜でも駆けつけてくれた。
一、期間限定の介護だった。

こんな条件です。
なかなか難しいと思う。
一つでも欠けると無理だと思う。

在宅死についての是否はさておき
母はどう思っただろう。
そこが一番肝心だけど、誰にもわからないことです。

薬の勉強

2009-05-21 | 日記
さて
母はどうしてあんなにも苦しい死に方をしたのか
毎日毎日考えてしまう。

専門家である医師のやり方に間違いが無かったのか、
今更ほじくりかえしても仕方が無いけれど
いろいろ調べてみた。

母が服用していた薬は大量にあった。
持病のパーキンソン病の薬
それにガンの薬。
薬だけでお腹がいっぱいになりそうな量だった。
この二つの病気はとても相性が悪いようです。

母は終末期をほぼ傾眠か昏睡で過ごした。
パーキンソンの薬に「レキップ」というのがあって
これは突然傾眠になることで有名な薬だった。
ガンの痛みに使われる頓服に「オプソ」というのがある
今になって調べてみるとこれも傾眠への注意が必要とされていた。
「オプソ」をやめるわけにはいかないので
途中で「レキップ」を止めてみた時期があるんだけど
意識がはっきりしないとい状態は結局変わらなかった。

ガンの痛み止めの嘔吐も凄まじかった。
はじめ病院から吐き気止めの処方はなかった。
最初が肝心らしいのに、なぜか出なかった。
痛み止めを飲む・吐く・痛みも止まらず嘔吐し続け
という最悪ルーチンに。
医師に伝えると
「吐き気がでることがあります、薬出しますね」
って
「はじめから出しとけ、ボケ!」な気分。
出た薬は「トラベルミン」
家にある乗り物酔いの薬じゃないか・・・・
ましになったけど、あまり効果がなかった。
在宅になってからの医師の判断で
「トラベルミン」に「ノバミン」を追加。
「オキシコンチン」を「デュロテップパッチ」に変更
点滴に「リンデロン」を追加となり
たまにしか吐かなくなった。
しかーし
後から調べたところ
(看病中はPCなんて触ってる暇が無かった)
「ノバミン」ってドーパミンに作用するらしいことが判明。
パーキンソン病の薬と正反対の作用をする
という事は
やっとの思いで飲み下していたパーキンソンの薬
「ノバミン」に打ち消されていたのか!
おーい、医師はなんで「ノバミン」を出したんだ?
他に吐き気をとめる方法はなかったのか?
しかも母は途中からアカシジアの症状も出て苦しんでいた。
これも後で調べて知ったことだけど
アカシジアは「ノバミン」の副作用みたい。
その対策として「ワイパックス」の服用の指示が出たけど
「ノバミン」をやめるのが先だったんじゃないかな。

あ~
医師を恨んでいる訳じゃないんだけれど
誰かのせいにしてしまいたい気持ち
一番手っ取り早いのが医師なんだよね。
でも
調べれば調べるほど
診療内容が疑わしく思えてきます。
納得のいく「死」なんてないのだろうけどね。

おじいさんPC入門を応援

2009-05-20 | 日記
この頃、母の闘病の思い出を書いている
そこで先日ひらめいた!
父にもブログをしてもらおうと。
父は母が在宅医療になった日から日記をつけていたから
それをまとめてみてはどうかとすすめてみた。
父は携帯電話のメールを打つのも精一杯
「わかった」も「わかた」
「赤ちゃん」も「赤ちやん」
「ダイエー」も「ダイエ」
その程度の腕前なんだけどね。
はじめは嫌がっていたけど、だんだん熱心になってきた。
だって、することがないんだもん。
母が居なくなってから
毎日何度も電話がかかってくる
「買い物行こうか~」
「なにしてるんや~」
「泊まりにおいで~」
寂しくて仕方が無いみたい。
父もガンだから、山歩きとか疲れることはできないし
仕事なんかも出来るはずがない。
寂しさを紛らわすにはPCが一番だ。
そう気が付いたみたい。
一応PC(私より良いヤツ)とネット環境は揃ってる
それを活用だ!
初日はローマ字表を見ながらポツリポツリ。
今では時々左手も動かしている。
父の電脳化計画、只今進行中!!
お父さん、辛いけど頑張って!!
http://blog.goo.ne.jp/shigeko3-shigeko3/
みてあげてね!
(3月からさかのっぼって日記を入力中)

介護保険は誰のため?

2009-05-19 | 日記
母が在宅医療に切り替わった日に
ケアマネージャーがやってきた。
持病のため50代のころから介護認定は受けていたのだけど
「要介護1」という軽いランクだったので
なにも介護サービスは受けてなかった。
それを、ケアマネの提案で見直し申請することになった。
ビックリするほどランクアップ。
「要介護5」
最も重度とされるランクになった。
これで、国から助けてもらえる
すこしホッとした。

でも今考えれば、
私達家族が助けてもらった
というより
その会社が儲かった
それだけなような気がする。

老後の生活を考えて
1年前に自宅を建て替え、バリアフリーにしていたにもかかわらず
玄関・廊下・トイレに手すりをつける介護リフォームが施された。
まぁ良かったじゃないと思われがちだけど、ちっとも良くない。
「要介護5」ですよ。歩かないのに、何で手すりが要るの?
「一割負担ですから工事しましょう」って
完全に税金の無駄使い。
この申請が通る介護保険って何?

ポータブルトイレも買わされた。
母は死の2週間ほど前まで、トイレで排泄していた。
もちろん、歩けないから抱えて行っていた訳だけど。
もう、いよいよトイレにもいけなくなるかなぁ~
という頃、「トイレを買いませんか」と提案され
父は買うといい、私は不要だと言い、喧嘩になった。
結局また「どうせ一割負担だから」と買うことになった。
それから亡くなるまで、排泄がなくなり、というか
排尿できなくなり管を入れたのと、排便はしなくなっていたので、トイレの必要が無かった。
買う前に
「もう亡くなりそうなので、不要だと思うんですが」
と言うと
「お届けの日にご存命でしたら介護保険は適用なので大丈夫ですよ」
と言われていたから
あ~、売りたいだけなんだ~。
届いたピカピカの立派な家具調トイレをみた訪問看護師が一言
「これもったいないね、返品出来ないの?」
私も同感です。
結局使われること無く、今は玄関に椅子のフリをして置かれている。

そして亡くなる3日程前にまたケアマネから電話
「床ずれが激しいようなので、マットレスをジェルタイプに変更しませんか?」
あ~また、余計なものを勧めてきたな。
今回は、父も気が付いた
「要りません」
「ですが、こちらのほうが気持ちがいいと思いますが」
なかなか引き下がらない
もうすぐ顧客ではなくなるのがわかっているから必死だったのかな?
レンタルの一割負担だから高くは無いけれど
不幸を間近にしている家庭を相手に
よくもココまであれこれお金を引き出す手を考えてくるなと呆れてしまう。

私達の場合は、幸いにも私と姉が口出しできたけど
老夫婦だけで介護に直面していたら
あれもこれも
ケアマネが勧めるがままに契約していくんだろうな~。
あの介護度を変更する手続きをした後の安堵感は何だったんだろう。
ほんとに嫌なケアマネだった。
私が居ないと、父に介護ヘルパーの話を持っていったりしてた。
「体を拭いたり、シャンプーしたり、お手伝いさせていただけますよ」
「へぇ~、助かるな~」
「介護5ですから、多くサービスを利用できますよ」
なんて。
私はそれを聞いてビックリした。
毎日訪問看護の看護師が来てるのになんてことだ!
「看護師にしてもらえるのに、どうしてヘルパーを頼む必要があるのですか?」
「そうですね・・・・・」
医師の往診が毎日
それに訪問看護も毎日
そのうえ介護ヘルパーだって!
冗談じゃない!
家庭は病院じゃないんだ!
精神的にも経済的にも強烈な負担なのに。

介護保険制度というのは
介護で困っている人を助ける制度というよりも
困っている人をターゲットにした業者を設けさせる制度
と考えたほうがよさそうです。