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私の音楽 & オーディオ遍歴

お気に入りアーティストや出会った音楽、使用しているオーディオ機器を紹介します(本棚8)。

「カストラート」

2010年07月15日 | クラシック
NHK-BSで「プレミアム8 紀行 夢の聖地へ ナポリ 響け!幻の美声」という番組を見ました。

番組紹介より:
「18世紀、女性ソプラノと同じ高い声で歌う男声歌手『カストラート』が、ナポリからヨーロッパじゅうをせっけんした。彼らは高く力強い声と同時に、極めて難易度の高い声楽の技法を身につけ、ナポリのオペラ黄金時代を支えた。世界でも指折りの高音域の声の出る声楽家・岡本知高が、聖地ナポリを訪ね、伝説の歌声の再現に挑む。」

カストラート・・・聞き慣れない言葉ですね。
これは去勢された男性が女性のソプラノの音域で歌う歌手を指します。
ボーイソプラノの大人版を医学的処置をして無理矢理作り出した、とも云えます。
当時のキリスト教会の合唱隊に女性は入れなかったために生まれた職種でした。

しかし、去勢されたとはいえ、体は男性ですから肺活量があり声のエネルギーもあります。
次第に教会から歌手として独立し、バロック時代にはオペラ歌手としてもてはやされるようになりました。
貧しい家に生まれた子どもが、たまたま歌が上手いと無理矢理去勢され、一攫千金を目指した悲しい歴史もあるようです。

カストラートの最強スターが実在の歌手「ファリネッリ」。
声を楽器のように扱い、超絶技巧で王侯貴族の心を魅了し、カリスマ性も発揮して重用されました。
彼の人生は「カストラート」という映画になっています。
昔見たことがありますが、文化の爛熟期に咲いた徒花、という印象がなきにしもあらず。

さて、現在は去勢して男性ソプラノを造る時代ではありません。
高音部を担当する男性歌手をカウンターテナーと呼びますが、これは裏声を使っています。
ですから、カストラートの様に歌える歌手は存在しないはず・・・と思われたところに登場したのが岡本知高さん。

岡本さんは声変わりの時期を過ぎても女の子と間違われる高い声にコンプレックスを持っていましたが、それが才能として声楽界で花開きました。
立派な体格と相まって、生まれながらにして現代のカストラートとも云える希有な存在です。
あのゴージャス過ぎるステージ衣装には引きますが・・・化粧をしていない素顔の岡本さんは内山君似のカワイイ顔でした(笑)。

彼のCDを何枚か持っています。
高音域は輝かんばかりの美しさを備えているものの、中音域がショボくなり魅力に欠けるのが玉に瑕。1回聴いて飽きてしまいました。
今回の番組で、イタリアのバロック歌手の先生にレッスンを受ける下りがありますが、全く同じ指摘を受けていましたね。彼自身もそこで悩んでいると告白していました。
是非、中音域でも聴かせるテクニックを磨き、一流の歌手として名前を残して欲しいものです。

例えば、世紀の歌姫サラ・ブライトマン。
彼女は高音部の伸びもさることながら、囁くような弱音部に誰も真似できない魅力があります。
初期のCDでは力強く歌っているスタイルでしたが、世界的にヒットする頃から「囁き」を前面に出し始めた印象があります。

前述の映画「カストラート」の後半は、ファリネッリ~カストラート文化の没落ぶりも描かれています。
華美な装飾音に彩られた彼用に書かれた曲が時代と共に受けなくなり、作曲家ヘンデルの登場でとどめを刺されます。
ヘンデルはバッハ以前のバロックの巨匠で、しっかりした土台を基盤に音楽を構築する作曲家。熱狂的な盛り上がりと云うより、構成美からくるずっしりとした高揚感と云ったところでしょうか。「合奏協奏曲」は私の愛聴曲です。

歴史上、男性を去勢する文化は世界中に分布していました。
中国の「宦官」もしかり。

「ヘルベルト・フォン・カラヤン ~その目指した美の世界~」

2010年07月14日 | クラシック
NHK-BSでタイトルの番組を見ました。
トスカニーニ、ベルリン・フィル、そしてカラヤンと三回シリーズだったようです。

第二次大戦後から数十年間ベルリン・フィルに君臨した「帝王」カラヤン。
残された映像と、周辺にいた人物達のコメントから構成された内容です。

私がクラシック音楽を聴き始めた高校生の頃、時代はカラヤン一色でした。
他に活躍している指揮者は、バーンスタイン、ズビン・メータ、カール・ベームなど。
ちょっと下がって通好みのショルティ、ブーレーズ、ムラヴィンスキー。
小澤征爾さんはまだ「期待の若手」という扱いでしたね。

印象に残った言葉をメモしておきます。

■ カラヤンが指揮者になるまで;
カラヤンのキャリアはピアノで始まります。なんと4歳でコンサートを開いたとか。
しかしあるとき、あることに気づきました。
「自分が表現したいことは、この2本の手では足りない」
そして指揮者を目指したのです。

■ バーンスタインは彼自身が音楽そのもの、カラヤンは音楽を造った才人;
当時世界で人気と名声を2分した二人。
アメリカの指揮者バーンスタインは感情的で、一方カラヤンは理性の塊。
ふと、ヘルマン・ヘッセの「知と愛~ナルシスとゴルトムント~」という小説を思い出しました。
ストイックに生きる聖職者のナルシスと、愛に生きるゴルトムント。
人生の最後を迎えたとき、どちらが幸せだったか? と考えさせられる、余韻の残る小説です。
もちろん、「知=カラヤン」「愛=バーンスタイン」に重なりました。

日本の小澤征爾さんは、実はこの2大巨匠の共通の弟子です。
カラヤンの指揮ぶりを見ていると「小澤征爾さんに似ているなあ」と感じ、でもバーンスタインの指揮ぶりを見るとやはり「小澤征爾さんに似ているなあ」と感じてしまう私。2大巨匠の知的財産を受け継いでいるのですね。

■ カラヤンの耳;
ある曲のリハーサルで、オーケストラの団員は気づいていない程度ですが、どうしてもオーボエの息が続きません。本番ではそのパートのテンポを少し速くしました。オーボエ奏者は演奏が終わった後、「どうしてわかったんですか?」と聞いてきたところ、カラヤンの答えは「感じたんだよ」。

■ カラヤンの美学;
「美しいものは聴いても、見ても美しくなければダメだ。」
カラヤンは演奏を映画仕立てで撮影させた初めての指揮者でもあります。
依頼先は映画監督のクルーゾー。
DVDが発売されており、拝見しましたが、カメラワークが素晴らしい・・・と思ったら、実は「やらせ部分」があったと暴露していました。録音された演奏をバックに楽器を弾く姿を撮影した、云ってみれば「口パク」箇所があったそうです。
それほどまでに(悲しいほど)完璧を目指したのですね。

■ ワーグナーの魔力;
ワーグナーは「この曲を私の理想とするレベルで演奏できれば、演奏禁止になるだろう」と予言しました。「ベルリン・フィルで演奏して初めてこの言葉の真意がわかった。」とカラヤン。ワーグナーの音楽はベルリン・フィルのためにある?

■ カラヤンの魔術;
ベルディの歌劇「オテロ」の指揮をしているカラヤンの後ろの席にいた劇場関係者のコメント。
「カラヤンの体からほとばしるエネルギーがすさまじく、金縛りにあったように動けなくなってしまった」
そして体が火照って眠れず、一晩ザルツブルクの街をさまよったそうです。

別の話;演奏会のリハーサルでカラヤンも団員も納得する素晴らしい出来。カラヤンのコメントは「本番でもこの音に命を吹き込んでください」。

■ 世界一孤独な人;
インタビューに答えた女性(奥さんだったかオペラ歌手だったか・・・)のコメントにハッとしました。
たしかに楽団員にジョークを飛ばしている映像はありましたが、他人と打ち解けて談笑している場面はありません。
唯一、家族と過ごす時間、特に夫人と寄り添って散歩する様は微笑ましい。
一見、ベタベタしているだけにも見えますが、私には「カラヤンにも心底くつろげる相手がいたんだ」とちょっぴり安心したのでした。
自分に厳しく、他人にも厳しいカラヤン。
アルコールを飲んだ上での閃きなんか信じておらず、規律正しい生活の中に真の美を追究する求道者でした。

・・・晩年は「響きの美しさ」の強くこだわり、批評家からけなされたり、ベルリン・フィルとの確執があったりと必ずしも順風満帆のキャリアではなかったかもしれません。でも、もともと下積みの長い苦労人ですから肝が据わってました。
もっとも、「響きの美しさ」は後に「アダージョ」シリーズとしてクラシック音楽では異例のヒットを飛ばし、現代人を癒してくれたことは記憶に新しいですね。

バーンスタインとしつこく対比されていましたが、なぜかそれ以前のライバルであるフルトヴェングラーは出てきませんでした。
共演者として、若き日のパバロッティやプラシド・ド・ミンゴの姿もありました。

私は今でもチャイコフスキーの「悲愴」はカラヤン&ベルリン・フィルの演奏が一番好きです。あの濃厚で深い感情表現は他の追随を許しません。

20世紀が生んだ希有な才能です。

「帝国のオーケストラ~第二次大戦下のベルリンフィル」

2010年07月11日 | クラシック
NHK-BSでタイトル名の番組を見ました。

番組紹介より;
「第2次大戦下のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の、あまり知られていない歴史を検証するドキュメンタリー。当時を知る存命中のメンバーへの丹念なインタビュー、封印されていたプロパガンダ映像などによりナチス、ドイツ支配下の1933年から1945年という時代を描く。」

指揮者や演奏者を取り上げた番組は数多くありますが、オーケストラを扱ったものは珍しい。
それも世界最高峰と呼ばれる、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団。
興味津々で見始めました。

「ベルリン・フィルはナチス党のオーケストラではなかった」と当時の楽団員は主張します。
それまでは楽団員がお金を出し合って運営し、余剰金が出たら分配するという方式で、経営は決して順調ではありませんでした。
しかし戦時中はナチス党により国営化されたのでした。
楽団員は「オケの存在そのものが他国へのプロパガンダ」と考えられて兵役を免除されるという異例の措置(他のオーケストラは徴兵されました)。
ほとんどの楽団員は純粋な音楽家で政治には興味なし。
その中で数名のナチス党員がいました。腫れ物に触るように扱われていたようです。下手なことを云うと密告されて収容所送りになりかねない時代でした(実例あり)。

一方、迫害対象のユダヤ人は解雇・あるいは自ら退団していきました。半分亡命としてアメリカへ渡った人が多かったようです。新天地で活躍し、戦後ベルリン・フィルと再競演したという感動のエピソードもありました。

残念ながら、芸術も戦争の影響を大きく受けざるを得ない時代でした。

当時の常任指揮者はウィルヘルム・フルトヴェングラー。
トスカニーニ、ワルターと並ぶ、二十世紀前半の巨匠(マエストロ)です。
トスカニーニは「フルトヴェングラーはナチスの犬」とけなしていましたが、実際はどうだったのでしょう?
彼はナチを信望していたわけではなく「ベルリン・フィルを維持したい、無くしたくない」という一念で居残ったようです。実際に楽団員をかばったエピソードも披露されました。
楽団員も居心地の悪さを感じながらも「世界最高峰のオーケストラを存続したい」という気持ちが大きかったことがインタビューから伺われます。

フルトヴェングラーは終戦後亡命し、その後「ナチに協力した犯罪者」として裁判にかけられます。
幸いにも「無罪」として復帰することになりました。
それまでのつなぎを任されたのがセルジュ・チェリビダッケですね。
フルトヴェングラーが再び指揮をするその日は「ベルリンに平和が戻ってきた」と沸いたそうです。
そしてアメリカ公演の話が出ましたが、実現前にフルトヴェングラーは他界してしまいます。
その代役を務め、大成功を収めたのがカラヤンです。その後長きにわたって君臨した時代の幕開けとなりました。

その他にも貴重な映像が目白押し。
フルトヴェングラーは体を揺すり、頭を振って躍動的に指揮します。
チェリビダッケは腕を力強く振ってリズムをとります。
クレメンス・クラウスは最小限の手の動きでオーケストラを操ります。
クナッパーツブッシュは毅然として切れのある指揮棒裁き。

でも、楽団員は「フルトヴェングラーだけが一流で、他の指揮者は二流だった」とポソッとこぼしたのを私は聞き逃しませんでした(笑)。

全編を通して、ベルリン・フィルは不本意ながらヒトラーに利用されましたが、その楽団員の心根は音楽を愛し伝統を絶やしてはいけないという使命感だったことがわかりました。

ユダヤ人として楽団を追われた楽団員の一人に、シモン・ゴールドベルクというヴァイオリニストがいます。
コンサートマスターを務め、若手から憧れの眼差しで称えられた名手です。
退団後、彼はイギリスを中心に海外を渡り歩き、時に日本軍に捕虜として拘束され、波乱の人生を過ごしました。
しかし、二度とドイツに戻って演奏することはありませんでした(日本人と結婚して日本で没)。
HMVで検索したら録音が残ってますね。購入して聴いてみたくなりました。

「トスカニーニとの会話」

2010年07月11日 | クラシック
NHK-BSでタイトル名の番組を見ました。
番組説明より;

「死後50年たった今も、トスカニーニは伝説的指揮者としてその名を残している。このトスカニーニのドキュメンタリーでは、彼の息子ウォルターと数人の客を俳優たちが演じ、トスカニーニの人生を再現する。晩年に孫がひそかに収録していた会話を元にしたやりとりと、1932年から1957年に実際に収録されたホーム・ムービーやニュース・フッテージそしてアーカイブ映像、1948年-52年のNBCコンサートが華を添える。 
 ~2008年 フランス 1deale Audience/Foundry Films制作~」

世紀の大指揮者、アルトゥール・トスカニーニ。
二十世紀前半を代表する指揮者として、ウィルヘルム・フルトヴェングラー、ブルーノ・ワルターと共に常に名前が挙がる巨匠(マエストロ)です。
かんしゃく持ちのガンコ親父としても有名な彼は、マスコミ・取材嫌いでインタビュー記事も残っていないそうです。
この番組は引退後のトスカニーニのオフレコの会話を息子さんが内緒で録音したものを再構成してドラマ化し、残された映像も交えて作品に仕立てたものです。

貴重な映像の堪能できます。背筋に鉄筋が入っているのではないかと思えるほど真っ直ぐの姿勢と縦横無尽に動き回る手の動きが特徴の指揮。本人はいつも汗びっしょりでエネルギッシュ。

歯に衣着せぬ発言が散りばめられ、聞き応えがありました(笑)。
印象に残った文言をメモしておきます。

■ 指揮者になったきっかけ;
 弦楽器奏者として所属していたオーケストラ(ミラノ・スカラ座?)のブラジル公演で指揮者がいなくなる事態が発生し、「団員の中で指揮ができる人間はいないのか!」とのヤジに楽譜を全て暗譜していたトスカニーニ(当時19歳)の顔を皆が一斉に見たものだから、やらざるを得なくなった・・・そして大喝采を浴びることに。
 作曲家を目指したこともあり、楽譜が出版されたこともあったが、ワーグナーの神々しい音楽に接して衝撃を受け、「自分にはこんな音楽を造り出す創造力はない」と諦めた。
 トスカニーニの能力の一端として、その完璧な記憶力があります。ほとんどの曲を暗譜していたそうです。

■ 指揮者としての自己評価;
 フルトヴェングラーやワルターは楽しそうに、幸せを感じながら指揮をしていると思う。でも私は女性が子どもを産むときの「産みの苦しみ」をいつも味わっていた。
 自分の指揮している姿を映像で見るのは恥ずかしい。この道化はどこの誰だ?と笑いたくなる。指揮者は聴衆に尻を向けて行う仕事でよかった(聴衆と顔を合わせながらなんてできない)。

■ 同時代の指揮者批判;

【フルトヴェングラー】
ナチス党に心を売った不甲斐ないヤツ。私は一時ムッソリーニと親交があったが、彼が独裁者の道を歩む前に袂を分かった。ヒトラーから演奏会の依頼も来たが断った。
※ フルトヴェングラーとナチスの関係については次項も参照してください。

【ストコフスキー】
下品な音楽。手紙にそう書いて送ったことがあったが、返事は来なかった(息子が預かったものの出さなかったらしい)。

■ 作曲家について;
・作曲家はなんと云ってもベートーヴェンが素晴らしい。第九交響曲の第三楽章を指揮する度に涙が流れそうになる。レクイエムはモーツァルトよりヴェルディの方が優れているが、ベートーヴェンの荘厳ミサ曲は別格である。
・プッチーニは創造力の欠片(かけら)もない。彼の有名なアリアは自分の過去の作品や他の作曲家の作品からの借り物が多い(でも仲は良かったらしい。彼の作品の初演も多数手がけているほど)。
・一番印象に残っている作曲家はアルフレート・カタラーニ。プッチーニが嫉妬するほど素晴らしい旋律を残した。しかし若くして亡くなったので、歴史に名前は残っていない。
・ワーグナーの「ローエングリン序曲」。この天国的な美しさをたたえた曲を彼はどうやって手に入れたのだろう。広がる空の中の雲に登り、天界から授かってきたとしか思えない。

・・・番組を見終えて、ワーグナーやカタラーニの曲を聴きたくなりました。

小澤征爾・私論

2010年05月05日 | クラシック
ご存じ世界を股にかけて活躍するクラシックの指揮者です。
最近、BS放送で彼に関する番組をいくつか拝見しました。
彼の音楽に対する真摯な態度、わかりやすい説明、歩んできた人生等、すべて魅力的です。
日本の生んだ希有な才能だと思います。

■ 指揮者への道
満州で生まれ、終戦後に日本に引き揚げてきました。
ピアノを勉強する傍ら、ラグビーに夢中な少年時代。
しかし、そのラグビーの試合で指を骨折し、ピアノが弾けなくなってしまいます。
ピアノから転向して、指揮者を目指し斉藤秀雄先生に入門しました。
あるとき外国の指揮者のコンサートを聴き、「全然違う、日本で井の中の蛙になってはダメだ」と悟り、半分密航者のようにバイク1台と共にいざヨーロッパへ。
そして苦労を重ねた下積み生活後、ある音楽コンクールで優勝し、当時「帝王」と呼ばれたカラヤンに弟子入りする機会に恵まれました。
ところが弟子入りして数ヶ月後に、アメリカの巨匠のバーンスタイン主催のコンクールにも入賞し、巨匠の元で勉強する資格を得て贅沢な悩みを抱えることになりました。
当時のヨーロッパの親分とアメリカの親分両方に同時に気に入られた、といったところでしょうか。
困ってカラヤンに相談したところ、「1年間アメリカで勉強してきなさい」と快く送り出してくれました。
それから彼の華々しいキャリアが始まることになります。

■ 西洋音楽との対峙
ヨーロッパやアメリカで音楽活動を始めた当初、「東洋人にヨーロッパの音楽がわかるのか?」と半分馬鹿にされたような扱いを受けることが多かったと云います。斉藤先生から西洋音楽の基礎は叩き込まれていたので、それを糧として「なにくそ」と頑張るうちに徐々に周囲の人たちが認めてくれるようになったそうです。
70歳を過ぎた今でも寸暇を惜しんで彼は勉強を続けており、頭が下がります。

■ 若い人たちの教育
若い頃は自分のことで精一杯でしたが、交響楽団の音楽監督を任されるようになると音楽教室にも関わるようになりました。若い人たちの柔軟な感受性(sensitivity)に目からウロコが落ちるような表現を教えてもらうこともあったとか。いろんな人がいて、早く伸びる人もいれば、大器晩成型もいて・・・一度始めると面白くてやめられないと云っていました。

■ 指揮者の仕事
オーケストラは50人以上の音楽家の集まりで、受けてきた教育は国により人により様々。それをまとめるのが指揮者です。
ただ「俺の考えはこうだ!」と強制しても演奏してくれません。これが難しいところ。
オーケストラ団員の8割くらいの支持・信頼を得ないと演奏が成り立たないそうです。
カラヤンは指揮者の仕事を「invate」と表現したと紹介していました。
演奏家の考え・存在を招き入れ、それを自分の色に染めてまとまりを造っていく作業。
演奏家は「自分の自由に演奏させてくれる」と感じ、しかし指揮者が思い描く通りの演奏にもなっている状態がベストとのこと。
う~ん、深いですねえ。

■ 指揮者の熟成
「若い頃と歳を重ねた現在で演奏が変わりましたか?」
との質問に「確かに変わったところがある」と返答されました。
それは「正確さより音楽表現の深さを優先できる」ようになったこと。
西洋音楽は厳格な規律の中で演奏を行わなければなりません。
でも、楽譜通りに演奏しただけでは聴衆は喜びません。
そこに自分の解釈を盛り込んで深く表現することを求められます。
それは自分の人生を投影することでもあります。
自分が経験してきた喜怒哀楽、作曲家への敬愛と研究のすべてを注ぎ込んで表現すること。
若い時分は「正確さ」を常に考えていましたが、昨今はしっかりしたルールを守りつつどれだけ感情表現ができるか、その塩梅がわかってきたような気がする、とのこと。
そして、その成果を世界中が認めているのが現在の巨匠、小澤征爾氏なのでしょう。

■ 喜怒哀楽に民族間の違いがあるか?
「ある!」と彼は即答しました。
でも、クラシック音楽は普遍性を持つから現在まで残っているのであって、そこにある感情表現は民族間の違いを乗り越えた高いレベルのものと信じている、と云いました。

■ カラヤンについて
小澤氏は敬愛の念を込めて「カラヤン先生」と呼びます。
実際に弟子となったのは4ヶ月ほどで、その後アメリカのバーンスタインの元へ出張留学し、そのまましばらくヨーロッパに帰ることはありませんでした。
しかしカラヤンは生涯小澤征爾を「私の弟子」として扱ってくれた懐の深さに彼は大変感激しています。
また、カラヤンの指揮は「魔法のようだった」とも。
同胞の若い弟子達がカラヤンの真似をする傾向があり、でも小澤氏は「カラヤン先生の音楽的土台があってこその指揮法をぽっと出の若輩者が真似しても意味はない」と横目で見ていたら、やはりそのマネしんぼは大成しなかったと懐かしんでいました。
そういえば、バーンスタインの話はあまり出てこなかったなあ。


・・・実は私、小澤征爾氏の公演を高校生の時に聴いたことがあります。曲目はベートーヴェンの交響曲「運命」と「田園」。後ろの方の席だったので、演奏を眺めながらレコードを聴いていたような感覚・・・そんな記憶しかありません(苦笑)。

 最近、癌の闘病中とのニュースが流れました。ぜひ復帰して元気な姿をもう一度見せていただきたいものです。