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銭の花《商魂》 ♯007ーA

2023-08-07 21:00:00 | 日記

 ■レゴ・ブロック

 レゴ (デンマーク語: LEGO)は、デンマークの玩具会社、およびプラスチック製の組み立てブロック玩具のブランド。 
 通称「レゴブロック」。

(レゴグループ Lego Group)

 1934年に「よく遊べ」を意味するデンマーク語「leg godt」から社名をLEGOとした。
 創業当初は木製玩具を製造していたが、1949年からプラスチック製玩具の製造を開始した。
 非上場企業であり、創業者一族のクリスチャンセン家が運営する持株会社Kirkbi A/Sと財団法人LEGO Foundationが、レゴ社の全株式を保有している。

 日本法人は、レゴジャパン株式会社。
 2000年前後に特許が失効してレゴ互換が作られるようになった。
 今では中国などを中心にレゴ互換商品が開発・販売されている。

 《製造》

 レゴブロックにおける一般的な基本色は、赤、黄、青、黒、白、灰色である。
 1990年代から徐々に他の色も多用されるようになり、現在では濃灰色や緑色、砂色、茶色、ワインレッド、ダークグリーン、パステルカラーなども多く見ることができ、透明のブロックもある。レゴ社は長年、戦車や軍用機を作るのに使用されて、レゴ社自らが戦争を推奨しているかのように見られてしまうのを恐れ、建物のベースである基礎板を除き、緑色のブロックを作らなかった。
 しかし、さまざまな中間色のブロックや近世の銃器がセットに含まれている現在では、こうした懸念は過去のものとなっている。
 レゴブロックのデザインはどれも単純明快で、使い方の説明を要する部品は少ない。
 子ども向け玩具であるため、説明書を読まなくてもそのブロックの機能が分かるようアフォーダンスデザインが取り入れられている。
 レゴブロックには時代やシリーズを超越して共通する互換性という大きな特徴があり、たとえば10歳の子が1歳のころに遊んだデュプロをテクニックシリーズに混ぜて遊ぶということもできる。
 このように利用者の年齢に柔軟に対応できるため、レゴブロックは他の積み木や流行玩具のように、利用者が成長すると今までの玩具がゴミに変わるという無駄が起きない。
 経済的にも環境にも優しい玩具と言える。

 レゴブロックは世界各地で製造されており、2003年現在、成形はデンマークとスイスの2つの工場のうちのひとつで行われている。
 ブロックの装飾と梱包をする工場は、デンマーク、スイス、アメリカ合衆国、大韓民国、チェコにある。
 レゴブロックの平均生産量は、一年間におよそ200億個、一時間におよそ230万個である。
 ブロック、車軸、ミニフィグなど、レゴシステムの全部品は、製造時に厳しい許容誤差を定められている。
 部品同士がバラバラにならないよう適度に結合し、分解も容易であるのにちょうどいい結合力を持たせるため、製造誤差の許容範囲が0.002ミリ以内、あるいは0.00008インチ以内とされている。
 高い品質を維持するための技術として、金型の容量の小ささが挙げられる。玩具会社によっては、製造費を抑えるために同時に60個の部品を扱える金型を使うことがあるが、レゴの金型は一般的に容量がもっと小さく、精密に機械加工されていて、数万ドルの費用がかかる例も多い。
 この射出成形金型にはセンサーがついており、質を下げる原因となる圧力や温度の変動を検出できる(金型内部でABS樹脂にかけられる圧力は25〜150トン、温度は摂氏232度にも及ぶ)。
 金型で成形された製品は人間が慎重に検査し、色や形に目立ったばらつきがないように確認する。
 使い古した金型は、他社の手に渡らないように建物の基礎に入れられる。
 成形処理は非常に精密なので、標準規格に適合しない数は、100万個中たった18個である。
 このような製造への気遣いにより、レゴ社は何十年にもわたって高い品質を維持し、この品質のこだわりのおかげで、30年前に製造された部品と現在の部品はしっかり結合させることが可能になっている。
 一般的な玩具メーカーは新製品生産のために設備を更新するが、レゴはブロックの組み合わせを変えてパッケージを用意するだけで新製品を投入できるため、設備をほとんど変更することがなく、高い収益性につながっている。

 《歴史》

 一世紀もの歴史を持つレゴ社の製品は、洗練されたシステムを持つプラスチック製の上質な組み立てブロックだが、同社は創業当時は家具店であった。
 レゴ社の歴史は、デンマークの南デンマーク地域のビルンにオーレ・キアク・クリスチャンセンが作った木工所から慎ましやかに始まった。
 家族経営の創造的なこの会社は、のちに世界中で人気の玩具会社へと成長する。

 ▼始まり

 1916年にビルンに開いた木工所で、オーレ・キアク・クリスチャンセンは地域の農家向けに家と家具を作って生活していた。
 助けは少数の見習い社員だけだった。
 1924年、2人の幼い息子が木の削り屑に火をつけたために木工所が火事で焼失したが、オーレ・キアクは災難にもめげず、木工所を大きくする機会だととらえてさらに仕事に励んだ。
 しかし、まもなく世界恐慌が生活に影を落とすようになった。
 制作費を切り詰める方法を探すうち、設計支援として製品の縮小模型を作り始めた。
 このときに作った梯子やアイロン台の模型が、のちに玩具を作るきっかけとなる。
 オーレ・キアクは、引き回して遊ぶ木製玩具や豚の形の貯金箱、自動車やトラックの玩具を作り始めた。
 ささやかな成功を手にしたオーレ・キアクであったが、当時多くの家庭は貧しくて玩具を買う余裕がなく、地域の農民たちの中には食物と引き換えに玩具を買う者さえいた。
 このような情勢の中では、収益を得るためには玩具だけでなく実用的な家具も作り続ける必要があった。
 1930年中ごろ、ヨーヨーの流行により一時的に仕事が活発になったが、流行はあっという間に過ぎ去ってしまった。
 ここでオーレ・キアクは再び不利を利点に変える。
 ヨーヨーの未使用部品を玩具のトラックに流用したのだ。
 このころ息子のゴッドフレッドが一緒に働き始める。
 1934年、社名を、デンマーク語で「よく遊べ」を意味する「Leg Godt」からオーレ・キアクが考えた造語LEGOとした。
 LEGOにはラテン語で「組み立てる」の意味がある。
 プラスチックの使用が広がる時代の流れに合わせ、オーレ・キアクはプラスチック製の玩具を作り始めた。最初の組み立て式玩具のひとつは、部品を組み替えられるトラックだった。

 1947年、オーレ・キアクとゴッドフレッドは、キッディクラフト(Kiddicraft)社が制作したプラスチック製結合ブロックの型見本を入手した。
 これは自動結合組み立てブロック(Kiddicraft Self-Locking Building Bricks)といって、イギリス人のハリー・フィッシャー・ページがデザインし特許を取得したものであった。
 1949年、レゴ社はこれに似たブロックを、自動結合ブロック(Automatic Binding Bricks)と名付けて発売した。
 このアセチルセルロース製のブロックは、積み上げて遊ぶ伝統的な木製ブロック(積み木)の精神で開発された相互に結合するプラスチック製ブロックである。
 ブロックの上部には数個の突起(スタッドまたはポッチという)が、底は長方形の空洞になっており、互いにくっつくが、外すことができないほどきつくはない。
 1953年、ブロックに新しい名前が与えられた。LEGO Mursten、すなわちLEGO Bricks(レゴブロック)である。
 しかし玩具にプラスチックを採用する試みは、当時の小売り業者や消費者には受け入れられず、売れ行き不振で返品の山となった。
 「プラスチック製玩具が木製玩具と置き換わることはない」という批判もあったが、オーレ・キアクは気を変えることなくやり通した。
 1954年までにゴッドフレッドはレゴ社の常務取締役になっていた。彼は海外の玩具業者と話し合いをした際に、玩具システムの改良案を考え出した。
 ゴッドフレッドは、創造的な遊びのシステムになる大きな可能性をレゴブロックに見ていたが、ブロックには結合力に限界があり、作れる形に限りがある技術的な面の問題があった。
 1958年、今日見られるブロックのデザインができ上がった。
 ブロックの裏側に改良を加え、空洞部分に円筒を配置することにより底面の結合力が増し、さまざまな形を作れるようになった。
 同年、オーレ・キアクが死去し、ゴッドフレッドが会社を引き継いだ。

 ▼成長

 レゴ社は年々着実に成熟して来た。
 1959年、社内に「フーツラ(Futura)」と呼ばれる製品開発部門が設立され、少数の社員が配置された。
 1960年、倉庫が火事になり木製玩具の在庫がほとんど失われたが、幸運にもレゴブロックの製造設備は火災に耐えた。
 レゴ社はこれを期に木製玩具の生産中止を決定する。
 その年の末までにレゴ社の社員は450人にまで増えていた。
 1961年から1962年にかけて新しい部品としてタイヤが登場し、自動車、トラック、バスなどの乗り物をレゴブロックで作ることができるようになった。
 このときまでに、レゴのシステム・オブ・プレイ(遊びのシステム)には50以上のセットができていた。
 1962年、販売代理店となった朝日通商が日本でレゴブロックの販売を開始する。

 1963年、ブロック素材をアセチルセルロースから、より安定したABS樹脂に変更した。ABS樹脂はアセチルセルロースに比べて変色・変形が少なく、熱、酸、塩、その他の薬品に強いという特性があった。
 ABS樹脂は2023年現在も採用されており、1963年にABS樹脂で作られたレゴブロックと、60年以上の年月を経ても正常に結合させることができる。
 1964年、レゴセットに初めて組み立て説明書が同梱された。
 1966年、もっとも成功したシリーズのひとつとなるトレインシステムが発売された。
 トレインセットには4.5Vモーターとレールが同梱され、2年後には12Vモーターが登場した。
 1968年6月7日、レゴランドがビルンで開園した。
 このテーマパークの目玉は、すべてレゴブロックで作られた町の精巧な縮小模型である。
 広さは3エーカー(1万2,000m2)で、初年度だけで62万5,000人の入場者があった。
 その後の20年間で面積は8倍以上になり、1年あたりの有料入場者数は100万人近くになった。
 1968年には1,800万個以上のレゴセットが売れた。
 1969年、1歳半以上の子ども向けの新システム、デュプロ(duplo)の販売が始まった。デュプロブロックは、幼児が飲み込まないようにレゴブロックより大きくなっているが、従来のレゴブロックとの互換性を持たせるように設計されている。
 そのため子供が成長してデュプロブロックを卒業してもそれらを捨てる必要はなく、むしろ「新しいレゴブロックの大型ピース」としてそのまま使い続けられるのである。

 ▼拡大

 1970年、従業員数は900人を超えた。
 その後の数十年は玩具作りにおいても、市場においても、未開拓分野に大きく進出した。
 1971年、女の子向けに家具部品とドールハウスを発表。
 1972年、実際に水に浮かべて遊べるボートと船のセットを出し、レゴ世界の交通分野の可能性を広げた。
 この間、ゴッドフレッドの息子ケル・キアク・クリスチャンセン(Kjeld Kirk Kristiansen)が、スイスとデンマークで経営学の学位を取得後、会社の管理職に就いた(ケルの姓が親と違うのは、出生証明書でChをKと書き間違えたのをそのまま使い続けたためである)。
 会社でのケルの最初の業績は、製造法を最新の状態にし続けるための研究開発部門の設立と製造工場の建設だった。
 1974年、腕が可動する人形を同梱した「ホームメーカー」シリーズが初登場し、当時もっとも売れたセットになった。
 このころからレゴ世界のミニチュア人間が登場しているが、現在の「ミニフィグ」とは違ってどこも可動せず、頭部には顔が印刷されていなかった。
 また、レゴの生産工場がアメリカ合衆国コネチカット州エンフィールドに建設された。
 1975年、対象年齢を高く設定し、細かい部品が多くリアルな車やバイクを作ることのできるホビーセットシリーズが発表される。
 1977年、1970年から販売されていたギアーセットをより精緻にしたエキスパートビルダーセットが登場する。
 これは、歯車、差動歯車、レバー、車軸、自在継ぎ手といった動く部品が特徴で、機能するラック&ピニオン式のステアリングや本物そっくりなエンジンの動きを備えた自動車といった精巧な構造模型を作ることができた。

 1978年、レゴの世界に「ミニフィグ」が追加された。
 手足が可動し、顔には笑顔が印刷されている人形である。
 以降、ミニフィグに大きさを合わせた建物や道路、乗り物、鉄道、ボートなどを揃えて、笑顔の市民が住んでいる精巧な町を作れるようになった。
 試作段階のミニフィグは肌の色や表情が多様だったが、採用されたのは黄色い肌と標準的な笑顔のみであった。
 黄色が選ばれたのは人種差別などないニュートラルと幸せ感とを表現するためという理由である。
 のちのスター・ウォーズやハリー・ポッターなどの版権商品では特定の登場人物を現すミニフィグが登場するようになり、2003年のレゴ・バスケットボールの登場とともに肌の色が増えた。
 同年、日本法人の日本レゴが設立された。 1979年、宇宙シリーズが発表された。
 宇宙飛行士のミニフィグ、ロケット、月面探査車、宇宙船が登場し、人気シリーズとなった。
 また、低年齢層を対象にしたファビュランド(FABULAND)と、小さな女児を対象に宝石要素を取り入れたSCALAシリーズが登場した。
 ケルがレゴ社の社長になり、引き続きレゴ社の強さが維持された。
 1980年、レゴブロックは有益な教材となりうると判断した教師たちは、1960年代からレゴブロックをさまざまな形で授業に取り入れてきた。
 その結果、この年に教育製品部門(のちのLEGO DACTA)が設立された。
 この年、梱包・組み立て用の工場がスイスに、タイヤ部品を製造する工場がデンマークのユトランド半島に建設された。

 1981年、レゴトレインの第2世代が登場。従来通りの4.5V(電池式)と12V(コンセント式)のほかに、作業灯や、リモコン式のポイント、信号機、連結解放器など、さまざまな小物が追加された。
 1982年、エキスパートビルダーシリーズが発達してテクニックシリーズとなる。
 1982年8月13日、レゴ社は50周年を迎える。
 これを記念して、『遊びの50年(50 Years of Play)』という本を出版した。
 1983年、デュプロに、さらに対象年齢を下げた幼児向けセット(Primo)が加わる。
 ガラガラと手足が可動する人形つきのセットである。
 1984年、レゴ・お城シリーズが登場し、ミニフィグに騎士や馬が加わった。
 1986年、ライトやブザーなど、新たな遊びを提供する「ライト&サウンド」が登場。
 レゴ社の教育部門から、テクニック・コンピューター・コントロールが発表された。
 これはテクニックシリーズのロボットやトラックなどのモーター付きモデルをコンピューターで制御できる教育システムである。
 ブラジルのマナウスにレゴの工場が建設された。テクニックシリーズに空気圧シリンダーが追加された。
 1988年8月、第1回レゴ・ワールドカップ・ビルディング・コンテストがビルンで開催され、17か国から38人の子供が参加した。
 1989年、レゴ・南海の勇者シリーズとして海賊が登場した。海賊船・総督軍との戦い・絶海の孤島や財宝を主題にしたシリーズで、ミニフィグの表情が海賊風になっている。
 標準の笑顔ではないミニフィグが採用されたのはこれが初めてである。
 レゴ社の教育製品部門が、 レゴ・ダクタ(LEGO DACTA)と名を変えた。
 名前の由来はギリシャ語の「Didactic」で、大まかに言えば「学習過程の研究」というような意味の言葉である。
 MIT(マサチューセッツ工科大学)のコンピュータ学習研究所のセイモア・パパート(Seymour Papert)博士が、プログラミング言語 Logoとレゴ製品を連動させる研究にちなんで、レゴの学習研究教授(LEGO Professor of Learning Research)に任命された。日本法人の日本レゴがレゴジャパンに社名変更。

 1990年、上級者向けの新シリーズとしてモデルチームシリーズが登場した。
 レーシングカーやオフロードカーなどを、それまでのレゴシリーズにはなかった微細さと写実性で再現しているのが特徴である。
 テクニックシリーズが機械的精密さを追求したシリーズだとすれば、モデルチームシリーズは見た目・造形の精密さを追求したシリーズであると言える。
 この年レゴ社は、ヨーロッパで唯一の、世界10大玩具会社のひとつになった。ビルンのレゴランドの入場者数が100万人を超えた。
 初のレゴの経営力学教授(LEGO Professor of Business Dynamics)であるザビエル・ギルバート(Xavier Gilbert)が、 スイスのローザンヌにある経営開発国際研究所(International Institute for Management Development)で冠講座を任された。

 ▼新事業と経営不振

 1980年代後半に各国でレゴの基本特許が切れたため、値段の安い類似のブロックを製造するメーカーが次々と出てきた。
 またテレビゲームの登場により、レゴで遊ぶ平均年齢が下がっていった。
 このような環境変化に対応することができず、1990年代後半からレゴの売り上げとシェアは落ちていった。
 1998年、創業家3代目のケル・キアク・クリスチャンセンCEOは、かつてデンマークの高級音響機器メーカー、バング&オルフセンを再建したポール・プローメンをCOOに招いて難局打開を託した。 
 プローメンは「脱ブロック」を号令に多角化を指示し、テレビゲーム開発、教育事業強化、テレビ番組制作、直営店経営、レゴランド事業の拡大に乗り出した。
 さらに、従来のレゴブロックとは互換性のない新シリーズを投入した。
 そのうち、映画『スター・ウォーズ』シリーズはレゴ史上最大のヒットとなり、以後も『ハリー・ポッター』などの人気映画との提携を続けることとなる。
 しかし大半は失敗に終わり、さらに互換性のない新シリーズ投入は固定ファンを怒らせ、ブランドの信頼を落とす結果となった。

     〔ウィキペディアより引用〕


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