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無名雇われデザイナーの流浪の日々。

地球の片隅でひらめいたことを、気が向いたときに書き綴っているページです。

器と中身

2005年08月11日 | NONSENSE TALK
<このブログは、2004年1月4日に別サイトへ掲載した日記を移設したものです>

 5年ぶりの日本での生活がスタートしちょうど1年が経過して、年も改まったところで東京雑感。

 一番感じたのは、スクラップ・アンド・ビルドのパワー。経済が停滞してようがなんだろうが、新陳代謝を進めるスピードと持続性は、世界にも例が無い程ではないでしょうか。
 伝統を大切にしないとか、軽んじているとか言う向きもありますが、残っていたとすれば、日本が世界に誇れたと思える江戸時代の街並みは、一部を残して空襲や震災で壊滅してしまっています。もうここまで来たらどんどん新しくして、世界一のサイバー空間を目指してもらいたいものです。
 
 そう言えば、六本木ヒルズを作った森ビルでは、港区とNYの巨大なスケールモデルを作り、都市計画の検証に使っているのですが、初めて見たとき、一企業の持ち物としてはちょっと違和感を覚える程の規模で、これからも期待がかかります。
 余談ですが、そう言った意味からは、上海に象徴される中国の発展ぶりにはちょっと嫉妬、彼等がどこまで発展し続けられるのかが勝負ですが。(勝負するのか?)

 さて、器(うつわ)を進化させるパワーはあるとして、問題はその中身かな?と思います。中身とは、文化でありシステムであり、最終的には人です。
 
 残念ながら、この面では絶望的な印象です。もちろん、独創的な発想や高い成果を上げて輝く人が特筆されている場面も見受けられますが、総じてパワーが感じられません。
 昔、このコラムでも少し触れましたが、社会構造の変化に伴うシステム側の要求と個人個人のマインドとの矛盾が、悪循環を起こしているような感じで、失礼な言い方ですが、ローエンドの人達のパワーが低下している中、一部の最先端の人がずば抜けている訳でもなく、また、これからの日本がどちらへ向かうのか明確なゴールも無いという閉塞感すらあります。
 
 よく、欧米はAC社会だと言われますが、Cの人も人生はパワフルに謳歌しています。オールB社会を無理やりACスタイルにする過程で、人生を楽しむパワーさえ失っていく日本人が、増えないことを祈るばかりです。

 ところで、最初にスクラップ・アンド・ビルドを提唱しておいてなんなんですが、伝統ある街並みを守ると言う意味で、江戸情緒が残る古い東京下町の住居を、商業エリアとして保存してはどうでしょうか? 
 建物の上っ面は残して、防災対策含めたインフラ整備は地下化してでも行い、植木鉢が溢れる狭い路地裏にひしめく、古い日本家屋の中身がブティックやレストラン・カフェなんかになってるという、ヨーロッパの旧市街ではおなじみの街作りです。

 古い器で古い商売を続けることではなく、ましてや、どこかの博物館やアミューズメント施設の中に街並みを再現する方法とも違います。
 イメージとして最も近いのが下の写真、これは京都にあるイタリアンレストランで、酒造メーカーが所有する築130年の建物を改修して造られたものです。京都には他にもこうした店舗が増えているようです。



 器だけは、なにからなにまで一新してきた東京ですが、人のマインドまでスクラップ・アンド・ビルドすることは、これからも容易では無いと思われます。
 街も人も、大切なものは守りつつ再生を図ることが可能なのか否か、物事の中身・根本を変えようと思ったら、器を変えるのとは比較にならない労力が必要です。

 やっぱり日本には「六本木ヒルズ」は造れても「旧市街再生」は無理かなあ。

気まぐれなユーザー

2005年08月10日 | NONSENSE TALK
<このブログは、2003年11月22日に別サイトへ掲載した日記を移設したものです>

 デジカメを買い換えようと思っていろいろ検討中です。

 今使ってるのは、富士のFinePix4700Zで、もう5年近く使ってるのかなぁ、1回地面に落として、BODYが少し変形したけど、故障も無く使っています。
 最大の欠点は電池の持ちが悪いこと、展示会なんかの取材をすると、フラッシュを使わなくても、ニッケル水素電池が1時間くらいでなくなるので、最低3セットは必要です。
 そして、出来ればワイド側がもう少し欲しいと、特に、建築物を撮るときに感じます。あと、あまり頻繁にある訳じゃないけど、小さな作品なんか撮影するときの接写性能もイマイチです。

 と言うことで、次期デジカメの候補に上がっているのが、リコーのCaplio G4 Wide。てゆうか、予算を考えるとこれしか選択肢は無いんですけど…。
 ワイド側は、35mmフィルム換算で28mmから使えるし、解像度も300万画素クラスでそこそこ良いし、問題の電池の持ちが抜群に良さそうなのが魅力です。また、接写も1cmからOKなので、まさに理想通りの商品です。
 最大の欠点とされそうな「デザインの悪さ」は、スペックの魅力がそれを上回れば気にしません。余談ですが、僕の場合、スペックの悪さをデザインの魅力が上回って購入を決意することはほとんどないのですが、それってデザイナー失格?

 さて、手頃な価格と魅力的なスペックを持つリコーのこのカメラですが、よくよく調べてみると暗い場所にめっぽう弱いらしい。「ノイズがすごい」「色が変になる」「ピントが合わなくなる」などなど、ネットなんかじゃ大不評大会状態で、室内や夜間の撮影も多い自分にとってはちょっと不安。
 
 まあ、安いカメラだから欠点もあるさ・・・、と割り切る前に、他の選択肢も検討しました。
 オリンパスCAMEDIA C-5060、こちらもワイドが27mmから使え、性能はデジカメの老舗と言うことで信頼できそうで、スペック的にも1眼レフに近いイメージ。ただ多少大きくなるので携帯性が悪くなるのと値段が倍以上!

 どうせ携帯性が悪くて予算オーバーなら、いっそのことミノルタ DiMAGE A1と言うのもあります。こちらもワイド28mmから、スペックはほとんど1眼レフで、外観はそれよりはコンパクトです。ズームは本格的な手動式で、これを手に入れれば、画作りを新たな趣味としてライフスタイルに加えることになりそうです。
 その昔、写真撮りが趣味のような時代もあったので、それはそれでアリかな?と。

 ここでふと思ったのは、この、マーケティングを全く無視した商品比較ってどうなんでしょう?
 
 クルマで言えば、買い換えの条件はスキーに行くから4WD付きとして、普段は足代わりだから、小回りの利くフィットが良いと思いながらも、レガシーもいい感じだし、いっそのことランクルにして、本格的にアウトドアライフを趣味とするのはどうだろう?みたいな比較検討している訳ですよ。

 多分、メーカー側の想定としては、コンパクトデジカメを探しているユーザーは、コンパクトデジカメの中で選ぶと思っているんじゃないでしょうか。
 Caplioはワイドが特徴だけど夜間が弱い、だったら、デザインもおしゃれなIXYにしようか、でも、薄くて携帯性の良さそうなEXILIMも捨て難い、なんてね。
 こういった比較を前提にして、ライバルをいかに超える商品魅力を打ち出すか、デザイン・コスト・宣伝広告まで含め、メーカーは商品開発をしている(はず)なんですが、中には、商品比較図を立体的に作らないと、攻略方が分からないような(分かるのか?)、僕のようなユーザーがいるんですね。

 こんな商品選びをするユーザーって、どの位いるんでしょうね? もしかして、けっこういたりすると、決まりきった方法ばっかりで商品企画してる場合じゃないかも。

 さて、肝心のデジカメ選びの行方ですが、突然、奥さんの冬のコートに化けたりして。本当に消費者の心理って、気まぐれですよね。

Dream come true

2005年08月09日 | NONSENSE TALK
<このブログは、LA滞在中の2002年10月16日に別サイトへ掲載した日記を移設したものです>



 先日ショッピングセンターをふらふらしていたら、新製品の家庭用掃除ロボットを発見しました。
 同様のものは、日本で松下電器がすでに発表していますが、こちらはUS製で、US初を謳い文句にしています。カタログから読み取れる自律走行機能も、先の松下のものに近い感じでしたが、見た目の雰囲気からは、ちょっと信頼性は低いような…

 ま、製品に関しての詳細はここでは置いておくとして、今回お話ししたいのは、この製品を見て思い出した学生時代の話しです。

 学生時代、プロダクトデザイン課で与えられる課題には様々なものがあり、ときには家電製品なんかもテーマになります。
 そんなときは、先ずは秋葉原に繰り出し、カタログを集め、売れ筋をつかみ、デザイン/機能を比較研究し、さらには自宅にある製品を分解したりなんかして、傾向と対策を練るのが通常です。
 そして、現在の状況を把握した後、自分オリジナルの製品を企画/デザインして行くのです。

 ある日、「家庭用掃除機」と言う課題に従ってデザインを行っていました。先のプロセスで一通りの調査を済ませ、大きくて重い掃除機(なにしろ20年前ですから…)を、なんとか狭い日本の住宅でも使いやすく出来ないかと思案した結果、最近よく見る、キャスター付で引っ張るタイプの小さな旅行カバンのようなスタイルを提案しました。
 重量物(モーターやコードリールなど)をなるべく本体下部へレイアウトし重心を下げた上で、その上にゴミスペースを配置すると言う高さのある形に、立ったまま楽に本体を引っ張れる取っ手を付けた形状は、我ながら傑作だと思っていたのですが、居るんですよね、ほぼ反則技のような提案をして来るヤツが。

 そうなんですよ、お掃除ロボットと称しAくんから提案されたそれは、松下電気の発表したものより、大きさはもう少し小さいながらも、デザインの雰囲気はそっくりだったような気がします。
 なんと言っても20年前、技術的見通しもなんにもない状態です。ロボット制御技術はおろか、大きさ自体も「そんな大きさじゃあ、なにも吸い取れねぇだろう!」と言ったようなシロモノで、製品的には夢のまた夢状態の提案でした。

 しかしながら、時代の変化と技術革新とは恐ろしいもので、とうとう現実の世界に現れたモノに対面してしまった、と言うのが先日の出来事だったのです。

 オーディオ/ビジュアル関係なんかも、そんな経験をしがちな課題です。

 ある日、こんどは「家庭用ビデオカメラ」と言う課題に取り組んでいました。
 そのころは、やっと8mm規格が普及し始めた頃で、カメラもCCDなんてものは無く、映像管とか言う大きいものを使っていて、プロ仕様さながら、本体を肩に乗せつつレンズと平行に配されたグリップを、神輿のようにかつぐスタイルがカッコ良い感じを出していた時代です。
 しかしながら、コンパクトカメラやウォークマンなどの小型化の勢いを見れば、ある程度の小型化が進むことは予測が付きました。そこで僕の提案としては、カメラとデッキを分離して、より小型軽量感を出すと言うコンセプトを骨子に、デッキは初代ウォークマンレベルの大きさとして腰に下げ、カメラはアクティブに振り回せるサイズ、いまある製品で言えば、小型のドライヤー位のサイズでデザインしました。

 そして、やっぱり登場した反則技、今回はSくんの提案でした。
 固形ハンドソープを2回り程大きくしたような色・形のものに、レンズの穴や、グリップしやすい溝などを配したコンパクトな(小さすぎる)デザインは、当時、誰しも実現性をまったく無視した提案としか思えませんでしたが、そんな時代は、案外早くやって来たのでした。

 彼等の提案に対する実際の評価がどうだったのかは、知るよしもありませんが、なんとなく、「課題の趣旨とはズレている」と言うコメントがあったような記憶があります。課題を出した側としては、技術革新の夢を追うよりは、現実をどう料理するかがポイントだと考えていたようです。
 でも、結果から見れば、彼等の提案はあながち間違いでは無いと言えます。
てゆうか、市場の要望(或いは人間の基本的欲求)に基付く技術革新の方向性をしっかり見据え、考えられるニーズを素直に形にしたモノが、時を経て本当になったのですから、反則と言うよりは、むしろ、プロダクトデザインの王道だったと言えるかもしれません。

 いま学生だとして、ラップトップPCや携帯なんて課題が出たら、どうしましょうかね?
 
 現実味が全くなくて、課題の趣旨と違うとか言われながらも、20年後にはほんとうになっちゃうような提案は、学生だからこそ出来るのではないでしょうか。現実を直視して、プロっぽい仕事をするのも良いですが、振り返って見れば、なにも考えずに、あるべき姿(夢)を追った製品をデザインする経験があっても良かったかな、とも思います。

 でも、いまだに自分の提案も傑作だったと思ってるんだけどなぁ(笑)

やった理由を言いなさい

2005年08月06日 | NONSENSE TALK
<このブログは、LA滞在中の2001年11月7日に別サイトへ掲載した日記を移設したものです>


「L.A.もの+がたり」今月号でも紹介した通り、先月、マーケティングリサーチ会社の取材を行いました。マーケティングとデザイナーの関係、切っても切れない、でもいろいろ確執もあるこの両者を取り持つ、なにか創造的な解決策は無いものでしょうか?

 バブルの頃、デザイナーは訳分からない横文字を並べ立て、デザインを崇高なものに祭り上げるかのようにして、経営者を煙に巻いていた時期がありました。いま考えると笑っちゃいそうなユーザーターゲットを掲げ、デザイナーがユーザー像までもクリエイトしていた時代でした。
 ところがその後、実態の無い経済と同じレベルだと言わんばかりに、そのようなデザインプロセスが敬遠されるようになり、綿密な市場調査の結果と、それに基づく確実なデザインが要求されるようになったのです。

 しかしながら、この市場データー、デザイナーにとってはなかなかやっかいなモノだったりします。新しいモノを作り出す根拠にはなり得なかったり、その信憑性に疑問を感じたりで、自分のデザインを守るために、データーを上手く料理する(捻じ曲げる?)技術を持たないデザイナーには、けっこうやり難い世の中になったかもしれません。そしてさらに困ったことには、いまでも古き良き時代(?)の影を引きずるデザイナーも居て「見た目で良いと感じればそれでいいじゃないか」などと言い出して。。。

 僕は、低迷する日本経済を、次のステップに踏み出させるために改革が必要なように、我々デザイナーにも、時折意識改革が必要なのではないかと思います。

 世の中は常に新しい価値を求めています。日本のデザイナーが、調査の結果、安くて品質の良い普通のモノしか作れなくなっている間に、ヨーロッパ車は革新し、iMacが一世を風靡したりして、悔しい思いをして来ました。(なかには、分かり易い目標が出来たと思っている人もいるかもしれませんが)
 でもここで、やっぱりデザイナーの手綱を緩め、自由な発想をさせた方が良い、、、と言うのでは進歩がありません。いま必要なのは、デザインを分かり易く説明できる技術。どのような背景から、どのような考えで、なにをやったか。それをちゃんとロジックで説明し証明する技術を、デザイナー自身が身に付けることではないでしょうか?
 そして、革新的な優れたデザインを、確信を持って市場に提供できるようにして行くことではないでしょうか。

 その具体的な方法は、以前「意識と無意識」でもちらっと触れましたが、より深度の深い調査と、我々自身(デザイナー)の発想プロセスの解明ではないかと思っています。
 調査/分析の世界では、感性工学だとか認知科学とか、無意識の領域に深く介入すべく日々進歩しているようです。これにより、表面的には現れ難い、現実により即したユーザーの嗜好が把握されて行くと思われますが、僕は、これだけではまだ片手落ちだと考えています。

 いちばん重要な「じゃあこうしたいです」の部分を裏付ける根拠に乏しいからです。

 そこを証明するには、やはりデザイナー自身が意識して、「ひらめき」の謎(プロセス)を紐解く必要があると思います。そのためには、市場調査やその分析技術への理解と知識が、多少なりとも必要になるかもしれません。でもそれは、デッサンの基礎を一生懸命勉強したときの労力や、新しいアプリケーションを習得するより簡単な、ちょっと意識するレベルで充分だと思っています。また、すでに知識をお持ちのデザイナーは、ユーザーを分析するのと同じように、自分自身を分析し解明する勇気を持てば良いのです。(解明した途端、そこに突っ込みが入る危険は避けられませんけど…)

 実はこの問題を、デザイン関係の掲示板でデザイナーの方達と何度か論議した事があります。(そこでこのサイトの存在を知った方もいらっしゃると思います)そして、なかなか理解してもらうのは難しいな、と言う感触を持っていたのですが、先日、ジャパンデザインネットのID事務所訪問と言う企画で、福本さんと言う方が運営しているアイディーネットの紹介を読み、「ああ、やっぱり」と言う気持ちになりました。

 内容の詳細については、記事及び事務所のHPをご参考頂くとして、その概要は、デザイン(デザイナー)と経営者の間に入って、(デザイン語の)通訳をして上げよう、と言うビジネスで、それがなかなかうまく行ってる様なのです。福本さんは、それをインフォームド・デザインと呼ばれていて、語源はご想像の通り、医学用語のインフォームド・コンセントからで、まさに言い得て妙という感じです。

 しかし、「ああ、やっぱり」と思ってみたものの、でも、やっぱり、情けなくないですか?
だって、自分が生み出したアイデアを、他人に代弁してもらわなきゃならない、と言うことですよね、これ。それとも、それは楽だと感じるデザイナーの方が多いのでしょうか?少なくとも、依頼はデザイナー側からの要請では無く、経営者側からの要請であって欲しい気がします。「うちのデザイナー何言ってるか分からないからちょっとお願い」みたいな。。。それも情けないですが。

 結局、ビジネスが成立する程難しい問題と言うことは、簡単に解決する様なことでは無いのかもしれませんね。
個人的には、そのビジネスにちょっと興味が湧いて来たりして。。。

21世紀

2005年08月05日 | NONSENSE TALK
<このブログは、LA滞在中の2001年1月6日に別サイトへ掲載した日記を移設したものです>

 新年、というか今年の場合は『新世紀』が幕開けしてしばらくたちました。
2001年宇宙の旅なんぞを見てた頃には、21世紀には相当なことになってるんだろうと思っていましたが、来てしまえば、まあ、こんなものかと言う感じですね。

 さて、各メディアの定番と言えば、年末は過去を振り返る特集、年明けは未来を占う(予測する)特集ですが、ここでもちょっとそんな話題に触れておこうかなと・・・

 どこでも言われてることですが、これからの社会(きっと文化も含め)にとって、あらゆる通信を含めたネット関連の動きに注目ぜざるを得ないと思います。
僕は、これは過去には想像し得なかったくらい、人々の生活環境のみならず、心理にも影響を与える変化ではないかと思っています。
 つまり、その昔は、未来には宇宙に行ったり、すばらしく便利な生活になったりと、物質中心の豊かさが語られて来ましたが、現実に21世紀の始めに起こるであろう変革は、人間の内面に向かって突き進む技術革新ではないかと言うことです。

 ノーツのメールシステムの考案者が、システムの根底にあるコンセプトとして、次ぎのようなことを話していました。
全ての情報を全員が等しく共有することにより、そこから生まれる判断力や想像力の能力を浮き彫りにしたい。分かり易く説明すると、それまでの会社組織では、情報を知っていることが上下関係の差でもあり、それをうまく操作することで、上に立つ人間としての権威を保つことも出来ましたが、これからは、社員全員社長から平社員まで、すべての情報を同時に共有すべきであり、ノーツシステムがそれを可能にする。おのずと、上に立つものの条件は、同じ情報からいかに正しい判断を導き出し、明確なビジョンを提供できるかにかかって来ると言うことです。

 現実にはそんなにクリアーには行かない部分もあるでしょうが、この考え方では、その人間の情報処理能力(判断力)が極めて明快に要求されます。そこには甘えや依存が通用しない、ガラス張りとも言える厳しい環境がイメージされて来ます。

 現在、個人単位でも急速に進んでいる通信/ネットの世界でも、人々に物質的豊かさ、利便性、そこから生まれる時間的メリットと引き換えに、人間個人の存在における外界との境界線が、肉体的なものから精神的なものへ、どんどん狭まって行くような感覚が感じられます。
 おそらく将来的には、すべての人が通信で結ばれるようになり、リアルとバーチャルの境界線は益々希薄になって、どんな離れた場所でも、あたかも自分がそこで機能しているがごとく、もの事を進めることが出来てしまうのです。
そうなったときいちばんインパクトがあることは、夕食の買い物中、ふと冷蔵庫の中身を携帯で確認できるとか、自分が運転している自動車が、事故を未然に防いだり道に迷わない等といった事ではなく、常に他者の存在を感じながら(実態があるなしにかかわらず)生活するスタイルが始まり、そこから生じる様々な心理的影響(良い面も悪い面も)ではないでしょうか。
 極論してしまえば、人類がテレパシーという機能を手にしたようなもので、そこから享受される物質的な変化は、いままでとは異なった秩序が生まれそうな、人と人との間に起こる変化と比較すれば、遥かに小さいことのように思えます。

 これからは、人間の心理的作用をもの創りに反映する必要がより重要になるばかりでなく、心理作用そのものをデザインする必要性も出来てくるのではないかと思います。テクノロジーと人とのコーディネートを越えて、このテクノロジーは人と人の心をどうコーディネートするか、そんな感覚が必要になってくるのかもしれません。

組織力

2005年08月04日 | NONSENSE TALK
<このブログは、LA滞在中の2000年11月2日に別サイトへ掲載した日記を移設したものです>

 いつも集団で仕事をしている工業製品のデザインの場合、時々面白い光景を目にすることがあります。
ある製品が完成し発表され、市場での反響もまずまずといったところ、ほっと一息付くデザイナー達の会話です。

A:「○○はカッコ良くていいですねぇBさん(製品デザインスタッフ)」、
B:「そう?、嬉しいなぁ、実はあれは俺のデザインスケッチが抜擢されたものなんだよ」、
その会話を近くで聞いていたCとD、
C:「あいつ、自分の手柄のように言ってるけど、俺がコンセプト会議で出したアイデアが無かったら、あのデザインは生まれなかったんだぜ!」、
D:「おまえら勝手なこといってるけど、あの製品は○○さんがチーフでまとめたんだろ?」、
遠くで聞き耳を立てていたデザイン部長:「俺がチーフを指導してやったから、あの製品もやっとまとまったようなもんだ。。。」

 ま、みんな俺が俺がと手柄話しに花を咲かせるこのような光景、にが笑いしているあなたは経験者?
決して僕はこの光景を批判するつもりはありません、というかむしろ肯定したいと思います。
 開発スタッフ一人一人が自分の仕事に自信が持てて、自分達のプロダクトを愛することが出来なければ、このような会話は交わされないですからね、むしろ最悪なのは次ぎのようなケース。

A:「○○ってアレでいいんですかねぇ?Bさん(デザイン担当チーフ)」、
B:「いや、俺も良くないとは思ってるんだけど、C(デザインスタッフ)が全然譲らないんだよ、奴のデザインセンスを疑うね、まあ、役員審査も通ってるしいいんじゃない、知らね」、
その会話を近くで聞いていたCとD、
C:「だいたいあのデザインは部長の肝入りで変えられないんだ、俺の責任みたいに言われちゃかなわなよ」、
D:「そっか、しかし部長もデザインセンス落ちたねぇ、昔は憧れたもんだけど」、
遠くで聞き耳を立てていたデザイン部長:「あのデザインは重役が気に入ってるから、もう、あれで行くしかないんだ、ここでまた審査でいちゃもん付けられた日には、開発スケジュールがめちゃくちゃになる、俺の立場も分かって欲しい・・・」

 話しは変わりますが(おいおい^^;)、良いリーダーの条件とはなんでしょうか?
高校時代、漢文(かなにか)の授業に出てきた、国を統治する人間のレベルの見方が、いまでも記憶に残ってます。それは、次ぎのように大きくは4つのレベルに分けられていました。
一番能力の低い統治者は国民に馬鹿にされる、
3番目の統治者は国民に恐れられる、
2番目に良い統治者は国民に尊兄される、
で、一番良い統治者は国民に存在を感じさせない、
 つまり、川に橋が掛かったり税金が安くなったりして生活が良くなっても、国民はすべて自然の成り行きと感じ、特別、あの人がやってくれたからとか、誰それのお陰だとか思わせないと言うのです。

 最近日本の新聞で、ビジネス本の広告を目にしました、「1匹の狼に率いられた100匹の羊の群れは、1匹の羊に率いられた100匹の狼の群れに勝る」と出でいました。
 内容については読んでいないのでなんとも言えませんが、なんとなく言いたいことは分かる気がします。
 デザインの世界で言えば、カリスマまではいかなくても、有能なトップデザイナーが率いるチームで、仕事を行うスタイルの方が、むしろ一般的かもしれません。
強い個性を持ったデザイナー達が、てんでばらばらに仕事をしていたらまとまるものもまとまらない、チームを率いる強い意志を持った、しかも才能溢れるデザイナーが必要と言う訳です。
先の統治者の例でいくと、2番目か3番目(あるいは両方足したような感じ)といったとこでしょうかね?

 次ぎの話題ですが(まとまりの無い奴^^;)、昨今、日本の年功序列社会は崩れつつあり、能力主義を前面に打ち出した欧米型システムに移行しています。別にそれに反対するつもりはありませんが、ここで思うのは、日本人はもともと協調や調和を重んじる風潮の中で育っていて、いきなり実力主義ですと言われても、歪みを感じる人がいるのではないかと言うことです。

 欧米(特にアメリカ)では、非常に自己の確立を重点に置いた、個人主義の教育がなされています。3歳の子供に服を買ってやるのに、「おまえはどれが良い」と本人に選ばせ、子供が選んだものはたとえ親が気にいらなくても、本人の考えを尊重して買い与えると言います、しかも良いものを選んだと褒めながら。
 そうした個人主義教育の結果かどうかは分かりませんが、アメリカ人スタッフの仕事ぶりからは、非常に自分の責任区分をはっきりさせたがり、それ以外はやらないし、自分の区分に他人を入れたがらない感じを、我々日本人は受けます。

 つまり、欧米型能力主義は、各個人の責任区分がはっきりしていて、それ以外はやる必要がないし、そこに余計な介入も少ないシステムのなかで、非常にクリアーに本人の達成度合いが判断される状況では有効ですが、責任区分がはっきりせず助け合い精神が必要で、上下左右の気分や思いを察知して、余計な仕事を盛り込む必要がある日本人組織に、欧米型の能力主義をそのまま持ち込むことが良いのかどうか、こちらへ来てから逆に疑問に思うようになりました。
 もっと言えば、どんな環境や社会で育ち、どんなアイデンティティを持って生きているか、その人自身に染み込んでいる考え方が、日本と欧米では大きく違うのではないかと思います。

 どちらが良いとか悪いとかではなく、(どちらにも良い面悪い面があると思います)、その社会にはその社会に合ったシステムが必要なのではないかと思うのです。
そして、出来れば日本人の持っている良い感覚(協調や調和)を残した上で、より個人の能力が発揮できる社会を作ることは出来ないのだろうかと、ここに居て強く感じます。

 一匹の狼が率いる組織は典型的な欧米型の生産性の高い組織だと思います、でももし、100匹の狼をコントロールする、超クレバーな羊がいたらどうでしょう?
各個人が(トップの存在など気にせず)自分の意志で伸び伸び仕事をしている(気にさせられて)、アウトプットしたものを全員が誇りを持って自分がやったと言える組織。
 なにか、東洋と西洋が気持ち良く融合することに、可能性を感じてます。

(最近は海外に飛び出す若い人達も多くなっていると聞きます。彼等と話すと、海外で暮らして日本人の良さに改めて気がついたと言う人も少なくありません、逆に、欧米型個人主義が作る人間関係には、ネガティブな面もあることも実感しているようです。彼等には是非そのような経験を通して、日本人の良さを失わず欧米社会の良い側面も取り入れた、新しい価値観を創出してくれることを期待したいものです)

意識と無意識

2005年08月03日 | NONSENSE TALK
<このブログは、LA滞在中の2000年7月26日に別サイトへ掲載した日記を移設したものです>

 このテーマは、ここ数年、非常に興味を持ってる内容ですが、うまく文章で伝えることができるかどうか分かりませんが、書いてみます。

 人間は考えることが出来ます、その為に記憶したものを思い出したりも出来ます。これは、みなさんが意識できることですよね。たとえば、「32+48=」と言われれば、数を数え計算できますし、「明日のおかずをなににしようか」と、知識をフル活用(レシピや家族の好み、財布の中身など)していろいろ考えますよね。

 このような人間の行動は、すべて自分が意識してコントロールしていることなのでしょうか?とある本に以下のような事が書かれていました。

 例えば、熱いお茶を手にこぼしたとします。あなたは、とっさに手を引っ込めて「熱い」と言うでしょう、その行動についてあなたは、お茶をこぼして熱さにたまらず、あわてて手を引っ込めたと表現するかもしれません。
 でもそれは正しくない可能性が高いのです。実際には、あなたが熱いと意識したときには、手は勝手に引っ込んでいたはずです、つまりそのときのあなたの行動を正しく表現するとすれば、手が勝手(本能)に引っ込んだ後、熱い感覚が発生したので「熱い」と言い、状況的にお茶が手にかかっていたことを認識した、となると。

 これは極端な例としても、人間、自分の行動はすべて自分の意識で完全にコントロールしていると思っていても、実際にはそうではなく理由が後追いしていることがあるのです。

 私達は良く商品に関するサーベイをかけ購買動機を聞きます、「デザインが気に入ったから」「価格が手頃だから」「お店の人に勧められて」・・・もちろん本人がそう思って答えているので嘘ではありませんが、実は本人さえも言葉で表現できない(あるいは意識できない)もっと決定的な購買理由が隠されている場合があります、言葉に出た理由は、本人がいろんな状況を考慮し、納得出来る(し易い)理由なのです。

 また、私自身が開発していた商品に関して、社内アンケートを取ったことがあります。設問に「この商品が発売されたら、あなたは購入しますか?」というものがあったのですが、発売数年後追跡調査をした結果、「買う」と答えた人で本当に購入した人は少なかった、という事実とは正反対に、「買わない」と答えた人で購入した人もけっこういて、びっくりしたものです。

 もう、将来のことになると、全然あてにはなりそうもありませんね。

 さて、我々の無意識のなかでは、なにが起こっているのでしょうか? マーケティングにおいても、もの創りにおいても、人間を相手になにかをする場合、このことを考える重要性が非常に高まっています。なにしろ、我々自身が「ひらめいた!」と感じるなにかも、無数の記憶の蓄積から引っ張り出されて結合されたかたちが、無意識の世界から突然意識レベルに上がって来るという、我々のコントロールの範疇を越えた話しですから、これが解明できれば、クリエーターなんて職業いらないかもですね^^;

アメリカ西海岸

2005年08月02日 | NONSENSE TALK
<このブログは、LA滞在中の2000年7月15日に別サイトへ掲載した日記を移設したものです>

 アメリカ西海岸、ウエストコースト・・・ある時期、ある年代の人にとっては、非常に魅力のある響きを持つ言葉。はたして今現在も、同じ存在なのでしょうか?いまも世界に向けて、同じ魅力を発信し続けているところなのでしょうか?

 僕はここLAに来て2年半、はっきり言ってデザインの世界における、先端とか洗練みたいなものは感じることはできません。むしろ、一言で「ダサイ田舎」と言ってしまっても良いくらいです。

 このことについて、現地のデザイナーと話したとき、ここで得られるものは、温暖な気候と豊かな自然を背景とする、アウトドアスポーツを中心とした若者文化で、いわゆるデザイナーっぽい、都会的で洗練された感覚を望むことは難しいだろうと言っていました。

 では、ここで活動することの意味は? もちろん北米市場に限れば、そのアンテナ基地として有効ですし、若者の限られた世界では、トレンドメーカーとなり得ているのでしょう、でも、僕なりの結論としては、開放的で自由な雰囲気、なんでも受け入れてくれる環境、それらを生かして他では出来ない、大胆で新鮮なアウトプットを伸び伸び行えるところ、そんな印象です。決して、なにかの刺激があったり、センスを磨いてくれるとこでは無いという感じがします。

 ところで、先の若者のトレンドメーカーについて気になる話しを。たしかにウエストコーストは、X-GAME系発祥の地であり、そこに付随するファッション、音楽を含め、そのライフスタイルは広く世界に広がって行ってます。日本の若い人達にもにも多大な影響を与えていると思います。

 ところが先日、とある日本の会社の社内ベンチャー企画で、東京にNEWライフスタイルショップを作る計画を進めるべく、世界中をリサーチしている方とお会いするチャンスがありました、彼は東南アジア方面を回った後、アメリカ大陸を横断中でLAに立ち寄ったところでした、そして彼曰く、近頃の日本の若者は、トレンドの先端は日本だと考えており、海外で流行っているとかいないとかは関心ないとか、つまり「いまLAで人気の」とか「パリで流行の」なんてのは、てんで効力無しってことらしいです。

 そーいえば、キックボードをパリやNYの街中で使用する人が増えている、なんてNEWSをこちらでやってましたが、いまごろ?と思ったらちゃんとTOKYOに継ぐ流行だと報じていましたね。日本でいまスタバやGAPが人気なのも、彼等にとっては、別に異国文化の匂い云々なんてイメージは全然ないんでしょうねぇ・・・