転んだからには起き上がれ

最近はタイトルから外れたブログになりつつあります・・・でも、好きな言葉なのでそのまま残しておこうかと・・・w

父親の死

2005-12-02 02:48:02 | 日記
少し話が出たので書こうと思う。
オイラは家が自営をしていたため裕福とまではいかないがそれなりに恵まれた環境で育ちました。
と言ってもメチャメチャ忙しいってほどでもない蕎麦屋だったのですが、親父の人柄と努力でそこそこお客様は来ていましたので金銭面でって話です。
母親の愛情や家族と言う形はわかりません。
兄弟も1人いますがそれも今じゃ音信不通です。

学校に通ってたときは悪い事ばっかりしてました。
校内暴力の全盛期であり、その行為自体悪い事とは思っていませんでした。
TVでは横浜銀蝿がどのチャンネルでも映っており不良と言う今じゃ死語とも思える言葉がカッコいいと勘違いしていました。

中学のときは単車で学校に行ってました。
冬は寒いので学校に行く前にウィスキーを5、6口含んで学校に行きました。
制服といえば長ランにドカンまたはボンタンと言うスタイルで短ランなんてものを着てる奴なんて1人も居ませんでした。

2年からはそんな制服を着ても先輩からは何も言われませんが、1年の頃からそんな事をしていたので先輩からは目をつけられ帰り際に呼び出されボコボコにされましたね。

ある日、先輩6人ぐらいに呼び出され薄っぺらいかばんに文句を言われ長ランとドカンと言うスタイルが生意気だとメチャメチャぶっとばされました。
オイラはそんな事で言う事を聞く素直な人間じゃなくその日の帰りにとある場所に行き特注で制服を作ってもらいました。

それから一週間は何かあれば先輩にケチをつけられ蹴られ殴られました。
でもその特注の制服を着ていった事で先輩はさすがに何もしなくなりました。
その特注の制服は真っ白の制服でした。

学ランは7つボタンのふくらはぎまである長ランで、ズボンはわたりが70CMもある超ドカンを穿き、靴は白のエナメルと言うスタイルでした。
さすがに何者?と感じたのでしょう(w
まぁ、今じゃ恥ずかしくてそんなスタイルできませんけど。。。

小学校4年の頃から近所の先輩(先輩といっても18歳でしたけど)の家に夜な夜な家を抜け出し通ってました。
と言うのもその当時その先輩がブラックエンペラーに所属していて集会に連れて行ってもらいました。

正月ともなれば正月暴走で冨士までくっついて行きましたね。
さすがにこうなると同級生との調和が取れるわけも無く小学校では浮いた存在でした。
その頃からタバコも吸ってましたしね。

そんな小、中学校を過ごし高校になるとすっかり落ち着いてしまい、スタイルもほぼ普通のスタイルでした。
ガキの頃から単車に乗っていたのでバイクには興味があり免許が取得できる年齢になるとせっせと通い単車を買い学校をサボってはサーキット場と峠に通いました。

はっきり言って壮絶な人生を歩んでいます。
この話本当?って言われるぐらいです。
でも人生って楽しまなきゃ損だと思うんです。
今ある命がいつ何で途絶えるかわからないんですから。

なぜこんな話から始まったのかと言うと、この一部始終を親父は見てきたからです。
そしてこの壮絶な生き様を支えてくれたのは親父です。
子煩悩な親父でオイラにとっては尊敬できる唯一の存在です。
その親父は平成元年5月15日に交通事故で帰らぬ人になりました。

悪い事をしていても中学、高校と蕎麦を作って学校に行ってました。
と言うのも親父は蕎麦アレルギーだったのです。
じゃあなんで蕎麦屋なんてやるんだよって言う人も居ますが、これは蕎麦屋を始まってから出た症状でそれ以前はそんなことは無かったのです。
ですから蕎麦に携わる部分は強制的にオイラがやる事になったのです。

その親父の根性たるや凄いもんです。
蕎麦屋、しかも手打ちなものですから仕事場の至るところにそば粉なんてあります。
しかも粉の状態はちょっとした風で舞ってしまうのでそれを吸ってしまうと途端に発作が出るのです。
何度も救急車で病院に運び込まれました。
心肺停止なんて知っている限りで2度ほどあります。

でも病院から帰ってきた次の日には店を開けていました。
親父いわく「こんな蕎麦でもお客さんは来てくれるから」との事でした。
定休日以外の休みはほとんど無く酒を飲んで朝方帰ってきてもキチンと仕事をする親父でした。

実際、悪い事をしていても親父は怖いと思っていました。
何度も喧嘩しましたが親父は常に本気でオイラにぶつかって来てましたね。
日本刀を持って追いかけられた事もありましたけど(w

でも親父の自慢のその店が平成の元年1月に火事で燃えてしまったのです。
その後の親父は情緒不安定で見ていても辛かったです。
オイラは親父と話し合い再起に向けて一つの提案を出しました。
親父の蕎麦は確かに美味い。 でもこれからは蕎麦をもっといい物にするために出す量を減らしてセットメニューで商売しようよと話た。

親父にとっては微妙であったと思う。
でも、それが一つのきっかけになって再起に向けて頑張れる事ができる何かになればと思った。
話はすすんでオイラは知り合いの寿司屋に修行に行き、火事がきっかけで親父とも話ができる時間が増えた事がとてもよかった。
それも数ヶ月で終わるとは思ってもいなかったけどね。

死んでしまう前日、オイラと親父はチンチロリン(さいころを3つ使って遊ぶ・・・と言うか賭け事かな)をしていた。
22:30頃だったと思う、親父は用があるので出かけてくると言いだした。
何の用かは聞かずに、ただ嫌な感じがしていたことを覚えている。

そしてそのままオイラは00:00語頃には寝たと思う。
朝方4:30にオイラは名前を呼ばれた気がして目が覚めた。
正確にはオイラの名前を叫んだ声が聞こえた。
そのときとっさに親父の寝ている場所を見たがそこに親父は寝ていなかった。

火事以来、家を空けたことがなかった親父だったので不安だったが、仕事のためもう少し寝ないと体がもたないので寝る事にした。
朝の7:00に警察から電話がありお宅のお父さんが交通事故で亡くなったと聞かされた。
その時は頭をハンマーで殴られた感じがしたのを覚えている。

警察に行くと地下室で横たわっている親父を見た。
悲しかったが涙が出ず、ただ全身の力が抜け頭の中は真っ白だった。
その後にその親父が置かれている場所に腹が立ち警察官の首根っこを掴み怒鳴っている自分が居た。

と言うのも、地下室と書いたが、実際には警察が没収した車両等を収めてある駐車場で、そこにタンカに載せられ上から黒いビニールシートをかぶされただけの裸の父親が居たからだ。
後に所長が出てきて平に謝ったが怒りは収まらなかった。

葬儀が終わり落ち着いてからは不思議と涙が止まらなかった。
でもここ数年間はろくな事が無く逆に楽になったと思うことにしている。
そんな親父が亡くなって16年が過ぎようとしている。
今でもあの時の叫び声は忘れなく、虫の知らせってあるんだなぁとふと思う。
親父の話だけではなくなってしまったがまた自分について書こうと思っている。
今回、母親が出てこなかったのには訳がある。
母親はオイラにとっては最悪の存在で語るとこれもまた長くなりそうだから・・・

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