音訳ボランティア サークル声

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目が見えないことと見えること 雑感1

2016-12-16 22:00:00 | 旧ブログ記事

20161216

伊藤さんの書かれたこの本「目の見えない人は世界をどう見ているのか」を読んでいると、常識というか私の思い込みを見事にひっくり返してくれるところが面白いというか、快い感じがする。

(視覚障がいをお持ちの方に、何かしてあげなくては)という思いには、目の見える人の見え方が常識というか、正しいものであり、見えない人が見ている世界はハンディキャップを抱えて気の毒な人という、何か立場の上下を感じさせるものがあるのは、少し感じていたことではある。

しかし、この本を読んでいて、目の見える人には必要以上のものを見せられているあり方に気付かされた。必要以上の情報が視覚を通じて入ってきている。多すぎる情報のために物の本質を見失っている状態があると指摘されている。この指摘は驚いた。

コンビニで、特に欲しくないものまで買ってしまうあり方。現役時代、自分の商品をいい場所に置いてもらい、競合商品より目立たせるように交渉したりしたこともあった。売り場を演出する立場でそういう考え方があるように、買う立場では(特に欲しいわけではなかったが衝動買いをしてしまった)という経験もある。不要な情報が氾濫することで購買行動が歪められるようなことがあるのは事実だ。視覚障がい者の場合、欲しいものが決まっている状態でコンビニでも店舗でも入っていく。そして必要なものだけを買って店を出る。余計なものは見えないので買わないというわけだ。

歩いていても、車を運転していても、テレビを見ていても、電車に乗っていても・・・。必要なことをするのに必要な視覚情報を得れば十分なのに、余計な情報が視覚から入ってきてしまう。迷い、悩み、不安に思い、またある時は怒りを感じる。もちろん思わぬものが視覚を通じて見えて感動や喜ぶこともある。しかし不要な情報のほうが多いのではないだろうか。

そういう意味では見えないことも悪いことではないかもしれない。いや悪いとか可哀想とか決めつけられないのではないだろうか。

椅子は普通4本足で安定しているが、足の1本がない3本足の椅子があれば不安定になる。しかし足の付け方で安定する3本足もある。床が凸凹の場合には安定する3本足の椅子のほうが4本足より安定する。3本足でバランスがとれている場合にはそのほうが機能的であるともいえる。視覚も無いだけでは不安定だが、視覚がないことで全体のバランスが取れ始めるとそちらのほうが機能的になる場合もあるとも言えるのではないか。

見えない人の部屋ってどんな状態かご存知でしょうか。余計なものがなく乱雑でないといいます。教えられればなるほどと思います。何故部屋が整理されているか。乱雑では何がどこにあるかわからないからだそうです。物はすべて決められた場所に置かれていないと、モノを探すのに大変な苦労をするからだそうです。これも教えてもらわなければわからない、目の見えない人の常識です。