日本人はどこから来たのか】
桃山学院大学元学長 沖浦和光著
それでは、今日の日本という国や「日本人」は、どうやって成り立ってきたのでしょうか。私たちモンゴロイドと呼ばれたアジアに住む人たちは、さらに<古モンゴロイド>と<新モンゴロイド>に分類することができます。古モンゴロイド系は背がやや低く、彫りの深い顔で体毛は多い。色はやや浅黒いという特徴があります。おもに南方アジアに分布しています。
それに対して、新モンゴロイド系と呼ばれた人たちは、のっぺりとした顔で体毛が薄く、背が高い。皮膚色はどちらかといえば白い。こちらは東北から北方アジアに広がっています。
一方、日本列島が今のように海に囲まれた島国になったのは約2万年前の氷河期の終焉期です。気温が上昇し、海水面が約150m上昇したため、大陸から切り離されました。列島となった日本には、旧石器時代後期から東南アジアから北上してきた古モンゴロイド(=南方系モンゴロイド)の先住民が住んでいました。
気候の温暖化に影響され生まれた「縄文文化」がこの日本列島で発展します.
その後、中国大陸の江南地方に住んでいた倭人系が渡来してきます。倭人たちは稲作文化と金属器文化をもち、朝鮮半島を経由して九州へやってきました。その後も何波にも分かれて朝鮮半島からやってきた倭人系の渡来集団は、その数を増やすにつれて九州・四国から西日本まで広がり、先住民と融合しながら古代文化の基礎となる「弥生文化」、さらに古墳文化の発展の推進力となります。
次に、東北アジアに住む騎馬民族系の集団が朝鮮半島北部に入ってきます。「高句麗」を建国し、さらに半島を南下して、「百済」「新羅」をおびやかします。
北方系文化の影響を受けた朝鮮半島からの渡来人は、早くから九州北部にやってきます。そして縄文からの先住民や弥生時代の渡来民を制圧して融合しながら、勢力を広げ、やがて近畿地方まで進出してヤマト王朝を建国しました。しかし、北関東以北の地方と南西諸島を中心とした縄文人以来の伝統的民族は、新しい渡来集団の遺伝子を受けることが少なく、独自性を維持してきました。それがアイヌ民族と南西諸島の先住民です。
まとめると、現在の日本民族には6つの源流が考えられます。まず、アイヌ系と南島人で、古モンゴロイド系の縄文人の末裔です。2つめは倭人で、彼らの多くは稲作農耕民と海の近くで舟運に従事し、漁をして暮らす海民です。3つめは南方系海洋民で、その主力は黒潮に乗って北上したマレー系海民とみられています。今日のフィリピン人、インドネシア人の源流に連なる人びとです。4つめは、朝鮮三国からの渡来人ですが、その主力は倭人系です。5つめは、中国の江北地方から朝鮮半島を経て北九州に渡ってきた新モンゴロイド系で、大陸の北方に住む漢人系の人びとです。6つめが北方系騎馬民族(新モンゴロイド系・ツングース族)で、ヤマト王朝を建国した天孫族にもこの流れが入っています。
もっとも古くから日本に住んでいる現在の民族は、縄文人の血を引くアイヌ民族です。近年、分子生物学や遺伝生物学がめざましく発展し、人類学にも大きな影響をおよぼしています。地球に住む「ヒト」の歴史が科学的に解明できるようになったのです。
たとえば、アイヌの人たちの血液からDNAを調べた結果、日本最古の民族である縄文人のDNAと非常に近いことがわかりました。これを根拠に、2008年、国会で「アイヌ民族を日本の先住民族とすることを求める決議」が満場一致で採択されました。
日本列島の最初の住民は、数万年以上も前にやってきた人たちです。あえて言うなら、その末裔である縄文人こそ、私たち日本人の直接の祖先なのです。縄文時代の終わり頃から続々と侵入してきた稲作民たちの中には、自分たちを天照大神以来の皇統を受け継いでいる天孫、すなわち天津神(あまつかみ)の子孫であると主張した人たちがいました。しかし実際は先住民を次々と征服し、自分たちの王朝を打ち立てた侵入者(インベーダー)でした。
ヤマト王朝を建国後、万世一系と称する天皇制の皇統譜(こうとうふ)を作成し、それを『日本書紀』、すなわちヤマト王朝の自分たちに都合のいい歴史をつくり上げて、「正史」としたのです。歴史とは必ずしも「本当にあったこと」の記述ではなく、その時々の権力が自分たちに都合よく創り上げるものなのです。
ヤマト王朝すなわち天皇制国家が生まれたことにより、先住民族に対する抑圧と差別が始まりました。天孫族は、自分たちとは異なるルーツをもつ人々を「化外(けがい)の民」とし、国家の支配体制から差別し排除しました。
そうした先住民は「土蜘蛛(つちぐも)」と呼ばれ、各地の山中で自給自足の生活を送りました。さらに、最後まで抵抗したアイヌの人々を住んでいた土地から追い出し、としてあちこちに分散させました。
そして、律令制によって天皇制国家を法制化し、公地公民制と身分制度を確立したのです。東北地方の「蝦夷」と南九州の「熊襲」(ヤマトに降伏後、「隼人」と呼ばれる)は反乱を起こしましたが、圧倒的な力の差によって押さえつけられました。このようにして、律令制にもとづく天皇制とは民族差別の制度化のなかで構築されたものなのです。
戦後、自然科学の発達と同時に、長い間、国家権力によって押さえつけられ、タブーとされてきた天皇制批判が解禁されました。学問研究の自由が保障され、戦争中に発言を封じられていた研究者たちが次々と研究の成果を発表しました。そのうちのひとつが考古学者・江上波夫が発表した<騎馬民族征服王朝>論で、ヤマト王朝を打ちたてた天孫族は、2,3世紀ごろに東北アジアから朝鮮半島に来た騎馬民族が、4~5世紀に日本列島に渡ってきたものであるという主張です。これは天津神の子孫と称してきた天皇家の民族的出自を明らかにするものとして、大きな波紋を投げかけました。部分的反論もありましたが、東アジア史を踏まえながらヤマト王朝形成史を体系的に提示した学説は、そのころはまだ現れていませんでしたから、学界やジャーナリズムに大きなショックを与えました。
私が大きな問題だと思うのは、研究がどんどん進んでいるにもかかわらず、未だに天皇家を「神」とつながる特別な血筋であると考える人たちが少なくないことです。また、日本という国や日本民族が多様なルーツをもつ人々によって成り立っていることも驚くほど知られていません。
せっかく進んできた歴史学や考古学、人類学が小・中・高の段階できちんと教えられていないからです。「自分たちの国や民族は特別なのだ」という発想から、他国や他民族への抑圧や差別が生まれます。国家・国民とは、人為的な政治的枠組による「国籍」概念にすぎません。そして「国籍」問題は、民族形成の歴史的過程論と同じ次元で論じることはできません。
わかりやすくまとめてみましょう。最初に述べたように、私たち「ヒト」のルーツはアフリカで誕生した原人です。世界中に散らばり、それぞれの地方の風土や自然に順応した結果、さまざまな「民族」へと枝分かれしました。生物学的にみても、「ヒト」のもともとの能力や素質に優劣などありません。
国家や国民という概念は、現在、力をもっている者がつくった政治的な構築物であり、本来の民族とは別のものであるということです。私たちは、権力をもった者が創り上げた枠組みのなかに組み込まれ、支配体制に都合のよいようにつくられた歴史を学ばされているのです。まずそのことを知り、日本という国がどのように成り立ってきたかを学ぶことが重要です。それが真の歴史教育であり、人権教育の第一歩だと私は考えています。
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コメント
ちゅうた しげる
ちゅうた しげる 現在の日本人の自己意識は「学問」以前の幼稚なものだが、「学問」という制度的意識形態も精緻に批判されるべきだ
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· 返信 · 19分前
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ちゅうた しげる
ちゅうた しげる 李在一さんの「明治維新日本人成立説」も十分学問的に検討されるに価すると思うのだが
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