進藤龍也牧師の真面目な方のブログ

元ヤクザの牧師の真面目なブログ
進藤語録、進藤節・・・メッセージや独り言をつづります。

極端な信仰は虐待

2019年03月12日 | 新・進藤語録

「極端な信仰は虐待」

風邪を引き礼拝を休むと牧師に心配かけまいとして、連絡してきたのに「礼拝に出れば治る」と、もし牧師が言うなら、信仰という名の虐待だろう。

精神的病には霊的な影響はあることは認めるが、統合失調症は脳の病気である。その方を悪霊に取り憑かれたというなら、信仰という名の虐待だろう。

もちろん、多くの霊的な影響による病気があることを認めての上である。


際にやってみなければ体験できない、神の恵みである十分の一献金も、経済的な理由で、今はできない人に対して「信仰が足りない」というのも信仰という名の虐待だろう。

人生をキリストとともに変えて行く作業は伴走なのだ。

自戒を込めて書く。
そして全ての霊的指導者を私は尊敬し愛する。
私にとって私を嫌う指導者がいたとしても、その方も人々を愛し導き霊的に養うことで尽力されているから



「信仰に裏付けされた行動」‭マルコによる福音書‬ ‭2:5

2019年03月11日 | デボーションシェリング 2016年から

「信仰に裏付けされた行動」

「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦された」と言われた。」
‭‭マルコによる福音書‬ ‭2:5‬ ‭新共同訳‬‬

観察
「しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。」
‭‭マルコによる福音書‬ ‭2:4‬ ‭新共同訳‬‬

これがイエス様の見た彼らの信仰である。会うことができれば癒されるのだ!という、何が何でも!という信仰

適用
私たちクリスチャンは祈るだけではなく、祈りに裏付けされた行動を起こして行くこと。
彼ら(中風の友達)の行動はまさに信仰から出た行動であった。

中風の人は、自分の力で来ることはできない存在であった。その彼を仲間が信仰を持って連れてきたのだ。私もそのような人であり続けたい。

また、罪赦されなければ、癒しはないのだ。また、罪赦されなければ元気も出ないのだ!

祈り
今日の礼拝も期待した以上で、救いがあり、癒しがあり感謝します。礼拝が終わってからも3人の人が来てくれ感謝でした。ロスからも来てくださって感謝です。デボーション交わりにも感謝です!1人ひとりが成長しますように。アーメン