今日は大阪の現場があったが電車の中は涼しいが現場はまた蒸し風呂。
屋内でも冷房がきいているのかわからないほど人が大勢で帰る電車の中で私はぐったりしている。いつかはこの現場は離れないといけないとも思っている。
来年はもう若い記者に任せて見ようと思っているが----。
若手記者も、もうそろそろこうした現場にも顔を出して少しずつ取材を兼ねて現場を見ていると原稿の内容が見えてくるようになる。
私は日本社会にどっぷり使っていて日本の雑誌記者時代も楽しい日々を過ごした。しかし民族の血は私をそこに長居させなかった。
韓国に入っていく機会を少しずつ作ってくれた。
慶州市と奈良市の姉妹締結交流の現場から入って初めて民族というものに正面から向き合わせた。これが韓国語を習う動機にもなった。
そして通名だったが韓国語教室のある民団奈良県本部会館に通いだした。
そこで教えていた韓国政府派遣教師は通名のままの活動をする私そのまま放っておかなかった。在日韓国人社会でいい記者になるようにと言って私を在日韓国人が経営する新聞に紹介した。
悩んだ。在日韓国人社会は何も知らない。はたしてできるのかどうか悩んだ。
胃が痛むほど悩んだ。1ヶ月は悩んだ。
後押しがあった。
今は亡き奈良新聞社のMさんが「転職したほうがいい。必ず新しい道が開ける。ただこれだけは守りや。組織に入ったら組織のやり方にすること」と言った。
猛烈に突進する私の性格を彼は見抜いていたようだと今はそう思う。
彼は「在日韓国人の新聞社が辛くて退職したときは奈良新聞で面倒を見る」と、知人に話していたようだ。
頑固でプライドが高くていつのまにか距離をおくようになっていた彼の言葉を知人から聞いてもっと大事にして話を聞けばよかった。
入院していた病院にも見舞いに行けばよかったと亡くなって数年経ってくるとしきりにこんなことを思い出している。
転職して仕事をしたけれど血が騒ぐだけでは仕事ができない。
失敗を随分としてきた。
しかし先輩たちは注意して叱咤したが気長く私を見守って育ててくれた。
今は大抵の現場なら浅く広く取材できるようになった。
諸先輩たちが気長く私を育ててくれたので後輩にも私は同じことをしないといけないと思っている。周りはいろいろと話題を出されるが私は言う。
「もう後、数年もすれば育ちます。育てて下さい」と言っている。
その時、私は70歳になる。そろそろ退け時かもしれないとも思ったりしている。
若い時はどんな現場も猛烈にダッシュして取材したが今は猛烈ダッシュのエネルギーがない。そして近年も仕事が第一だが私生活も大事にしている。
猛烈に仕事をしている時は同窓会も行きたくても忙しくて心がそちらに向かなかったが今は違う。同窓会も大切にしている。まして小学校の同窓会はみんな身辺を知っている。飾ることも何もない。
ありのままにいられる自分がいてほっとする場所だともわかった。
同級生には様々に職業に就いている。
中学から私学に行った人もいた。
しかし同窓会で会うとそんなことも何もない。
歩んだ人生は関係なく子どものころの皆がいる。
ただ私は1人の同級生に言う。
同じ日に生まれた男性は1浪して京都大学に入学している。
しかも当時はバスもそんなに通わない町の中で僻地、相楽郡の秘境の1つだったかもしれないのにそこから京都大学に入っている。
脳の格差、本人の努力もあるがやっぱり知能指数が違うのかと思ってしまう。
今はここも秘境ではない。
住宅開発でバスも様々の行先で走るようになり今は関西近郊のベッドタウンになっている。
今は亡き奈良新聞社の社長は私に言った。
「君なら転職してもやれる。大丈夫だから」という言葉に何度も何度も励まされて失敗を繰り返しても必ず明日には光が見えてくると信じて前に向かって歩いてきた。
それともう1つ、私を側面から見守って下さった韓国政府派遣教師や駐在員の人たち、その人たちも傍らでおられたので今日、こうしてまだ仕事を続けてできている。もう1人、どうしても忘れてはならない在日韓国人の男性がいるが男性に迷惑がかかってはいけないのでここに書かないことにします。
諸先輩たちの恩は後輩に託さないといけないと思って私は私なりに努力しているつもりだが、伝わらないようだったら私の人間修養が足りないのかもしれない。まだ心の底に負けん気の強い気性が潜んでいることは私も自覚している。
もっと心の修養しないといけないのに自我がでている。
我儘な私がまだそこにいる。
暑い最中、また、私の過去談義をしてしまった。
周りはこんなことを書いたらと、進めてくれるが私は「私の過去なんで誰も読みません」と一蹴している。
すみません。言って下さる人に本当は心で感謝しています。
書けないこともある私がいる。
そこのところは整理できたら書けるだろうと思っている。
まだ時間がかかりそうだ。
時計はもう8時43分。
9時になれば外出の支度をしないといけない。
体調管理で仕事はパスしたが女友達と会っているのはストレスにならない。
双方、話し終わってすっきりしている。
それしても今日も暑いな。
てんやわんやした、昨日のことは夕方にでも書きます。
屋内でも冷房がきいているのかわからないほど人が大勢で帰る電車の中で私はぐったりしている。いつかはこの現場は離れないといけないとも思っている。
来年はもう若い記者に任せて見ようと思っているが----。
若手記者も、もうそろそろこうした現場にも顔を出して少しずつ取材を兼ねて現場を見ていると原稿の内容が見えてくるようになる。
私は日本社会にどっぷり使っていて日本の雑誌記者時代も楽しい日々を過ごした。しかし民族の血は私をそこに長居させなかった。
韓国に入っていく機会を少しずつ作ってくれた。
慶州市と奈良市の姉妹締結交流の現場から入って初めて民族というものに正面から向き合わせた。これが韓国語を習う動機にもなった。
そして通名だったが韓国語教室のある民団奈良県本部会館に通いだした。
そこで教えていた韓国政府派遣教師は通名のままの活動をする私そのまま放っておかなかった。在日韓国人社会でいい記者になるようにと言って私を在日韓国人が経営する新聞に紹介した。
悩んだ。在日韓国人社会は何も知らない。はたしてできるのかどうか悩んだ。
胃が痛むほど悩んだ。1ヶ月は悩んだ。
後押しがあった。
今は亡き奈良新聞社のMさんが「転職したほうがいい。必ず新しい道が開ける。ただこれだけは守りや。組織に入ったら組織のやり方にすること」と言った。
猛烈に突進する私の性格を彼は見抜いていたようだと今はそう思う。
彼は「在日韓国人の新聞社が辛くて退職したときは奈良新聞で面倒を見る」と、知人に話していたようだ。
頑固でプライドが高くていつのまにか距離をおくようになっていた彼の言葉を知人から聞いてもっと大事にして話を聞けばよかった。
入院していた病院にも見舞いに行けばよかったと亡くなって数年経ってくるとしきりにこんなことを思い出している。
転職して仕事をしたけれど血が騒ぐだけでは仕事ができない。
失敗を随分としてきた。
しかし先輩たちは注意して叱咤したが気長く私を見守って育ててくれた。
今は大抵の現場なら浅く広く取材できるようになった。
諸先輩たちが気長く私を育ててくれたので後輩にも私は同じことをしないといけないと思っている。周りはいろいろと話題を出されるが私は言う。
「もう後、数年もすれば育ちます。育てて下さい」と言っている。
その時、私は70歳になる。そろそろ退け時かもしれないとも思ったりしている。
若い時はどんな現場も猛烈にダッシュして取材したが今は猛烈ダッシュのエネルギーがない。そして近年も仕事が第一だが私生活も大事にしている。
猛烈に仕事をしている時は同窓会も行きたくても忙しくて心がそちらに向かなかったが今は違う。同窓会も大切にしている。まして小学校の同窓会はみんな身辺を知っている。飾ることも何もない。
ありのままにいられる自分がいてほっとする場所だともわかった。
同級生には様々に職業に就いている。
中学から私学に行った人もいた。
しかし同窓会で会うとそんなことも何もない。
歩んだ人生は関係なく子どものころの皆がいる。
ただ私は1人の同級生に言う。
同じ日に生まれた男性は1浪して京都大学に入学している。
しかも当時はバスもそんなに通わない町の中で僻地、相楽郡の秘境の1つだったかもしれないのにそこから京都大学に入っている。
脳の格差、本人の努力もあるがやっぱり知能指数が違うのかと思ってしまう。
今はここも秘境ではない。
住宅開発でバスも様々の行先で走るようになり今は関西近郊のベッドタウンになっている。
今は亡き奈良新聞社の社長は私に言った。
「君なら転職してもやれる。大丈夫だから」という言葉に何度も何度も励まされて失敗を繰り返しても必ず明日には光が見えてくると信じて前に向かって歩いてきた。
それともう1つ、私を側面から見守って下さった韓国政府派遣教師や駐在員の人たち、その人たちも傍らでおられたので今日、こうしてまだ仕事を続けてできている。もう1人、どうしても忘れてはならない在日韓国人の男性がいるが男性に迷惑がかかってはいけないのでここに書かないことにします。
諸先輩たちの恩は後輩に託さないといけないと思って私は私なりに努力しているつもりだが、伝わらないようだったら私の人間修養が足りないのかもしれない。まだ心の底に負けん気の強い気性が潜んでいることは私も自覚している。
もっと心の修養しないといけないのに自我がでている。
我儘な私がまだそこにいる。
暑い最中、また、私の過去談義をしてしまった。
周りはこんなことを書いたらと、進めてくれるが私は「私の過去なんで誰も読みません」と一蹴している。
すみません。言って下さる人に本当は心で感謝しています。
書けないこともある私がいる。
そこのところは整理できたら書けるだろうと思っている。
まだ時間がかかりそうだ。
時計はもう8時43分。
9時になれば外出の支度をしないといけない。
体調管理で仕事はパスしたが女友達と会っているのはストレスにならない。
双方、話し終わってすっきりしている。
それしても今日も暑いな。
てんやわんやした、昨日のことは夕方にでも書きます。
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