今朝、更新したフエイスブックをはりつけておきます。
8月30日(木)晴。しかし冷房は入れていない。今、朝の8時前。室温は30度、湿度は55%。11時に看護師さんがこられるので10時半頃には冷房を入れないといけないと看護師さん、汗だくになられる。
昨日は夫、橿原市まで高齢者の免許の切り換えの講習に行った。朝、7時にでて自宅に戻ってきたのは3時半。これは高齢者にきつい。帰ってきた夫はしんどいと疲れていた。
そんなことで夫は家にいない。固定電話がなった。薬局での薬が足りなかったので後日、渡すことになっているというのでその電話と思い電話を取りに行った。懐かしい声が飛び込んできた。民団京都左京支部でお世話になった人だった。
もうとうに忘れていたことが今になって皆さんの声になっているという。民団婦人会京都本部で作成した婦人会、オモニたちの文集を私は編集作業した。何度も何度も婦人会本部に通い作成した。当時の婦人会長は発想力が豊かで規格外の活動にも着手、私が在日の新聞社に来る前は奈良県の雑誌、雑誌記者で編集者だったことを糧にして婦人会の文集を作成するという。私がそれを担ったものの婦人会の会員はよく参加して協力して下さった。若かったからできたが今、考えると恥ずかしい。反省することばかりである。私が大学の学歴があれば、そのまま雑誌記者や本社の新聞記者に残っていたと思う。しかし高卒の私、まわりは事務員も大卒、上司は私のやる気とこの仕事が好きで引っ張って下さっていた。しかし同僚はそうではなかった。仕事をこなしていくほどいろんな確執があった。そして夫の身内は日本国籍にかえていく。私もその準備で法務局に行き書類を取っていた。
しかしまたここで私は葛藤する。韓国の事をわからないで日本国籍にしていいのか。葛藤を繰り返す。そしてまた心の底に日本人のふりをして日本の記事を書きたくないという心がもたげてくる。とりあえず、ハングルを習ってみようと考えて、民団奈良県本部の韓国語教室に行った。ソウルから派遣されている海外派遣教師は私の雑誌記者の名刺を見て驚かれた。通名だったが奈良にいる在日韓国人の記者に驚かれた。そのあとはいつのまにか私は在日韓国人の日刊紙の記者になって通勤は大阪になっていた。
同僚は奈良県の雑誌記者はたいしたことない。すぐやめると思っていた。しかし雑誌社で5年間、上司に人材育成したもらったことは曲がりなりにも生かされた。他界された同僚、死人には口なしだが、彼の私に対する確執は凄かった。「明日から会社に来るな」と言われた。
思い余って、東京の編集局長に電話をした。編集局長も私に助け舟を出して下さった。「チョンさんはどこにでも入って行けるのが魅力、韓国に関係するところならどこでも入って」と。それから、私の現場要請は東京の編集局から直接になった。そして大阪の現場に入らせない同僚に私は閉口して、京都支局がなくなったことから、私は京都の現場に入っていった。最初はみんなに無視されたが婦人会本部は私を受け入れてくれた。女性の集まりでむろん。いろんなことがあったが京都の現場をかけまわって私の信用がついていった。私は広告業務が苦手で一切しなかった。そのかわり支社長らが私の取材の後をあるいて多額の広告料をもらった。
そして京都市の外国人教育関連の現場にも入り、たくさんの情報を得ることができた。
そして学者シリーズの連載、2世から3世の連載記事も参加した。文化面1面も任された。5年で日刊紙の新聞社から退職、民団中央本部機関誌の関西担当記者になり、上司の身の削るような守りで私は26年間仕事をすることができた。しかし死人には口なしだが、ここにきても彼の確執は酷だったと思っている。私が今、この話をしてはいけないことはわかっている。しかし昨日、頂いた左京支部の人の電話で、私が31年間、記者生活ができたのは、婦人会京都が私を受け止めてくれて人材育成をして下さった。今更ながら、婦人会京都本部の皆さんに感謝です。冊子の活字、ワープロで打ってくれた当時の青年会会長さん、青年会本部に足が向けられないほど感謝している。今はパソコンでワード入力もできる。1988年前後、まだパソコンはそんなに普及していなかった。それからしぱらくして爆発的に浸透していくが、文集作業はワープでされた。感謝、感謝のみである。
この冊子の作成に多少は寄与したのでこれまで生き残れたのかとも思っている。辛くて悲しい日刊紙の職場だった。1番辛い時だった。日本人のふりをして日本の記事は書きたくない。この思いが日刊紙の記者に踏みとどまることができた。古巣は辛かったら戻ってこい。暗黙の了解だった。彼のことは忘れようと思うが、どうしても心の底に残っている。そんなことを知っているのはごく少数であるので私は言葉にしないことにしている。もう私は済んだ人である。あまりあれこれといってはいけない。しかし何もいわない私は一方通行に言葉が飛び交っていることも知っているが黙っている。今更、言ってもせんないこと。ただ婦人会京都本部の会員たちが、文集の発刊に喜んでおられることに感謝している。ありがとうございます。
今朝、食べたものご飯、焼鮭、みそ汁はわかめ、ほうれん草のおひたし、茄のつけも、ご飯がすくないので、市販のおにぎり一個、今朝は450カロリーもある。昼、抑えないといけない。今日はこのへんで。
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8月30日(木)晴。しかし冷房は入れていない。今、朝の8時前。室温は30度、湿度は55%。11時に看護師さんがこられるので10時半頃には冷房を入れないといけないと看護師さん、汗だくになられる。
昨日は夫、橿原市まで高齢者の免許の切り換えの講習に行った。朝、7時にでて自宅に戻ってきたのは3時半。これは高齢者にきつい。帰ってきた夫はしんどいと疲れていた。
そんなことで夫は家にいない。固定電話がなった。薬局での薬が足りなかったので後日、渡すことになっているというのでその電話と思い電話を取りに行った。懐かしい声が飛び込んできた。民団京都左京支部でお世話になった人だった。
もうとうに忘れていたことが今になって皆さんの声になっているという。民団婦人会京都本部で作成した婦人会、オモニたちの文集を私は編集作業した。何度も何度も婦人会本部に通い作成した。当時の婦人会長は発想力が豊かで規格外の活動にも着手、私が在日の新聞社に来る前は奈良県の雑誌、雑誌記者で編集者だったことを糧にして婦人会の文集を作成するという。私がそれを担ったものの婦人会の会員はよく参加して協力して下さった。若かったからできたが今、考えると恥ずかしい。反省することばかりである。私が大学の学歴があれば、そのまま雑誌記者や本社の新聞記者に残っていたと思う。しかし高卒の私、まわりは事務員も大卒、上司は私のやる気とこの仕事が好きで引っ張って下さっていた。しかし同僚はそうではなかった。仕事をこなしていくほどいろんな確執があった。そして夫の身内は日本国籍にかえていく。私もその準備で法務局に行き書類を取っていた。
しかしまたここで私は葛藤する。韓国の事をわからないで日本国籍にしていいのか。葛藤を繰り返す。そしてまた心の底に日本人のふりをして日本の記事を書きたくないという心がもたげてくる。とりあえず、ハングルを習ってみようと考えて、民団奈良県本部の韓国語教室に行った。ソウルから派遣されている海外派遣教師は私の雑誌記者の名刺を見て驚かれた。通名だったが奈良にいる在日韓国人の記者に驚かれた。そのあとはいつのまにか私は在日韓国人の日刊紙の記者になって通勤は大阪になっていた。
同僚は奈良県の雑誌記者はたいしたことない。すぐやめると思っていた。しかし雑誌社で5年間、上司に人材育成したもらったことは曲がりなりにも生かされた。他界された同僚、死人には口なしだが、彼の私に対する確執は凄かった。「明日から会社に来るな」と言われた。
思い余って、東京の編集局長に電話をした。編集局長も私に助け舟を出して下さった。「チョンさんはどこにでも入って行けるのが魅力、韓国に関係するところならどこでも入って」と。それから、私の現場要請は東京の編集局から直接になった。そして大阪の現場に入らせない同僚に私は閉口して、京都支局がなくなったことから、私は京都の現場に入っていった。最初はみんなに無視されたが婦人会本部は私を受け入れてくれた。女性の集まりでむろん。いろんなことがあったが京都の現場をかけまわって私の信用がついていった。私は広告業務が苦手で一切しなかった。そのかわり支社長らが私の取材の後をあるいて多額の広告料をもらった。
そして京都市の外国人教育関連の現場にも入り、たくさんの情報を得ることができた。
そして学者シリーズの連載、2世から3世の連載記事も参加した。文化面1面も任された。5年で日刊紙の新聞社から退職、民団中央本部機関誌の関西担当記者になり、上司の身の削るような守りで私は26年間仕事をすることができた。しかし死人には口なしだが、ここにきても彼の確執は酷だったと思っている。私が今、この話をしてはいけないことはわかっている。しかし昨日、頂いた左京支部の人の電話で、私が31年間、記者生活ができたのは、婦人会京都が私を受け止めてくれて人材育成をして下さった。今更ながら、婦人会京都本部の皆さんに感謝です。冊子の活字、ワープロで打ってくれた当時の青年会会長さん、青年会本部に足が向けられないほど感謝している。今はパソコンでワード入力もできる。1988年前後、まだパソコンはそんなに普及していなかった。それからしぱらくして爆発的に浸透していくが、文集作業はワープでされた。感謝、感謝のみである。
この冊子の作成に多少は寄与したのでこれまで生き残れたのかとも思っている。辛くて悲しい日刊紙の職場だった。1番辛い時だった。日本人のふりをして日本の記事は書きたくない。この思いが日刊紙の記者に踏みとどまることができた。古巣は辛かったら戻ってこい。暗黙の了解だった。彼のことは忘れようと思うが、どうしても心の底に残っている。そんなことを知っているのはごく少数であるので私は言葉にしないことにしている。もう私は済んだ人である。あまりあれこれといってはいけない。しかし何もいわない私は一方通行に言葉が飛び交っていることも知っているが黙っている。今更、言ってもせんないこと。ただ婦人会京都本部の会員たちが、文集の発刊に喜んでおられることに感謝している。ありがとうございます。
今朝、食べたものご飯、焼鮭、みそ汁はわかめ、ほうれん草のおひたし、茄のつけも、ご飯がすくないので、市販のおにぎり一個、今朝は450カロリーもある。昼、抑えないといけない。今日はこのへんで。
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