どこかでつながっている。
1982年から5年間奈良県での雑誌記者時代、奈良県内をあちこちと取材でまわった。しかし吉野郡天川村の弁財天がNHK奈良放送局の局長室に鎮座していた。そんな大きな物ではないが若草山を眺めるように弁財天が置かれている。この弁財天のことを教えてくれたのは毎月、同放送局に行事案内の原稿でお世話になっていた女子職員だったと思う。
さっそく当時の局長に取材交渉をして取材をしたが内容はすっかり忘れてしまった。
とにかく天川村の「弁財天」ということは記憶している。
そして韓国系の新聞社に転職してしばらくして奈良シルクロード博覧会が奈良公園内で開かれたのが1988年の4月から10月だった。
私は1987年4月から民団奈良にある韓国語教室に通い出した。
シルクロード博は韓国の文物と人がたくさん来られるということから、当時のNKK局長のSさんは韓国の人たちとより親密な交流やイベントを考えて同放送局に民団奈良にあった韓国政府設置・韓国語教室の韓国政府派遣教師を迎えて職員たちの韓国語教室が1年間開いた。その派遣教師が私を韓国系の新聞社に入れてくれた人だった。
そしてやがて韓国のKBS放送局の大邱支局と同放送局が姉妹締結をした。
同放送局の職員や私たちは派遣教師の受講生だった。
同放送局の職員たちは定年退職をしてそれぞれ自宅のあるところに戻っていかれた。
それが不思議なことに当時局長だったSさんは今も韓国語学習し韓国語能力試験も受験、地域で日韓国際交流活動をされている。そして姉妹締結時、当時部下だったGさんも地域で日韓交流活動が行なわれ韓国語や文化講座などを行っている。
私はシルクロード博開催時、韓国の催し物をたくさん取材をした。県の職員や当時司会をしておられた同放送局の職員にたくさんお世話になり知り合いになった。
そのGさんは毎年、東大寺のお水取りの行事が始まると他府県在住なのに必ずこの時期に奈良にこられる。そして必ず私に電話をして下さる。
わずか2時間と少しばかりだが1年に1回、1つの楽しみになっている。話をしていると時間はあっというまに過ぎていく。今年も3月6日に会った。
私の女友達とも一緒にあった。話はつきない。韓国の話しやGさんの学生時代にあった安保闘争の話、当時の政治家たちまた韓国と日本の古代史などなどである。私は当時は田舎の高校生で知らないことばかり今聞いても話は新鮮に聞こえる。
ふと、そして思った。
このめぐり合わせは同放送局に鎮座する弁財天のおかげなのだろうか。
大衆の中で文化を創っていく。芸能の神として知られているようだが人と人のふれあい、出会いも弁財天さん好きなのだろうか。それも隣の国、韓国に目をむけた交流活動、若草山を眺めて鎮座する弁財天、遠い古代史をしのび東大寺のあおにおし奈良の都は百済も新羅も往来していたのだろう。そんな交流の橋渡しをしているのだろうか。
どこかでつながっている不思議さを感じている。
どんな時も人と人の関係は大事にしないといけないとまた思っている。
それがまた何日かすると弁財天のことを忘れて我儘な私がそこらへんでウロウロしている。
若草山を眺めて鎮座する弁財天、まして放送局に鎮座するのも珍しいと思う。
私が取材してから幾多の月日が流れた。
まだ若草山の見えているところで鎮座しているのだろうか。
ふと、何年かに1度、思い出す弁財天である。
1982年から5年間奈良県での雑誌記者時代、奈良県内をあちこちと取材でまわった。しかし吉野郡天川村の弁財天がNHK奈良放送局の局長室に鎮座していた。そんな大きな物ではないが若草山を眺めるように弁財天が置かれている。この弁財天のことを教えてくれたのは毎月、同放送局に行事案内の原稿でお世話になっていた女子職員だったと思う。
さっそく当時の局長に取材交渉をして取材をしたが内容はすっかり忘れてしまった。
とにかく天川村の「弁財天」ということは記憶している。
そして韓国系の新聞社に転職してしばらくして奈良シルクロード博覧会が奈良公園内で開かれたのが1988年の4月から10月だった。
私は1987年4月から民団奈良にある韓国語教室に通い出した。
シルクロード博は韓国の文物と人がたくさん来られるということから、当時のNKK局長のSさんは韓国の人たちとより親密な交流やイベントを考えて同放送局に民団奈良にあった韓国政府設置・韓国語教室の韓国政府派遣教師を迎えて職員たちの韓国語教室が1年間開いた。その派遣教師が私を韓国系の新聞社に入れてくれた人だった。
そしてやがて韓国のKBS放送局の大邱支局と同放送局が姉妹締結をした。
同放送局の職員や私たちは派遣教師の受講生だった。
同放送局の職員たちは定年退職をしてそれぞれ自宅のあるところに戻っていかれた。
それが不思議なことに当時局長だったSさんは今も韓国語学習し韓国語能力試験も受験、地域で日韓国際交流活動をされている。そして姉妹締結時、当時部下だったGさんも地域で日韓交流活動が行なわれ韓国語や文化講座などを行っている。
私はシルクロード博開催時、韓国の催し物をたくさん取材をした。県の職員や当時司会をしておられた同放送局の職員にたくさんお世話になり知り合いになった。
そのGさんは毎年、東大寺のお水取りの行事が始まると他府県在住なのに必ずこの時期に奈良にこられる。そして必ず私に電話をして下さる。
わずか2時間と少しばかりだが1年に1回、1つの楽しみになっている。話をしていると時間はあっというまに過ぎていく。今年も3月6日に会った。
私の女友達とも一緒にあった。話はつきない。韓国の話しやGさんの学生時代にあった安保闘争の話、当時の政治家たちまた韓国と日本の古代史などなどである。私は当時は田舎の高校生で知らないことばかり今聞いても話は新鮮に聞こえる。
ふと、そして思った。
このめぐり合わせは同放送局に鎮座する弁財天のおかげなのだろうか。
大衆の中で文化を創っていく。芸能の神として知られているようだが人と人のふれあい、出会いも弁財天さん好きなのだろうか。それも隣の国、韓国に目をむけた交流活動、若草山を眺めて鎮座する弁財天、遠い古代史をしのび東大寺のあおにおし奈良の都は百済も新羅も往来していたのだろう。そんな交流の橋渡しをしているのだろうか。
どこかでつながっている不思議さを感じている。
どんな時も人と人の関係は大事にしないといけないとまた思っている。
それがまた何日かすると弁財天のことを忘れて我儘な私がそこらへんでウロウロしている。
若草山を眺めて鎮座する弁財天、まして放送局に鎮座するのも珍しいと思う。
私が取材してから幾多の月日が流れた。
まだ若草山の見えているところで鎮座しているのだろうか。
ふと、何年かに1度、思い出す弁財天である。
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