京都市内の祇園祭とは縁のない生活を送ってきた。
父親は韓国慶尚南道晋州で生まれて5歳で日本にきた。ずっと社会人になっても京都市内で暮らしていた。
たぶん祇園祭りというものを見ているだろう。
そして相楽郡に住んで結婚してそれから長い間、定年になるまで京都市内まで通勤して会社員をしてきたので祇園祭りを見ているだろう。
けれど子どもたちは祇園祭の話はしなかったので見たのかどうか定かでない。
私は祇園祭というと小学校6年だったと思う。
7月17日、夏休みを前にして短縮授業で午前中体育館の掃除をしていた。下級生も何人か一緒に体育館の掃除をしていた。そのとき在日同胞で2級下の双子の姉の方が体育館で一緒に掃除していた。
私は掃除をしながら私の着ていたワンピースが後ろがホックだったので止めても止めても雑巾がけするたびに外れて困った。本当だったら後ろボタンはボタンホールにしてボタンをすれば屈んでも外れないのにホックだった。なんとも着心地の悪い服だった。
この服は親戚の洋裁習いたてのまた従姉妹に母が頼んで作ってもらったものだったがまだ上手でなかったのだろう。着ていても不自由な服だった。
そんな光景と一緒にその双子の姉が私のところに来て言った。
「今日、お父さんと一緒に祇園祭にいくねん」と言った。たぶん双子の妹も一緒にいくのだろう。
ここの家は私の家から近くにあったが大きい門のある広い土地に住んでいた。瓦を製造して販売しておられて金持ちだった。私は子ども心に金持ちの家は違うなと人事のようにきいていた。決してうらやましいとは思わなかった。
京都の同胞たちにも多くのお金持ちがでていたのでお金持ちたちの付き合いがあったのだろう。
あの木津小学校の体育館の掃除をしながら「今日。これから祇園祭りに行く」と言っていた双子の姉のS子のことを思い出す。姉の方は木津高に行って京都の大学を卒業して大阪に嫁いだと聞いている。妹の方は京都の私立高校と大学に行き京都に嫁いだ。どちらも帰化した同胞に嫁いだ。妹の方は私の父の弟の近所に住んでいたので叔母がその様子をよく話してくれた。
しかしもう子どものころに日本国籍に切り替えていた。
帰化の時のことを父が生前話してくれたことがあった。
日本植民地支配から解放されて民族運動に燃えて在日朝鮮連盟ができて父親たちはここで民族運動をしていた。
そして祖国が分断された。
民族団体2つになったときに木津の朝鮮人はみんな一緒に、どちらかの民族団体に所属しょうとある晩、皆が集って会合を持ってそれぞれに約束をして自宅に戻った。
そしたら1人の裏切り者がいてその1人がみんなに黙って翌日の朝、民団の民族団体の看板をかけたという。
それで父親たちは激怒した。
その瓦製造工場のオーナーはこれを機会に帰化申請に向かった。
私の父親も帰化をしたかっただろうが本家直系の長男と言う立場上、父は帰化をしないかわりに民族団体から離れた。どちらの民族団体も所属しないで「わしは日本社会で生きていく」と言って同胞たちのつきあいに距離を置いた。
分断国家の政局の流れにいつしか父親は双方の民族団体から距離を置き中立を貫いた。
私が小学校6年のときすでに父親は京都に勤める会社員だった。
祇園祭を眺め帰化していった同胞のことなどどんな思いで見ていたのだろうか。
その祇園祭を見に行った双子の父親はその後2・3年して亡くなった。嫁さんは後妻で日本人だった。工場は息子が後を継いでいた。しばらくそして広い土地は車が町にも走り出して駐車場になった。木津ではこの家が最初の方だっただろう。
1960年代の後半である。私は月極、つきぎめと読めなくてげっきょくと読みどんな意味だろうかと思った。
やがて瓦工場は倒産して破産した。家族はばらばらに散っていた。息子さんは在日同胞の嫁さんもいれば日本人もいた。
ただ優秀な息子がいて同胞の中で帰化したのも1950年代と早いがまた公務員、行政機関に採用されたのも同胞で始めての存在だっただろう。もうすでに定年退職をされているだろう。今だったら帰化していても日本人を追い抜いて1番の最高点ということで公務員に採用されたら即ニュースになるが当時は帰化した同胞には冷たい目で見て冷遇だった。批判をしてもニュースにならなかった。
今、定年退職をしてどんな日々を過ごしておられるのだろうか。
雑誌記者時代、どこかでお目にかかっているだろうが直接取材することがなかったので今は残念に思う。
2世の先輩にこんな人がいたことを語り継いでおく。
今日は7月17日、梅雨の合間を縫っての祇園祭、山ほこが巡行されたと、さきほどのテレビのニユースで放映されていた。
毎年、祇園祭のニュースを聞くと私の小学校6年のときのこの日、祇園祭の日のことを思い出す。私には縁のない祇園祭だったが帰化した同胞を通して思いだしている。
父親は韓国慶尚南道晋州で生まれて5歳で日本にきた。ずっと社会人になっても京都市内で暮らしていた。
たぶん祇園祭りというものを見ているだろう。
そして相楽郡に住んで結婚してそれから長い間、定年になるまで京都市内まで通勤して会社員をしてきたので祇園祭りを見ているだろう。
けれど子どもたちは祇園祭の話はしなかったので見たのかどうか定かでない。
私は祇園祭というと小学校6年だったと思う。
7月17日、夏休みを前にして短縮授業で午前中体育館の掃除をしていた。下級生も何人か一緒に体育館の掃除をしていた。そのとき在日同胞で2級下の双子の姉の方が体育館で一緒に掃除していた。
私は掃除をしながら私の着ていたワンピースが後ろがホックだったので止めても止めても雑巾がけするたびに外れて困った。本当だったら後ろボタンはボタンホールにしてボタンをすれば屈んでも外れないのにホックだった。なんとも着心地の悪い服だった。
この服は親戚の洋裁習いたてのまた従姉妹に母が頼んで作ってもらったものだったがまだ上手でなかったのだろう。着ていても不自由な服だった。
そんな光景と一緒にその双子の姉が私のところに来て言った。
「今日、お父さんと一緒に祇園祭にいくねん」と言った。たぶん双子の妹も一緒にいくのだろう。
ここの家は私の家から近くにあったが大きい門のある広い土地に住んでいた。瓦を製造して販売しておられて金持ちだった。私は子ども心に金持ちの家は違うなと人事のようにきいていた。決してうらやましいとは思わなかった。
京都の同胞たちにも多くのお金持ちがでていたのでお金持ちたちの付き合いがあったのだろう。
あの木津小学校の体育館の掃除をしながら「今日。これから祇園祭りに行く」と言っていた双子の姉のS子のことを思い出す。姉の方は木津高に行って京都の大学を卒業して大阪に嫁いだと聞いている。妹の方は京都の私立高校と大学に行き京都に嫁いだ。どちらも帰化した同胞に嫁いだ。妹の方は私の父の弟の近所に住んでいたので叔母がその様子をよく話してくれた。
しかしもう子どものころに日本国籍に切り替えていた。
帰化の時のことを父が生前話してくれたことがあった。
日本植民地支配から解放されて民族運動に燃えて在日朝鮮連盟ができて父親たちはここで民族運動をしていた。
そして祖国が分断された。
民族団体2つになったときに木津の朝鮮人はみんな一緒に、どちらかの民族団体に所属しょうとある晩、皆が集って会合を持ってそれぞれに約束をして自宅に戻った。
そしたら1人の裏切り者がいてその1人がみんなに黙って翌日の朝、民団の民族団体の看板をかけたという。
それで父親たちは激怒した。
その瓦製造工場のオーナーはこれを機会に帰化申請に向かった。
私の父親も帰化をしたかっただろうが本家直系の長男と言う立場上、父は帰化をしないかわりに民族団体から離れた。どちらの民族団体も所属しないで「わしは日本社会で生きていく」と言って同胞たちのつきあいに距離を置いた。
分断国家の政局の流れにいつしか父親は双方の民族団体から距離を置き中立を貫いた。
私が小学校6年のときすでに父親は京都に勤める会社員だった。
祇園祭を眺め帰化していった同胞のことなどどんな思いで見ていたのだろうか。
その祇園祭を見に行った双子の父親はその後2・3年して亡くなった。嫁さんは後妻で日本人だった。工場は息子が後を継いでいた。しばらくそして広い土地は車が町にも走り出して駐車場になった。木津ではこの家が最初の方だっただろう。
1960年代の後半である。私は月極、つきぎめと読めなくてげっきょくと読みどんな意味だろうかと思った。
やがて瓦工場は倒産して破産した。家族はばらばらに散っていた。息子さんは在日同胞の嫁さんもいれば日本人もいた。
ただ優秀な息子がいて同胞の中で帰化したのも1950年代と早いがまた公務員、行政機関に採用されたのも同胞で始めての存在だっただろう。もうすでに定年退職をされているだろう。今だったら帰化していても日本人を追い抜いて1番の最高点ということで公務員に採用されたら即ニュースになるが当時は帰化した同胞には冷たい目で見て冷遇だった。批判をしてもニュースにならなかった。
今、定年退職をしてどんな日々を過ごしておられるのだろうか。
雑誌記者時代、どこかでお目にかかっているだろうが直接取材することがなかったので今は残念に思う。
2世の先輩にこんな人がいたことを語り継いでおく。
今日は7月17日、梅雨の合間を縫っての祇園祭、山ほこが巡行されたと、さきほどのテレビのニユースで放映されていた。
毎年、祇園祭のニュースを聞くと私の小学校6年のときのこの日、祇園祭の日のことを思い出す。私には縁のない祇園祭だったが帰化した同胞を通して思いだしている。
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