8月のお盆過ぎてからあれやこれやと忙しくなった。
いつも行く喫茶店のアートコーナーのところの花が変わっていた。
たまたの仕事の行くときだったのでデジカメが鞄の中に入っていた。
紫色の花に引かれて撮影をした。
この生花はオーナーの奥さんが生けたものである。
以前は結構年輩の生花の先生、80歳というのに感性は今風の感性だった。この大きなアトリエに花を使ってオブジェのようにして花を生けられた。
そして昨年亡くなられたのでお弟子さんが生花をしておられたが心が通っていない花の生け方だった。大きいアトリエに生けた場数が少ないのか物差しで計っているような生け方に花は全部死んでいた。
花も人間と同じで生き物である。それぞれ花にも個性がある。葉っぱも花のつけ具合、蕾の大きさも違うのに左右対称に四角四面に生けられた花はまったく心が伝わってこなかった。
それでも私のアートギャラりーのコーナーでもないので黙って見ていた。
そしてオーナーの奥さんと少し会話をするときに話した。
「亡くなられた先生はこのギャラリーが生きるように生花をされていたのに今はまたきちんと生けてはおられるけれど感動というものがないですね。前の先生はよかったですね」と話した。
そして2・3日ぶりにまたその喫茶店に立寄るとアートギャラリーの花が亡くなった先生の感性がでている花の使い方をされていた。
「店の人は昨日一生懸命に入れ替えたのです」と話された。
やはり花は生き物で花に人間があわした生け方をされたオブジャ風になっていた。
そして今度は里芋の鉢植えを置いたりして生き物に合わせたギャラリーになっていた。生き物に人間があわして行く。
自然にあわして行く原点をここでみるような花の生け方に戻ってきた。
けっして花に無理をさせない。花に人間があわしてアートにしていく。
この感性はいろんなものを見聞きして体験を積んできたものが思い切って自分を生けているという趣向が出せるのである。
8月の終わり花は変わっていたのに写真を撮ったままそのままに保存してあった。なにか所用に追われていた。
本物のギヤラリーきは近鉄奈良駅の東向き商店街を入ったすぐ右側ら「銀杏や」と言う看板がかかっている。
この喫茶店に行くと人間が自然の花を慈しんで生けた花への思いが伝わる生花のギャラリーが見られます。
大ぶりに生けるのは難しいのに80歳の先生は見事にアートの世界を表現されていた。喫茶店を利用するものは知らず知らずのうちにその先生の生花に見せられていた。
かなりの高齢だったのに時流にあわせたアートギャラリーの生け方、かなりの経験をふまないとこんな思い切った生け方は出来ないのに先生は何年もアートギヤラリーを四季や行事に合わせて生けておられた。
花と生活が密着していた。懐かしい。今またそう思う。
けれどまた今また先生の花の生け方に似ている。
人間が花に合わせて花の個性を表現している。
このアートギャラリーの生花はまた楽しみの1つである。
8月の末に生けられた花の写真を1枚紹介しておきます。
いつも行く喫茶店のアートコーナーのところの花が変わっていた。
たまたの仕事の行くときだったのでデジカメが鞄の中に入っていた。
紫色の花に引かれて撮影をした。
この生花はオーナーの奥さんが生けたものである。
以前は結構年輩の生花の先生、80歳というのに感性は今風の感性だった。この大きなアトリエに花を使ってオブジェのようにして花を生けられた。
そして昨年亡くなられたのでお弟子さんが生花をしておられたが心が通っていない花の生け方だった。大きいアトリエに生けた場数が少ないのか物差しで計っているような生け方に花は全部死んでいた。
花も人間と同じで生き物である。それぞれ花にも個性がある。葉っぱも花のつけ具合、蕾の大きさも違うのに左右対称に四角四面に生けられた花はまったく心が伝わってこなかった。
それでも私のアートギャラりーのコーナーでもないので黙って見ていた。
そしてオーナーの奥さんと少し会話をするときに話した。
「亡くなられた先生はこのギャラリーが生きるように生花をされていたのに今はまたきちんと生けてはおられるけれど感動というものがないですね。前の先生はよかったですね」と話した。
そして2・3日ぶりにまたその喫茶店に立寄るとアートギャラリーの花が亡くなった先生の感性がでている花の使い方をされていた。
「店の人は昨日一生懸命に入れ替えたのです」と話された。
やはり花は生き物で花に人間があわした生け方をされたオブジャ風になっていた。
そして今度は里芋の鉢植えを置いたりして生き物に合わせたギャラリーになっていた。生き物に人間があわして行く。
自然にあわして行く原点をここでみるような花の生け方に戻ってきた。
けっして花に無理をさせない。花に人間があわしてアートにしていく。
この感性はいろんなものを見聞きして体験を積んできたものが思い切って自分を生けているという趣向が出せるのである。
8月の終わり花は変わっていたのに写真を撮ったままそのままに保存してあった。なにか所用に追われていた。
本物のギヤラリーきは近鉄奈良駅の東向き商店街を入ったすぐ右側ら「銀杏や」と言う看板がかかっている。
この喫茶店に行くと人間が自然の花を慈しんで生けた花への思いが伝わる生花のギャラリーが見られます。
大ぶりに生けるのは難しいのに80歳の先生は見事にアートの世界を表現されていた。喫茶店を利用するものは知らず知らずのうちにその先生の生花に見せられていた。
かなりの高齢だったのに時流にあわせたアートギャラリーの生け方、かなりの経験をふまないとこんな思い切った生け方は出来ないのに先生は何年もアートギヤラリーを四季や行事に合わせて生けておられた。
花と生活が密着していた。懐かしい。今またそう思う。
けれどまた今また先生の花の生け方に似ている。
人間が花に合わせて花の個性を表現している。
このアートギャラリーの生花はまた楽しみの1つである。
8月の末に生けられた花の写真を1枚紹介しておきます。
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