「日本帝国主義と朝鮮人の民族独立運動」
項目が変わるのでこのころの韓国と日本が記述されている。まずは「このころの日本」から始まっているので著書のページにそって紹介をしていく。
『このころの日本(1910~1945)』
■ 第1次世界大戦と日本社会の変動
第1次世界大戦は日本社会にかつてない好景気をもたらした。日本はヨーロッパ諸国がアジアから撤退した機会に日本製の綿織物などをアジアに輸出するとともに特に造船業と海運業が急成長を遂げた。東京・大阪・名古屋などで急速に都市化と工業化が進展し就学と就職のために多くの青年が農村から流入してきた。日本は中国に「21カ条」の要求をつきつけて反発を招いたが講話条約によって南洋群島を委任統治下におきイギリス・フランスなどとともに国際連盟の理事国となった。
1918年、ロシア革命への干渉戦争(シベリア出兵)による米価高騰にともなって全国的な民衆暴動が起こった(米騒動)。1920年には日本で最初のメーデーが行われ翌年日本労働総同盟が生まれ1922年には小作農の地位向上をめざした日本農民組合、被差別の平等な権利を要求する全国が結成された。女性も婦人会参政獲得の運動を推進し普通選挙を要求する運動が広い支持を集めていった。
大正デモクラシーと呼ばれるこうした動きは都市に生まれてきた新聞記者やサラリーマンなどの市民層を担い手にすると同時に労働や小作農民、農村の青年団などにも広がった。吉野作造の政治学や柳宗悦らの白樺派など、学問や文学・思想にも自由主義的な動向が現れた。
韓国政府教育部国際教育振興院「韓国史」1995年初版発行、98年まで何度か発行されている在日韓国人子弟が韓国に語学留学したときに韓国史も授業に取り入れられている。このときに使用していた教科書である。
『このころの日本』と合わせて少し紹介をしていく。文書の中の言葉は韓国側からの立場で記述しているがそのまま紹介をしていく。
「憲兵警察による武断統治」
大韓帝国を植民地した日本は統治の中枢機関としてソウルに朝鮮総督府を設置した。そしてその下に各種の侵略の立法・行政・司法及び軍隊統帥を一手ににぎる莫大な権力を行使した。日本は歩兵2個師団と約4万名の憲兵及び警察をそして2万余命の憲兵補助員を全国に配置して植民地統治を支えるようにした。
日帝が植民地朝鮮で実施した憲兵警察の政治は世界に類例のない植民地統治政策であった。日帝の憲兵司令が中央と地方の警察組織を統合掌握し一元的命令体系のもとに植民地朝鮮の民衆を水もらさぬほど厳重に見張り弾圧したのがすなわち日本憲兵支配であった。
憲兵警察は単に治安業務だけを執行するのでなく独立運動家の捜索、処断はもちろんのこと日常的な行政にまで手を伸ばした。韓国民を抑圧するために一般官吏や学校の教員にも制服を着せ軍刀を下げるようにした。
このような憲兵警察支配下で韓国民は文字どおり監獄暮らしの暗黒の歳月を送らなければならなかった。言論・出版・集会・結社の自由は完全にはく奪された。日帝の官憲に対して少しでも不服な行動をとった韓国人はただちに逮捕されあらゆる拷問を受けた。そしてまた民族の指導者といわれる人物は容赦なく逮捕・投獄した。しかし厳しい冬の凍りついた積雪の下で新芽が芽生えているように日帝の悪らつな憲兵警察統治のもとで民族の魂はねばり強く成長を続けついには3・1運動という形で爆発した。
今年も後、幾日かで3月1日、在日コリアンの団体などは3月1日、各地で「3・1節」が行われる。韓国ではこの日は公休日である。何年か前にこの日、ソウルの知人の家に電話をした。自宅からの電話で「どうして今日は3・1節を行かなかったのか」と言われた。大事な行事だが記事は東京で作成すると思うとつい現場に足が向かなかった。在日韓国人の筆者の日常生活はこうしたあいまいなものだが韓国国民はそうでない。大事な年間行事の1つである。
その前に今年は2月25日、この連載が掲載された日は李明博大統領候補の大統領の就任式が行なわれている。そして新大統領が誕生する。韓国はまた新しい歴史のページを開き始める。
しかし韓国民は日本植民地統治された歴史は決して忘れることなく毎年3月1日、先人の活動の足跡を振り返り外部から侵略されることなく発展した建国に向けていくことを決意する。在日韓国人の民族団体も同じである。シュプレーコールをして「3月1日は決して忘れない」ことを誓っている。
簡単に「3・1節」を紹介。著書はプレスセンター発行(1985年)浦淳一著・大阪市外国人教育研究会編(サラム草書シリーズ④)の「日本の歴史と朝鮮民族」から。
■ 3・1独立運動
前文―中略―1919年2月8日、日本にいた朝鮮人留学生およそ600人が東京神田のYMCA会館で集会を開いて独立宣言文を発表しました。この「2・8独立宣言」は朝鮮の民衆を大きくはげまし宗教家を中心とした33名の代表の署名による独立宣言文がつくられ秘密のうちに朝鮮全土に配布されました。3月1日、高宗の国葬のために地方からも多くの民衆がソウルに集まってきました。ソウル市内のパコダ公園には市民・学生・労働者数千人が集まりその中で独立宣言が発表されました。人々は大極旗をふり独立万歳を叫びながらソウルの町にくり出しました。みるみるうちにソウル市民や国葬に集まった地方の人々をまきこみデモ参加者は数十万人にも増え市内を埋めつくしました。同じ日、平壌・安州・義州・元山など各地でもデモ行進が行われ全国に広がっていきました。この運動は約1年近く続き初めのり3ヶ月だけで200万人を越える人々が参加するという朝鮮民族あげての独立運動に発展しました。これを3・1独立運動といいます。―中略―初めの3ヶ月だけで死者7500名、負傷者16000名、逮捕者47000名に達したといいます。
筆者は在日韓国人の民族大体の「3・1節」の行事にしか参加したことがないが、3・1独立運動家の名前とその下には指に傷をつけて血を出して押したといわれている血判が押されている当時の「3・1独運動宣言文」を資料として頂く。長い間その資料も保存していたが1昨年の部屋の大掃除で全部捨ててしまった。あれば写真に撮って掲載したかったが手元にない。今度どこかで手にいれたいと考えている。
新大統領の就任式のソウルは寒い。穏やかな日で晴れることを願っている。
【写真説明】1989年、国際教育振興院の前身「ソウル大学校 在外国民教育院」のパンフレットの写真である。1993年に国際教育振興院に名称を変えた。当時のソ連との国交樹立、そして中国との国交正常化にともない在日韓国人子弟だけでなくソ連・中国籍の同胞がこの教育院に留学する在外同胞が多くなった。これを機会に国際教育振興院に名称を変えた。1989年の古いバンフですが今もこの建物です。左隣に寄宿舎もある。
項目が変わるのでこのころの韓国と日本が記述されている。まずは「このころの日本」から始まっているので著書のページにそって紹介をしていく。
『このころの日本(1910~1945)』
■ 第1次世界大戦と日本社会の変動
第1次世界大戦は日本社会にかつてない好景気をもたらした。日本はヨーロッパ諸国がアジアから撤退した機会に日本製の綿織物などをアジアに輸出するとともに特に造船業と海運業が急成長を遂げた。東京・大阪・名古屋などで急速に都市化と工業化が進展し就学と就職のために多くの青年が農村から流入してきた。日本は中国に「21カ条」の要求をつきつけて反発を招いたが講話条約によって南洋群島を委任統治下におきイギリス・フランスなどとともに国際連盟の理事国となった。
1918年、ロシア革命への干渉戦争(シベリア出兵)による米価高騰にともなって全国的な民衆暴動が起こった(米騒動)。1920年には日本で最初のメーデーが行われ翌年日本労働総同盟が生まれ1922年には小作農の地位向上をめざした日本農民組合、被差別の平等な権利を要求する全国が結成された。女性も婦人会参政獲得の運動を推進し普通選挙を要求する運動が広い支持を集めていった。
大正デモクラシーと呼ばれるこうした動きは都市に生まれてきた新聞記者やサラリーマンなどの市民層を担い手にすると同時に労働や小作農民、農村の青年団などにも広がった。吉野作造の政治学や柳宗悦らの白樺派など、学問や文学・思想にも自由主義的な動向が現れた。
韓国政府教育部国際教育振興院「韓国史」1995年初版発行、98年まで何度か発行されている在日韓国人子弟が韓国に語学留学したときに韓国史も授業に取り入れられている。このときに使用していた教科書である。
『このころの日本』と合わせて少し紹介をしていく。文書の中の言葉は韓国側からの立場で記述しているがそのまま紹介をしていく。
「憲兵警察による武断統治」
大韓帝国を植民地した日本は統治の中枢機関としてソウルに朝鮮総督府を設置した。そしてその下に各種の侵略の立法・行政・司法及び軍隊統帥を一手ににぎる莫大な権力を行使した。日本は歩兵2個師団と約4万名の憲兵及び警察をそして2万余命の憲兵補助員を全国に配置して植民地統治を支えるようにした。
日帝が植民地朝鮮で実施した憲兵警察の政治は世界に類例のない植民地統治政策であった。日帝の憲兵司令が中央と地方の警察組織を統合掌握し一元的命令体系のもとに植民地朝鮮の民衆を水もらさぬほど厳重に見張り弾圧したのがすなわち日本憲兵支配であった。
憲兵警察は単に治安業務だけを執行するのでなく独立運動家の捜索、処断はもちろんのこと日常的な行政にまで手を伸ばした。韓国民を抑圧するために一般官吏や学校の教員にも制服を着せ軍刀を下げるようにした。
このような憲兵警察支配下で韓国民は文字どおり監獄暮らしの暗黒の歳月を送らなければならなかった。言論・出版・集会・結社の自由は完全にはく奪された。日帝の官憲に対して少しでも不服な行動をとった韓国人はただちに逮捕されあらゆる拷問を受けた。そしてまた民族の指導者といわれる人物は容赦なく逮捕・投獄した。しかし厳しい冬の凍りついた積雪の下で新芽が芽生えているように日帝の悪らつな憲兵警察統治のもとで民族の魂はねばり強く成長を続けついには3・1運動という形で爆発した。
今年も後、幾日かで3月1日、在日コリアンの団体などは3月1日、各地で「3・1節」が行われる。韓国ではこの日は公休日である。何年か前にこの日、ソウルの知人の家に電話をした。自宅からの電話で「どうして今日は3・1節を行かなかったのか」と言われた。大事な行事だが記事は東京で作成すると思うとつい現場に足が向かなかった。在日韓国人の筆者の日常生活はこうしたあいまいなものだが韓国国民はそうでない。大事な年間行事の1つである。
その前に今年は2月25日、この連載が掲載された日は李明博大統領候補の大統領の就任式が行なわれている。そして新大統領が誕生する。韓国はまた新しい歴史のページを開き始める。
しかし韓国民は日本植民地統治された歴史は決して忘れることなく毎年3月1日、先人の活動の足跡を振り返り外部から侵略されることなく発展した建国に向けていくことを決意する。在日韓国人の民族団体も同じである。シュプレーコールをして「3月1日は決して忘れない」ことを誓っている。
簡単に「3・1節」を紹介。著書はプレスセンター発行(1985年)浦淳一著・大阪市外国人教育研究会編(サラム草書シリーズ④)の「日本の歴史と朝鮮民族」から。
■ 3・1独立運動
前文―中略―1919年2月8日、日本にいた朝鮮人留学生およそ600人が東京神田のYMCA会館で集会を開いて独立宣言文を発表しました。この「2・8独立宣言」は朝鮮の民衆を大きくはげまし宗教家を中心とした33名の代表の署名による独立宣言文がつくられ秘密のうちに朝鮮全土に配布されました。3月1日、高宗の国葬のために地方からも多くの民衆がソウルに集まってきました。ソウル市内のパコダ公園には市民・学生・労働者数千人が集まりその中で独立宣言が発表されました。人々は大極旗をふり独立万歳を叫びながらソウルの町にくり出しました。みるみるうちにソウル市民や国葬に集まった地方の人々をまきこみデモ参加者は数十万人にも増え市内を埋めつくしました。同じ日、平壌・安州・義州・元山など各地でもデモ行進が行われ全国に広がっていきました。この運動は約1年近く続き初めのり3ヶ月だけで200万人を越える人々が参加するという朝鮮民族あげての独立運動に発展しました。これを3・1独立運動といいます。―中略―初めの3ヶ月だけで死者7500名、負傷者16000名、逮捕者47000名に達したといいます。
筆者は在日韓国人の民族大体の「3・1節」の行事にしか参加したことがないが、3・1独立運動家の名前とその下には指に傷をつけて血を出して押したといわれている血判が押されている当時の「3・1独運動宣言文」を資料として頂く。長い間その資料も保存していたが1昨年の部屋の大掃除で全部捨ててしまった。あれば写真に撮って掲載したかったが手元にない。今度どこかで手にいれたいと考えている。
新大統領の就任式のソウルは寒い。穏やかな日で晴れることを願っている。
【写真説明】1989年、国際教育振興院の前身「ソウル大学校 在外国民教育院」のパンフレットの写真である。1993年に国際教育振興院に名称を変えた。当時のソ連との国交樹立、そして中国との国交正常化にともない在日韓国人子弟だけでなくソ連・中国籍の同胞がこの教育院に留学する在外同胞が多くなった。これを機会に国際教育振興院に名称を変えた。1989年の古いバンフですが今もこの建物です。左隣に寄宿舎もある。
今日は、自分のことが「敗戦の花嫁」でイスラム教の妹である。茨城県の筑波大学の悪魔の詩はエミリーディキソンの詩ではないかとのこと。私は仏教関係者ではないみたい。
今回はサンフランシスコ空港だったの?あれは神戸市教育委員会の先生の話を乗って、面接して、1993年にシアトル市ワシントン大学とシアトル大学に見学しに行ったんだ。まだあったら、追跡してください。
どころで、カナダ系の情熱家は夜間教師になりたい方がいるか?行政関係の就活希望に有利である。