それて゛ペングループ発足当時はまだペングループの会員ではなかったがそのうちこのペングループも奈良県内では知られていくことになり会員も増えてきた。発足して2・3年してから入られた方だが結構、高齢だったが会合に積極的に参加して下さった。
私が会長時代、お世話になって1年で会長を引くときに会計を引き受けてもらって私は雑誌記者の仕事に専念した。乏しい財政のサークルをこの方が会計を引くときに10万円を残して次の方にバトンタッチされた。
このことに感謝をしている。たぶん自分の持ち出しが多かったと思う。私もかなり持ち出しをして乏しい財政をかろうじて冊子印刷代に会費をプールしていた。10万円の黒字は10周年記念冊子と10周年記念パーテイの財政などに役にたったと思っている。
もう私はすでに在日韓国人の新聞社で猛烈に取材で忙しくしていたのでこのペングループから足は遠ざかっていった。しかし発起人としてのブライドはまだ私はあった。名前だけでも残してほしいという欲があった。
しかし女性の集まり、なにやかやと口やかましい会である。
こころもとない人もいていつしか私は編集委員からもはずされていた。
仕事が忙しくなって出席できないのは仕方がないと、私に反感を持つ人はこれ幸いと考えて私の名前を削除した。当時出版部長だった今は亡き彼も私に反感をもっていじめられていた人と親しくしていたのでこの人も1つかんでいたかもしれないとずっと心の奥で今もひっかかっている。それで今もこのことを考えると彼のことは心底、ほめる材料がなくなってしまう。
ペングループの人とは本当は誰とも会いたくないのが私の本音である。
しかし訃報とこのことは違う。
聞いたかぎりは無視ができない。
彼女と私とは摩擦はなかった。私が会長時代に影で大変支援して頂いた。このことは忘れていない。
韓国が大好きで奈良市国際交流協会の役員をしながら姉妹都市の慶州市にもよく行かれた。こんな思い出が尽きないがいろんなことがこのペングループを頭の中を駆け巡る。いいことも悪いことも。
しかし仏さんになったこの方、かつての友人、知人が大勢かけつけた。ほとんど1980年代から90年代に活躍した人たち、もうみんな私も含めて高齢になっておられた。最初は読経を静かに聞いていたが焼香が終わると一般者の席はもうみんな口々に話している。ざわざわと騒がしい。
読経をする僧侶はなんと思っていたのだろうか。
しかしふと私は思った。
そうか。仏さんがこうしたにぎやかなことが好きだったのかもしれない。
あちこちからざわざわと話し合う声が聞こえてくる。
それをご霊前に飾られた写真が眺めているようだった。
「にぎやかなことはけっこうなことや。みんなきてくれてうれしい。ありがとう」と言っているようだった。
親族も結構多い。生前も親戚も多くてにぎやかな家庭だったのだろうと思った。
ご主人が定年退職されてずっと家におられた。
亡くなった彼女は生前、女性史の調査や交流事業など活発に活動をしておられた。誰かが所用で自宅を訪ねるとご主人は奥さんのことを「お外さん」と言って留守だと言った。
この「お外さん」でひっくりかえるほど大笑いしてくるというエピソードも聞いていた。
奈良市内での告別式、行こうか。行かないでおこうか。迷ったがペングループ゛で私が会長時代、見えないところで助けて頂いたことは忘れてはいけないと考えてかけつけた。香典は一切うけとらない。彼女らしい引き際だった。
このことも彼女の人生でさっぱりした性格そのものだったかもしれない。
私の30代の半ば、人生の生きがいだったこのペングループ、またボランテイア精神の灯が1つ消えた。私が猛烈にこれしか生きがいがないと活動した在りし日を思い出し私の人生もあれから違うところでまた違う活動をしている。
みんなそれぞれに歩いた人生の顔がかつてのペングループの人たちに出ていた。最後まで残るとまた気を使うペングループ、私のわがままが頭をもたげた。わずらわしいなと考えてと最後のお別れをするときにそっと会場をあとにした。
やすらかに眠って下さい。
ご冥福をお祈りします。 合掌
私が会長時代、お世話になって1年で会長を引くときに会計を引き受けてもらって私は雑誌記者の仕事に専念した。乏しい財政のサークルをこの方が会計を引くときに10万円を残して次の方にバトンタッチされた。
このことに感謝をしている。たぶん自分の持ち出しが多かったと思う。私もかなり持ち出しをして乏しい財政をかろうじて冊子印刷代に会費をプールしていた。10万円の黒字は10周年記念冊子と10周年記念パーテイの財政などに役にたったと思っている。
もう私はすでに在日韓国人の新聞社で猛烈に取材で忙しくしていたのでこのペングループから足は遠ざかっていった。しかし発起人としてのブライドはまだ私はあった。名前だけでも残してほしいという欲があった。
しかし女性の集まり、なにやかやと口やかましい会である。
こころもとない人もいていつしか私は編集委員からもはずされていた。
仕事が忙しくなって出席できないのは仕方がないと、私に反感を持つ人はこれ幸いと考えて私の名前を削除した。当時出版部長だった今は亡き彼も私に反感をもっていじめられていた人と親しくしていたのでこの人も1つかんでいたかもしれないとずっと心の奥で今もひっかかっている。それで今もこのことを考えると彼のことは心底、ほめる材料がなくなってしまう。
ペングループの人とは本当は誰とも会いたくないのが私の本音である。
しかし訃報とこのことは違う。
聞いたかぎりは無視ができない。
彼女と私とは摩擦はなかった。私が会長時代に影で大変支援して頂いた。このことは忘れていない。
韓国が大好きで奈良市国際交流協会の役員をしながら姉妹都市の慶州市にもよく行かれた。こんな思い出が尽きないがいろんなことがこのペングループを頭の中を駆け巡る。いいことも悪いことも。
しかし仏さんになったこの方、かつての友人、知人が大勢かけつけた。ほとんど1980年代から90年代に活躍した人たち、もうみんな私も含めて高齢になっておられた。最初は読経を静かに聞いていたが焼香が終わると一般者の席はもうみんな口々に話している。ざわざわと騒がしい。
読経をする僧侶はなんと思っていたのだろうか。
しかしふと私は思った。
そうか。仏さんがこうしたにぎやかなことが好きだったのかもしれない。
あちこちからざわざわと話し合う声が聞こえてくる。
それをご霊前に飾られた写真が眺めているようだった。
「にぎやかなことはけっこうなことや。みんなきてくれてうれしい。ありがとう」と言っているようだった。
親族も結構多い。生前も親戚も多くてにぎやかな家庭だったのだろうと思った。
ご主人が定年退職されてずっと家におられた。
亡くなった彼女は生前、女性史の調査や交流事業など活発に活動をしておられた。誰かが所用で自宅を訪ねるとご主人は奥さんのことを「お外さん」と言って留守だと言った。
この「お外さん」でひっくりかえるほど大笑いしてくるというエピソードも聞いていた。
奈良市内での告別式、行こうか。行かないでおこうか。迷ったがペングループ゛で私が会長時代、見えないところで助けて頂いたことは忘れてはいけないと考えてかけつけた。香典は一切うけとらない。彼女らしい引き際だった。
このことも彼女の人生でさっぱりした性格そのものだったかもしれない。
私の30代の半ば、人生の生きがいだったこのペングループ、またボランテイア精神の灯が1つ消えた。私が猛烈にこれしか生きがいがないと活動した在りし日を思い出し私の人生もあれから違うところでまた違う活動をしている。
みんなそれぞれに歩いた人生の顔がかつてのペングループの人たちに出ていた。最後まで残るとまた気を使うペングループ、私のわがままが頭をもたげた。わずらわしいなと考えてと最後のお別れをするときにそっと会場をあとにした。
やすらかに眠って下さい。
ご冥福をお祈りします。 合掌
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