このまま春になればと思う。
そして明後日からは3月1日である。
今年は春が待ち遠しい。
暮れから正月にかけて寒く寒波到来の中で過ごした。
2月に入ると11日と14日は雪が3年ぶりに降った。
11日は11センチ、14日は6センチという積雪だった。
寒さの中で過ごしたので春が早くきてほしい。
昨日は土曜日、奈良新聞の3階の会議室にいた。
朝、11時過ぎに自宅を出ている。
土曜日で中循環バスが少ない。
市内循環バスに乗って近鉄奈良駅に出た。
着くと11時20分過ぎている。
行き付けの喫茶店に行って新聞2紙を読んだ。
奈良新聞の「雑記帳の集い」の編集会議は10時から始まっている。お昼過ぎに入ればよいと思って12時25分頃、喫茶店を出た。
近鉄奈良駅に行くと難波行きが出て行く。次は12時37分の三宮行快速急行に乗って新大宮に行く。奈良から1駅向こうである。
新大宮駅で降りてタクシーに乗った。
ワンメーターの距離なのか運転手は不機嫌である。
初めて行くので知らないのでタクシーに乗った。
奈良新聞社までワンメーターである。仕方がない。おつりを貰わないで降りた。
奈良新聞に着くと12時40分、もうお昼時が終わりそうである。
外で昼食する人にそこでパンを食べる人など。私は家で一膳だけ肉汁をかけて食べて行っている。昼ごはんを食べてきたということでパンなど出してもらったことに遠慮していたが創設当時から親しくしていた人がパンを差し出したのでその人の1個は頂いた。
奈良新聞はこの日は休刊日で(月2回日曜日休刊)社屋はひっそりしているが3階からは女性たちのおしゃべりが聞こえている。
社屋はエレベーターがなくて階段を上った。
この日は「雑記帳の集い」の冊子・雑記帳の31号編集のため編集会議、校正をしていた。この校正にも昔、私がしていたころを思い出した。
「自分の原稿は自分でみよう」と言うことに私は提案した。
奈良新聞のデスクたちにお世話をかけているだけでなく自分たちも編集の一旦を担って編集委員の役割ができると思った。
これも決めるのに侃々諤々だった。なんでも奈良新聞にしてもらえればいい。しかし奈良新聞の負担が重なるとデスクたちも快く思わなくなってくると私なりの直感だった。
なんとか賛成者が多かったので「自分の原稿は自分でみよう」ということになった。奈良新聞のデスクが訂正した原稿を新しい原稿にまた書きなおして新しく書き直した原稿を印刷屋に渡した。欠席者は参加している者が書いた。
奈良新聞出版部ができて冊子の印刷をするようになった。元原稿に奈良新聞のデスクが手直しをして最初はワープロ入力をしていた。
ワープロされた活字印刷と手直しされた元原稿を見て校正していく作業になった。時代が変わって今はパソコン入力されている。この校正作業を編集委員がしている。
また編集会議に寄せてもらって編集後記を校正する役員たち、これも私の考えた提案だった。編集委員に関わって会長だけの言葉を載せることに私なりに心の不満があった。私は編集委員に関わってほとんどリーダーシップを取っていた。しかしいつも会長だけの言葉に心のしこりになった。
編集委員全員が参加できるものを考えた。そして編集委員長になったときにいろいろ調べて提案した。
私が編集委員長になったときに提案したのが編集委員になったその年の人は1人1人、編集後記を書くということ。またこれも侃々諤々だった。幸い私が編集委員長、委員長の提案が通った。
それから20数年、編集後記は1人1人の編集の感想を述べている。
自分の言葉が載ることによってまた来年も委員として参加してもらえる励みにもなっていく。
そんなことが私の胸の中を去来するが私は皆さんが編集している部屋では一切に自分のことは出さないことにしていた。昔、こんなことしたということも一切、言わないことにした。しかし懐かしいものがこみ上げてくる。
17・18年ぶりに編集会議に参加したが在りし日の自分と重ねて見ていた。
写真だけ撮影して帰るつもりだったが2時から役員を決める会合があるという。
会長の顔写真を撮ってすぐに帰ろうとしたら帰るに帰ることができない。
役員選出に熱い議論になっている。私は心の中で思うことはあって絶対に発言してはいけないと心で決めていたので終わるまで知らん顔して黙ってメモして聞いていた。
最後、私は「現在の状況がわかって勉強させて頂きました。お邪魔してご迷惑をかけました」と行って先に奈良新聞を出ることにした。
車で来られた人に便乗する人が多い。私が乗ったことで他の人が乗れなくなるかもしれないと考えて先に奈良新聞を出た。
歩いて駅まで出ることにした。
奈良新聞の1階でトイレを済ませて出るときに私は鼻歌を歌っている。
その歌がなんと在日コリアンの「われら統一の願い」を歌っている。
この歌は南北分断国家になって統一を願い在日コリアンがいろんな行事で歌ってきたが今はそんなに歌われなくなった。
これはメロデイーがいいのでつい鼻歌にでてくる。
トイレから出てくるとロビーに会員の1人がおられた。
この鼻歌が聞こえていたのかと気恥ずかしくなった。
道でも歩きながらこの歌を歌っている。心のどこかで皆の思いが1つになるように祈っているのかもしれない。
私は「お先に」と言って奈良新聞の社屋を出たのが3時だった。
歩いて近鉄新大宮駅に出た。ゆっくり歩いて15分、3時20分過ぎの電車に乗って近鉄奈良駅に向かった。駅に着くと3時25分、そのままバス乗り場に行った。中循環バスがすぐにきたのでバスにのった。
自宅前に着くと3時35分、前の写真屋で撮影した写真を何枚か現像してもらった。自宅に戻ると4時、シャワーを浴びて撮影した写真をパソコンに取り込んだ。
5時半ごろから家事をしながら夕食、夫が7時過ぎに帰ってきて夕食をするが何かしらしんどい。ストレスト歩き疲れたのだろうか。
ブログを書きこまないで食べた物を片付けて9時に寝た。
今朝は6時半に起きた。とりあえず朝する家事をこなした。7時にパソコンを開いた。昨日撮影した写真を送るのに文書を作った。
夫がおきてきたので8時前にパソコンを閉じて朝食、朝食を済ませて家事をしてまたパソコンの前に座った。文書は完成して封筒に入れて送るようにした。
昨日撮影した中の2人撮影、ハガキに写真を入れて送るようにした。
そしてジャーナリスト・ネットで紹介した「奈良おんな物語」で紹介した荒井敦子さんに手紙を書いてこの間から上・中・下とプリントした物を封筒に入れて郵便局から送れるようにした。
明日、病院に行くのでその帰りに出しておこうと思って今朝からその作業をした。
そして今日のブログを書いている。時計は11時半です。
昼食の支度をします。
そして明後日からは3月1日である。
今年は春が待ち遠しい。
暮れから正月にかけて寒く寒波到来の中で過ごした。
2月に入ると11日と14日は雪が3年ぶりに降った。
11日は11センチ、14日は6センチという積雪だった。
寒さの中で過ごしたので春が早くきてほしい。
昨日は土曜日、奈良新聞の3階の会議室にいた。
朝、11時過ぎに自宅を出ている。
土曜日で中循環バスが少ない。
市内循環バスに乗って近鉄奈良駅に出た。
着くと11時20分過ぎている。
行き付けの喫茶店に行って新聞2紙を読んだ。
奈良新聞の「雑記帳の集い」の編集会議は10時から始まっている。お昼過ぎに入ればよいと思って12時25分頃、喫茶店を出た。
近鉄奈良駅に行くと難波行きが出て行く。次は12時37分の三宮行快速急行に乗って新大宮に行く。奈良から1駅向こうである。
新大宮駅で降りてタクシーに乗った。
ワンメーターの距離なのか運転手は不機嫌である。
初めて行くので知らないのでタクシーに乗った。
奈良新聞社までワンメーターである。仕方がない。おつりを貰わないで降りた。
奈良新聞に着くと12時40分、もうお昼時が終わりそうである。
外で昼食する人にそこでパンを食べる人など。私は家で一膳だけ肉汁をかけて食べて行っている。昼ごはんを食べてきたということでパンなど出してもらったことに遠慮していたが創設当時から親しくしていた人がパンを差し出したのでその人の1個は頂いた。
奈良新聞はこの日は休刊日で(月2回日曜日休刊)社屋はひっそりしているが3階からは女性たちのおしゃべりが聞こえている。
社屋はエレベーターがなくて階段を上った。
この日は「雑記帳の集い」の冊子・雑記帳の31号編集のため編集会議、校正をしていた。この校正にも昔、私がしていたころを思い出した。
「自分の原稿は自分でみよう」と言うことに私は提案した。
奈良新聞のデスクたちにお世話をかけているだけでなく自分たちも編集の一旦を担って編集委員の役割ができると思った。
これも決めるのに侃々諤々だった。なんでも奈良新聞にしてもらえればいい。しかし奈良新聞の負担が重なるとデスクたちも快く思わなくなってくると私なりの直感だった。
なんとか賛成者が多かったので「自分の原稿は自分でみよう」ということになった。奈良新聞のデスクが訂正した原稿を新しい原稿にまた書きなおして新しく書き直した原稿を印刷屋に渡した。欠席者は参加している者が書いた。
奈良新聞出版部ができて冊子の印刷をするようになった。元原稿に奈良新聞のデスクが手直しをして最初はワープロ入力をしていた。
ワープロされた活字印刷と手直しされた元原稿を見て校正していく作業になった。時代が変わって今はパソコン入力されている。この校正作業を編集委員がしている。
また編集会議に寄せてもらって編集後記を校正する役員たち、これも私の考えた提案だった。編集委員に関わって会長だけの言葉を載せることに私なりに心の不満があった。私は編集委員に関わってほとんどリーダーシップを取っていた。しかしいつも会長だけの言葉に心のしこりになった。
編集委員全員が参加できるものを考えた。そして編集委員長になったときにいろいろ調べて提案した。
私が編集委員長になったときに提案したのが編集委員になったその年の人は1人1人、編集後記を書くということ。またこれも侃々諤々だった。幸い私が編集委員長、委員長の提案が通った。
それから20数年、編集後記は1人1人の編集の感想を述べている。
自分の言葉が載ることによってまた来年も委員として参加してもらえる励みにもなっていく。
そんなことが私の胸の中を去来するが私は皆さんが編集している部屋では一切に自分のことは出さないことにしていた。昔、こんなことしたということも一切、言わないことにした。しかし懐かしいものがこみ上げてくる。
17・18年ぶりに編集会議に参加したが在りし日の自分と重ねて見ていた。
写真だけ撮影して帰るつもりだったが2時から役員を決める会合があるという。
会長の顔写真を撮ってすぐに帰ろうとしたら帰るに帰ることができない。
役員選出に熱い議論になっている。私は心の中で思うことはあって絶対に発言してはいけないと心で決めていたので終わるまで知らん顔して黙ってメモして聞いていた。
最後、私は「現在の状況がわかって勉強させて頂きました。お邪魔してご迷惑をかけました」と行って先に奈良新聞を出ることにした。
車で来られた人に便乗する人が多い。私が乗ったことで他の人が乗れなくなるかもしれないと考えて先に奈良新聞を出た。
歩いて駅まで出ることにした。
奈良新聞の1階でトイレを済ませて出るときに私は鼻歌を歌っている。
その歌がなんと在日コリアンの「われら統一の願い」を歌っている。
この歌は南北分断国家になって統一を願い在日コリアンがいろんな行事で歌ってきたが今はそんなに歌われなくなった。
これはメロデイーがいいのでつい鼻歌にでてくる。
トイレから出てくるとロビーに会員の1人がおられた。
この鼻歌が聞こえていたのかと気恥ずかしくなった。
道でも歩きながらこの歌を歌っている。心のどこかで皆の思いが1つになるように祈っているのかもしれない。
私は「お先に」と言って奈良新聞の社屋を出たのが3時だった。
歩いて近鉄新大宮駅に出た。ゆっくり歩いて15分、3時20分過ぎの電車に乗って近鉄奈良駅に向かった。駅に着くと3時25分、そのままバス乗り場に行った。中循環バスがすぐにきたのでバスにのった。
自宅前に着くと3時35分、前の写真屋で撮影した写真を何枚か現像してもらった。自宅に戻ると4時、シャワーを浴びて撮影した写真をパソコンに取り込んだ。
5時半ごろから家事をしながら夕食、夫が7時過ぎに帰ってきて夕食をするが何かしらしんどい。ストレスト歩き疲れたのだろうか。
ブログを書きこまないで食べた物を片付けて9時に寝た。
今朝は6時半に起きた。とりあえず朝する家事をこなした。7時にパソコンを開いた。昨日撮影した写真を送るのに文書を作った。
夫がおきてきたので8時前にパソコンを閉じて朝食、朝食を済ませて家事をしてまたパソコンの前に座った。文書は完成して封筒に入れて送るようにした。
昨日撮影した中の2人撮影、ハガキに写真を入れて送るようにした。
そしてジャーナリスト・ネットで紹介した「奈良おんな物語」で紹介した荒井敦子さんに手紙を書いてこの間から上・中・下とプリントした物を封筒に入れて郵便局から送れるようにした。
明日、病院に行くのでその帰りに出しておこうと思って今朝からその作業をした。
そして今日のブログを書いている。時計は11時半です。
昼食の支度をします。
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