在日韓国人女性親睦会の取材で1990年だったと思う。家庭面1面を月2回担当していたので韓国で暮らしている在日韓国人の存在を在日コリアンそして日本社会にお知らせすることで韓国の現場取材に入った。
この間の経緯は詳細に記述できないので理解してもらいたい。
ただ申雲鶴さんの妹さんが韓国系の民族学校で教師をしていたのでクラブ活動の1つとして「韓国のお茶の作法」などを生徒たちに教えていた。こうしたいきさつがあって紹介して頂いたのが縁である。
日本で「韓国茶」の作法などを最初に在日韓国人生徒に指導したのはこの民族学校の教師である。その韓国茶の作法を教わったのが実姉の申雲鶴さんからだった。このへんの事情は複雑なこともあって建前でしか話せない。
韓国茶という高麗茶について調べ始めたのは韓国で暮らしていた申雲鶴さんであるということもお知らせしたい。
調べる間に韓国で暮らす申雲鶴さんの文献は他の人も調べるきっかけになり現地韓国人の人たちが活発に活動し始めたので申雲鶴さんの存在は薄くなった。そのへんの事情を知る筆者は韓国から来られた茶道交流をする人たちが「私がこの高麗茶を研究しました」と説明されるが茶道交流をしている人たちはまさにこのことが本当であるように解釈される。なんとも嘆かわしい事情に顔を背けたくなることもしばしばである。日本人の韓国人との茶道交流にもネイテイブな韓国人を求めることから申雲鶴さんの存在はますます希薄になっていった。
申雲鶴さんは韓国で暮らし学者の夫を支援するために喫茶店も開いた、こうしてお茶の文化を韓国に普及していく先駆者だったことは案外日本や在日コリアンの間では知られていない。韓国の歴史を紐解くと古代朝鮮から「献茶」としてお寺の中でお茶の文化が発達していたことを発見した。そして韓国の抹茶文化を日本で学んだ裏千家と合わせて申雲鶴さん独自の現代版高麗茶の文化を作り出した。これが肩書きにもある「高麗茶道宗家」である。
こうしたことを振り返るだけで1970年代から80年代、在日韓国人が新しいことに活動すると周りからのプレッシャーが大きかったことが想像できる。
今回は申雲鶴さんが調べた「高麗時代の茶文化」の記述を紹介しておこう。
「高麗時代の茶文化」
「我が国の高麗時代の茶文化は前王朝時代であった新羅時代の伝統茶を継承しながら中国、宋時代の茶の影響を受け継ぎ高麗の独特な茶風を作りました。高麗茶は新羅の茶湯點作法に変わり新羅の風流茶から茶禅風に変化されました。そして王室と貴族、僧侶たちの上流社会から庶民階層に至るまで飲茶關の風習が普及されました。高麗は燃燈会や八關会ばかりでなく太后と王世子の冊封公女の婚礼など国家と王室の重要行事毎にほとんど茶を利用しました。そしてこのような行事をたやすくされるようになり茶房という官廳が設置され茶具をえて遂行し開城地方には民間の茶店、茶院などができました。
高麗茶の種類は餅茶と團茶を臼引きにした粉抹茶が主に使われていましたが中国から輸入した龍鳳團茶の外に臘原茶や高麗團茶がありました。飲茶節次は高麗仁宗王の時、宋国の使臣に来ていた徐兢が書いた高麗圖經に詳細に紹介されているようにその行茶節次が厳しく丁寧なのは宋国の風習にはない我が国特有の茶風でありました」(2003年6月に日本で行われた『韓日両国の茶の世界』で使われたパンフレットから)
【写真説明】1993年春、韓国に訪問して申雲鶴さんの韓国人茶人交流会の現場に訪れて撮影した。韓国利川市で茶道と関係するところでの献茶会、申雲鶴さんは前列右から2人目、薄い緑色の民族衣装を着ている。もう1枚は1994年11月の初め実妹のところに来られ筆者とお会いした。奈良公園の中にある興福寺五重の塔の前で。左側が申雲鶴さんで右側が筆者。11月9
この間の経緯は詳細に記述できないので理解してもらいたい。
ただ申雲鶴さんの妹さんが韓国系の民族学校で教師をしていたのでクラブ活動の1つとして「韓国のお茶の作法」などを生徒たちに教えていた。こうしたいきさつがあって紹介して頂いたのが縁である。
日本で「韓国茶」の作法などを最初に在日韓国人生徒に指導したのはこの民族学校の教師である。その韓国茶の作法を教わったのが実姉の申雲鶴さんからだった。このへんの事情は複雑なこともあって建前でしか話せない。
韓国茶という高麗茶について調べ始めたのは韓国で暮らしていた申雲鶴さんであるということもお知らせしたい。
調べる間に韓国で暮らす申雲鶴さんの文献は他の人も調べるきっかけになり現地韓国人の人たちが活発に活動し始めたので申雲鶴さんの存在は薄くなった。そのへんの事情を知る筆者は韓国から来られた茶道交流をする人たちが「私がこの高麗茶を研究しました」と説明されるが茶道交流をしている人たちはまさにこのことが本当であるように解釈される。なんとも嘆かわしい事情に顔を背けたくなることもしばしばである。日本人の韓国人との茶道交流にもネイテイブな韓国人を求めることから申雲鶴さんの存在はますます希薄になっていった。
申雲鶴さんは韓国で暮らし学者の夫を支援するために喫茶店も開いた、こうしてお茶の文化を韓国に普及していく先駆者だったことは案外日本や在日コリアンの間では知られていない。韓国の歴史を紐解くと古代朝鮮から「献茶」としてお寺の中でお茶の文化が発達していたことを発見した。そして韓国の抹茶文化を日本で学んだ裏千家と合わせて申雲鶴さん独自の現代版高麗茶の文化を作り出した。これが肩書きにもある「高麗茶道宗家」である。
こうしたことを振り返るだけで1970年代から80年代、在日韓国人が新しいことに活動すると周りからのプレッシャーが大きかったことが想像できる。
今回は申雲鶴さんが調べた「高麗時代の茶文化」の記述を紹介しておこう。
「高麗時代の茶文化」
「我が国の高麗時代の茶文化は前王朝時代であった新羅時代の伝統茶を継承しながら中国、宋時代の茶の影響を受け継ぎ高麗の独特な茶風を作りました。高麗茶は新羅の茶湯點作法に変わり新羅の風流茶から茶禅風に変化されました。そして王室と貴族、僧侶たちの上流社会から庶民階層に至るまで飲茶關の風習が普及されました。高麗は燃燈会や八關会ばかりでなく太后と王世子の冊封公女の婚礼など国家と王室の重要行事毎にほとんど茶を利用しました。そしてこのような行事をたやすくされるようになり茶房という官廳が設置され茶具をえて遂行し開城地方には民間の茶店、茶院などができました。
高麗茶の種類は餅茶と團茶を臼引きにした粉抹茶が主に使われていましたが中国から輸入した龍鳳團茶の外に臘原茶や高麗團茶がありました。飲茶節次は高麗仁宗王の時、宋国の使臣に来ていた徐兢が書いた高麗圖經に詳細に紹介されているようにその行茶節次が厳しく丁寧なのは宋国の風習にはない我が国特有の茶風でありました」(2003年6月に日本で行われた『韓日両国の茶の世界』で使われたパンフレットから)
【写真説明】1993年春、韓国に訪問して申雲鶴さんの韓国人茶人交流会の現場に訪れて撮影した。韓国利川市で茶道と関係するところでの献茶会、申雲鶴さんは前列右から2人目、薄い緑色の民族衣装を着ている。もう1枚は1994年11月の初め実妹のところに来られ筆者とお会いした。奈良公園の中にある興福寺五重の塔の前で。左側が申雲鶴さんで右側が筆者。11月9
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