グー版・迷子の古事記

古事記の世界をあっちへふらふらこっちへふらふら
気になったことだけ勝手に想像して勝手に納得しています

桃太郎

2013年09月25日 | 古事記
何か考え事をしていて、ふとした拍子に桃太郎の事が頭をよぎりました。
私が生まれ育った岡山県の民話なんですが、全国的にも有名な話です。

岡山駅前には桃太郎の銅像もあり、岡山県民はみんな桃太郎を岡山県の話だと思っているはずです。
しかしここに、岡山県民の敵が…
どうやら香川県・愛知県・奈良県が桃太郎ゆかりの地として手を上げてるそうじゃありませんか…

まあどうでもいいんですけどね。
岡山県の敵ではありません

  《桃太郎の桃》

今回は大した内容も無い話です…
すぐ結論を書いちゃうと2行で終わっちゃいそうなのでぐだぐだ書いているわけでして…

桃太郎の桃が頭によぎった時、ある事を思い出しました。
古事記には桃の神様が出てくるのです。

オオカムヅミ(意富加牟豆美)…大神の実

イザナギ命が、亡き妻のイザナミ命を連れ戻そうと、死者の国である黄泉の国に赴くが、失敗して8柱の雷神と黄泉軍に追われる。地上との境にある黄泉比良坂(よもつひらさか)の麓まで逃げてきた時に、そこに生えていた桃の実を3個取って投げつけると、雷神と黄泉軍は撤退していった。
この功績により桃の実は、イザナギ命から「オオカムヅミ命」の神名を授けられる。そして、「お前が私を助けたように、葦原の中国(地上世界)のあらゆる生ある人々が、苦しみに落ち、悲しみ悩む時に助けてやってくれ。」と命じられた。
(ウィキペディア)

…という訳で「大神の実」という名前を与えられたのです。
イザナギの亡き妻イザナミ、この女神は鳥取県と島根県の県境にある比婆山に葬られています。

もしかすると、岡山県の高梁川をさかのぼって行ったら比婆山まで着くのでは?
地図を開き高梁川の上流・支流をさかのぼって調べると…
なんと比婆山の近くまで達するではありませんか

桃太郎の桃は、オオカムヅミか或いはオオカムヅミの子だったのですね。
もしかすると桃太郎の話は、失われた古代神話が民話として残った形かもしれません。

結論 桃太郎は岡山県の民話です!
(香川県・愛知県・奈良県の人ごめんなさい) 

天孫降臨

2013年09月24日 | 古事記
前回と前々回の鏡の神話鈿(かんざし)の神で天孫降臨神話の主人公サルタヒコとアメノウズメについて考察してきました。
ちょっとまてよ…
天孫降臨の主人公は天下りするニニギではないのか?
サルタヒコとアメノウズメのキャラが立ちすぎていてニニギの降臨神話だと言う事を忘れていました。
脇役であるサルタヒコとアメノウズメだけを調べて天孫降臨神話の結論を出すのは早すぎる。
主人公ニニギ無くして天孫降臨はありえないのです。

  《ニニギノミコト》

天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命(アメニギシクニ ニギシアマツヒタカヒコ ホノニニギノミコト) 

名前の意味…天地豊かに栄え、日は高く輝きその日の神の御子、稲穂は豊かに実る。

太陽神アマテラスの皇孫ニニギはどうやら豊かに実る稲穂の神霊のようです。
と言うことは…
皇孫の系譜は太陽神の系譜であると共に稲の神の系譜とも言えそうです。
天孫降臨神話は稲の神が地上に舞い降りた逸話のようです。

豊かに実る稲穂の神霊・ニニギが地上に舞い降りた…
そうなると、(タケミカヅチとサルタヒコ)で推測した事が生きてきそうです。
サルタヒコは甕(ミカ)の神あるいは鏡の神であり、また甕(ミカ)の神・タケミカヅチが雷神であるように、サルタヒコも雷神となりそうです。

稲穂が豊かに実る季節に雷が多いことから、古代より稲妻が稲を実らせると言う信仰があります。
天の八衢(やちまた)に立って高天原から葦原中国までを照らす神・サルタヒコは雷神であることはほぼ間違い無さそうです

サルタヒコの姿が段々浮かび上がってきました。
サルタヒコは甕(ミカ)の神或いは鏡の神であり、雷神だったのです。
また、サルタヒコの子孫の名前が大田命である事も考え合わせると、サルタヒコの名前の「タ」が意味するところは、稲田の「田」と言う可能性が濃厚になってきそうです。
そうなると、同じ甕(ミカ)の神であり雷神であるタケミカヅチ、子孫の名前(大田命・大田田根子)も良く似ているタケミカヅチ、との関係をもう少し探ってみたい所です

それではニニギともう一人の脇役アメノウズメの関係はどうなのでしょうか?
ニニギとサルタヒコの関係は稲の収穫と言う言葉で表せそうですが…

アメノウズメは鈿(かんざし)の神であり、太陽神の今再生せんとする姿だと言う事は鈿(かんざし)の神で明らかにしました。
はっきり言うと今は良く分かりませんが、天の八衢(やちまた)でサルタヒコとニニギを仲介する場面と、後にアメノウズメがサルタヒコを伊勢まで送り祭ることを考えるとニニギとアメノウズメの関連性は無いのかもしれません。

鈿(かんざし)の神

2013年09月22日 | 古事記
前回、アメノウズメ(天鈿女)をアメノウスメ(天細女・天細目)と結論付けたのですが、個人的にいま一つ納得出来ない感じがしていました
細女・細目では神様の性格を現していないし、「鈿」という文字にあまり向き合って考えていなかったからです。
そこでアメノウズメの登場場面・天岩戸から読み直し、「鈿」の意味を考えてみようと思いました。

  《アメノウズメ》

アメノウズメは「天宇受売」「天鈿女」と書きます。
アメノウズメの漢字分解

天宇受売 = (天)(宇受)(売)
神霊の性格を表す(宇受)の部分は音読みですので、単に「ウズ」という音しか表していません。

天鈿女 = (天)(鈿)(女)
神霊の性格を表す(鈿)の部分を「ウズ」と読ませますが、音読みに「ウズ」はないので訓読みとなります。
そのため、(鈿)の字義が神霊の性格と関係してきます。
では(鈿)の意味は?というと「かんざし」です。
「天鈿女」を直訳すると天のかんざしの女神とでも言う所でしょうか。

少し先走りますが、「かんざし」の語源を考察すると驚きの展開となります。
「かんざし」の語源が明らかになるばかりか、アメノウズメの正体も含めその他諸々の謎が明らかになるのです。
結果を見て私は驚きました

では「かんざし」とは何か少し考えて見ましょう。
「カンザシ」古い言い方だと「カムザシ」
ひと目、古代の表現っぽいなって感じがします。
古代語として分解してみましょう。

カムザシ = (カム)(サ)(シ)

(カム)…「神」後ろに言葉が続くと「カミ」→「カム」となる。
(サ)…狭い。細い。先端。
(シ)…助詞の活用形で名詞を作る。「サス」→「サシ」

「カムザシ」を直訳すると「神の先端」とでも言う所だと思います
「神の先端」とは何だろう?
私はある事を想像していました。
見ている方にも分かりやすくするため、少しずつ「かんざし」に迫ってみましょう。

「かんざし」は髪にさす物です。
髪にさす物と言えば、古代「くし(櫛)」が有名です。
くし(櫛)と言えば、古代において極めて有名な呪術道具なのです。
では何故、くし(櫛)は呪術道具となったのでしょう?
何故くし(櫛)が呪術道具なのか?今まで私は知りませんでした。

「くし」も「かんざし」もどちらも髪にさします。
一方は呪術道具、一方は「神の先端」
「くし」も「かんざし」も何か神聖な物を感じます。
どちらにも共通するのは「髪」と言うキーワードです。

では「髪」とは一体どう言った物なのだろう?
古代の人たちは「髪」をどのように考えていたのだろう?

「髪」は切っても痛くありません。しかも他の体毛と違ってどんどんどんどん伸びてきます。
             「うちの爺ちゃんの耳毛は?」
「髪」は人間の体の中で一番生命力あふれ、切っても切っても再生を繰り返します。
「髪」は人間の体の中で一番神聖な物、あるいは神(かみ)の様な存在だったのかもしれません。
そのため、髪(かみ)と呼ばれるようになったのではないでしょうか。
             「あなたの爺ちゃんの耳毛もきっと神です」

さて「かんざし」に戻ります。
「かんざし」は「神の先端」だと先ほど言いました。
それでは「神の先端」は「髪の先端」ではないのか?
「かんざし」は花や花をかたどった物を先端に付けています。
では「神の先端」は「花」なのか?

もうアメノウズメについて分かった方もいると思います。
もう少し説明にお付き合い下さい
私はある画像を思い浮かべていました。
当ブログ左上のプロフィール欄にある画像を見てください。

皆既日食の画像です。
月神が太陽神を覆い隠し、太陽神が目覚めようとする一瞬のダイヤモンドリングの画像です。
ダイヤモンドリングのダイヤモンドの部分が「花」即ち「神の先端」なのではないか?
と思ったのです。
今再生せんとする太陽神の先端です。
天の岩戸でアマテラスが岩戸隠れするイメージにもピッタリです。

もうお分かりですね
アメノウズメは「神の先端」、ダイヤモンドリングのダイヤの部分、「かんざし」の花、太陽神の今再生せんとする姿だったのです。

そうなると、「かんざし」の語源も明らかな様です。
「かんざし」の語源もアメノウズメ同様に「神の先端」だったのでしょう。
或いは、まず「アメノウズメ」ありきの「かんざし」なのかもしれません。
頭にかんざしをさした姿って、ダイヤモンドリングに似てませんか?

最後に、天の岩戸におけるアメノウズメに面白い記述があるのでご覧下さい。

天宇受売命、天香具山の天ノ日影をたすきにかけて、天ノ真折(まさき)をかずらとして、天香具山のささ葉を手草(たぐさ)に結ひて、天の岩屋戸におけを伏し、ふみとどろこし神懸かりして、胸乳を掛き出だし裳緒(もひも)をほとにおし垂れき。ここに高天原動(とよ)みて八百万神ともに(わら)ひき。ここに天照大御神、怪しとおもひて天の岩屋戸を細めに開きて、内より告るに「我、隠りますによりて、天原おのづから闇く、また葦原中国みな闇からんを、何ゆえを以て、天宇受売は楽をなし、また八百万神はともに(わら)ふや」と。ここに天宇受売まうして言わく「汝が命に益して貴き神坐す、ゆえに歓喜び(わら)ひ楽(あそ)ぶ。」と。

古事記の天の岩戸でアメノウズメ(天宇受売)が登場するところです。
簡単に説明すると

アマテラスが隠れた岩戸の前でアメノウズメが楽(あそ)び、それを見た八百万の神が笑うので、
アマテラス「なんで楽しそうに笑ってるの?」
アメノウズメ「あなた様より素敵な神様がいるから喜び笑い遊ぶのです。」

「咲」を「笑ふ」と訳してありますが、今までの事から考えると「咲く(さく)」と訳してもいいのかもしれません。
古代人はアメノウズメに「花」と言うイメージも持ってたのかもしれません。
きっと太陽が再生する時に一瞬咲く花を想像していたのでしょう

鏡の神話

2013年09月21日 | 古事記
元々サルタヒコにはあまり興味がなかったのですが、タケミカヅチとの関連から、もう一度古事記でサルタヒコの登場場面・天孫降臨を読んでみました

そして読んだ最初の感想は、サルタヒコは伊勢に封印されたのではないか?と言うものでした。
何故そんなこと感じたんだろう?
もう一度読み直して納得しました。

降臨後ニニギノミコトはアメノウズメにサルタヒコを伊勢まで送らせ祭らせます。
ここに反応したんだなと思いました。
「権力者に、送ると言う名目で伊勢まで連行され、祭ると言う名目で見張られた。」
その後、サルタヒコが海で噛まれてなくなる場面もこんなふうに感じた原因の一つになったのかもしれません

  《鏡の神・甕の神》

古事記には鏡の神が出てきません。
神霊を映し出す鏡、アマテラスの化身とも言うべき鏡、古代神霊界との接点とも言うべき鏡、とても重要な鏡なのに鏡の神がいないのです。
可笑しいじゃないですか

厳密に言うと甕(ミカ)の神であるタケミカヅチ(武甕槌)がそれにあたるのですが、古事記の成立時点では既に剣神・雷神となっていて、本来の甕(ミカ)の神の本質であろう水鏡としての性質を失ってしまっています。

そんな時タケミカヅチとサルタヒコとの関係を調べていると…

前回サルタヒコとその同一神とされる興玉の神は、鏡と関係ありそうな事が明らかになりました。
でもサルタヒコと興玉の神を、鏡の神或いは甕の神として位置づけるにはもう少し何か無いのだろうか?
っと調べたところ…
あるじゃないですか、日本書紀にサルタヒコと鏡について書いてある記事が…

邇邇芸尊が天降りしようとしたとき、天の八衢(やちまた)に立って高天原から葦原中国までを照らす神がいた。その神の鼻長は七咫、背長は七尺、目が八咫鏡のように、またホオズキのように照り輝いているという姿であった。
(ウィキペディアより)

目の前の霧が晴れたようでした。
やはり伊勢のサルタヒコは鏡の神に違いない
サルタヒコを鏡の神と考えると天孫降臨神話の謎がとけるのです。

①目が八咫鏡のように輝いている

サルタヒコは鏡の神であるため、太陽神アマテラスの皇孫ニニギの輝きをその目に映し出した。

②アマテラスと高木神に、「手弱女だが顔を合わせても気後れしない(面勝つ)からあなたが問いなさい」と言われた。(ウィキペディア)

アメノウズメ(天鈿女)はアメノウスメ(天細目)で、目は細く眼力もなく相手を威圧しない神。
鏡の神であるサルタヒコは相手を威圧しないアメノウズメを映し出す。
このため、アメノウズメはサルタヒコを見ても臆する事はなかった。

またサルタヒコが鏡の神であることを暗示するような記述が天孫降臨に書かれています。
サルタヒコ登場後ニニギ一行が天降りする直前に、アマテラスはニニギ一行を呼び止め八咫鏡を指し示し、

「この鏡は、わが魂であると思って私自身に仕えるように祭りなさい。」

この言葉を私は、

「サルタヒコと言う鏡の神がいますが、鏡を迷うことなく私に仕えなさい。」

と言うように受け止めました
どうやら天孫降臨神話は鏡の神話だったようです

サルタヒコが鏡の神と言うことは分かりました。
鏡は影(神霊)を映し出し、異界との接点であり境界です。
この事からサルタヒコは異界をつなぐ神とされ、地方の祭りでは先導者として異界から神様を連れてくる役割を果たしたのではないでしょうか。

またサルタヒコはその目に神霊を映し出すので、サルタヒコの目は鏡なのかもしれません。
もしそうだとすると、古代の人々は鏡に対して「異界との接点・神霊を映し出す」と言うことだけでなく、「神の目」と言うような位置づけをしていたかもしれません。

もうこれ以上は素人の手には負えませんが、邪視文銅鐸というものが発掘されているそうです。
神の目という関連で言えば、もしかするとサルタヒコと関係あるのだろうか?

タケミカヅチとサルタヒコ

2013年09月20日 | 古事記
タケミカヅチとサルタヒコ…
どの本を読んでも、インターネットで検索しても関係性を取り上げられる事が全く無さそうなのですが、実はこの二柱の神様、結構共通点があるのです
しかも4つも…
もしかして同一神なの?

  《タケミカヅチとサルタヒコの共通点》

①光の道
サルタヒコ…天上の道が八衢(ヤチマタ)に分かれるところで、上は高天原を照らし下は葦原中国(アシハラノナカツクニ)を照らす。
タケミカヅチ…雷神の稲妻は、空を八衢(ヤチマタ)に裂き、天上と地上を結ぶ光の道を作る。

②アマツカミを助ける
サルタヒコ…天孫ニニギノミコトを地上まで道案内する。
タケミカヅチ…オオクニヌシに国譲りさせた貢献者。

③映し出す神

④子孫の名前が良く似ている
サルタヒコ…子孫・オオタノミコト(大田命)←第11代垂仁天皇の御世
タケミカヅチ…息子・オオタタネコ(大田田根子)←第10代崇神天皇の御世
命・根子は共に尊称の様なものであるため、実質は大田と大田田の違いです。しかも時代的にもかなりの近さです。

①②④はある程度納得していただけると思います。
では③の映し出す神とは…

タケミカヅチはミカ(甕)の神霊です。
ミカ(甕)は現在の甕(かめ)です。鏡の無かった時代、中に水を張り水鏡として使った事から「映し出す。輝く。」の意味があったものと思われます。
当ブログ かめ 参照ください

次はサルタヒコが「映し出す神」と言うことを証明しなければなりませんが、サルタヒコのままでは無理なのです。
しかし…

  《伊勢のサルタヒコ》

サルタヒコもまた謎に満ちた神様です。
祭られる所々で、同一神では無いか?と言われる神様がいたり、或いは同一神とされている神様がいたりします。
そうなると、場所と時代を指定してサルタヒコを考えないといけません。
今は古事記のサルタヒコを考えているので、古事記の記述でサルタヒコの出自はと言うと…
伊勢です、伊勢のサルタヒコです。
ニニギノミコトを地上まで案内した後、アメノウズメによって本国の伊勢に送ってもらいます。

伊勢のサルタヒコは、興玉(オキタマ)の神という神様と同一視されています。
実はこの習合された神様を見て、今回妖怪レーダーが「ビビッ」ときました

「オキタマ」って、水鏡または鏡に魂を置くという事ではないのか?
鏡に魂を置く、映す、閉じ込める、と言う意味ではないのか?
ミカ(甕)の神か鏡の神かは分かりませんが、神霊を映し出す神様・輝く神様ではないか?と思ったのです。

そうだとすると、サルタヒコが八衢(ヤチマタ)で天上と地上を照らす意味も明らかになります。
ミカ(甕)の「輝き」と言う意味からも説明できそうですし、
ミカ(甕)の神のタケミカヅチが雷神であるというところからも説明できそうです。

それでは「鏡に魂を置く」という解釈以外に、興玉(オキタマ)の神と鏡を結びつける物があるのでしょうか?

あったんです

興玉の神は伊勢神宮本宮の地主神だったそうで、現在はアマテラスの側に祭られています。また、近くの二見と言うところでも祭られていています。(二見興玉神社)
この二見興玉神社の近くにある海岸に夫婦岩があって信仰の一部となっているようです。
そして夫婦岩の沖に石鏡(イジカ)という岩があり
これも信仰の一部となっていたようなのですが…
現在は海に侵食されて無くなったそうです

興玉の神様が元々何の神様であったのか、現在はもう正確には分からないようですが、石鏡(イジカ)という鏡につながるキーワードは見つけました

  《結局同じ神様なの?》

伊勢神宮において興玉の神は地主神として祭られましたが、サルタヒコは子孫である伊勢神宮で働く人・宇治土公氏(うじとこ)に個人的に祭られただけのようです。
興玉の神のほうがサルタヒコよりも格が高いと考えられたのかもしれません。
興玉の神とサルタヒコは元々は別神のようですね。

興玉の神の性質をサルタヒコが継承したため、タケミカヅチと似てるように見えただけなのかもしれません。

ただし…④子孫の名前が似ている
とても気になるところです