グー版・迷子の古事記

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鏡の神話

2013年09月21日 | 古事記
元々サルタヒコにはあまり興味がなかったのですが、タケミカヅチとの関連から、もう一度古事記でサルタヒコの登場場面・天孫降臨を読んでみました

そして読んだ最初の感想は、サルタヒコは伊勢に封印されたのではないか?と言うものでした。
何故そんなこと感じたんだろう?
もう一度読み直して納得しました。

降臨後ニニギノミコトはアメノウズメにサルタヒコを伊勢まで送らせ祭らせます。
ここに反応したんだなと思いました。
「権力者に、送ると言う名目で伊勢まで連行され、祭ると言う名目で見張られた。」
その後、サルタヒコが海で噛まれてなくなる場面もこんなふうに感じた原因の一つになったのかもしれません

  《鏡の神・甕の神》

古事記には鏡の神が出てきません。
神霊を映し出す鏡、アマテラスの化身とも言うべき鏡、古代神霊界との接点とも言うべき鏡、とても重要な鏡なのに鏡の神がいないのです。
可笑しいじゃないですか

厳密に言うと甕(ミカ)の神であるタケミカヅチ(武甕槌)がそれにあたるのですが、古事記の成立時点では既に剣神・雷神となっていて、本来の甕(ミカ)の神の本質であろう水鏡としての性質を失ってしまっています。

そんな時タケミカヅチとサルタヒコとの関係を調べていると…

前回サルタヒコとその同一神とされる興玉の神は、鏡と関係ありそうな事が明らかになりました。
でもサルタヒコと興玉の神を、鏡の神或いは甕の神として位置づけるにはもう少し何か無いのだろうか?
っと調べたところ…
あるじゃないですか、日本書紀にサルタヒコと鏡について書いてある記事が…

邇邇芸尊が天降りしようとしたとき、天の八衢(やちまた)に立って高天原から葦原中国までを照らす神がいた。その神の鼻長は七咫、背長は七尺、目が八咫鏡のように、またホオズキのように照り輝いているという姿であった。
(ウィキペディアより)

目の前の霧が晴れたようでした。
やはり伊勢のサルタヒコは鏡の神に違いない
サルタヒコを鏡の神と考えると天孫降臨神話の謎がとけるのです。

①目が八咫鏡のように輝いている

サルタヒコは鏡の神であるため、太陽神アマテラスの皇孫ニニギの輝きをその目に映し出した。

②アマテラスと高木神に、「手弱女だが顔を合わせても気後れしない(面勝つ)からあなたが問いなさい」と言われた。(ウィキペディア)

アメノウズメ(天鈿女)はアメノウスメ(天細目)で、目は細く眼力もなく相手を威圧しない神。
鏡の神であるサルタヒコは相手を威圧しないアメノウズメを映し出す。
このため、アメノウズメはサルタヒコを見ても臆する事はなかった。

またサルタヒコが鏡の神であることを暗示するような記述が天孫降臨に書かれています。
サルタヒコ登場後ニニギ一行が天降りする直前に、アマテラスはニニギ一行を呼び止め八咫鏡を指し示し、

「この鏡は、わが魂であると思って私自身に仕えるように祭りなさい。」

この言葉を私は、

「サルタヒコと言う鏡の神がいますが、鏡を迷うことなく私に仕えなさい。」

と言うように受け止めました
どうやら天孫降臨神話は鏡の神話だったようです

サルタヒコが鏡の神と言うことは分かりました。
鏡は影(神霊)を映し出し、異界との接点であり境界です。
この事からサルタヒコは異界をつなぐ神とされ、地方の祭りでは先導者として異界から神様を連れてくる役割を果たしたのではないでしょうか。

またサルタヒコはその目に神霊を映し出すので、サルタヒコの目は鏡なのかもしれません。
もしそうだとすると、古代の人々は鏡に対して「異界との接点・神霊を映し出す」と言うことだけでなく、「神の目」と言うような位置づけをしていたかもしれません。

もうこれ以上は素人の手には負えませんが、邪視文銅鐸というものが発掘されているそうです。
神の目という関連で言えば、もしかするとサルタヒコと関係あるのだろうか?