今日から、創価学会嘘つきさんのリクエストで阪神大震災の記録を綴っていこうと思います。
1回の記事にまとめてみよう、と思ったのですが思い出しているうちにいろんな感情が湧き出して、あれもあれもとなっているうちに長くなってしまいそうなので分割にします。
私チョココが実際に被災した際の話です、中には家族を亡くされた方の話も出てきます。
創価学会とは何の関係もありませんが、どんな宗教であろうと天災の前には平等で、誰もが死を、大切な人の死を、目の前に起きている事を、免れることはできませんでした。
そういう観点から見て頂けると嬉しいです。
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1995年1月17日(火)、あの阪神大震災の当時、私はまだ中学生でした。
午前5時46分52秒、私はその直前に目が覚めていました。
武道の部活動でいつも朝練があってその習性からですがその日は珍しくお休みで、目が覚めても二段ベッドの下段の中でボーっとしていると体がゆっくり揺れている感覚を覚えます。
まだ夢の中にいるような気分は、その直後の大揺れによって一気に叩き壊され、慌てて二段ベッドの上が落ちてこないように(上は荷物置き場になっていた)必死で支えました。
震度6です(私の住んでいる町)。
異様な風景でした、いつも見ている自分の家の壁がぐにゃぐにゃと湾曲しながら大きく揺れているのです、座っていることすらベッド上部を掴んでいないとできません。
すぐ横の床で寝ていた母が目を覚ましヒステリックな声を上げます。
マンションが壊れてしまう、倒れてしまう、と思い始めた頃ようやく揺れが収まり、母が父親の部屋へふらふらと動こうとしたので私は大きな声で呼び止めました。
「父さんおらんやろ! 動いたらあかん!」
父は仕事で家にいませんでした。
末っ子気質の抜けない頼りない母は混乱し、まだ小学生の弟はその声にも気づかず母の横で寝ています。
とにかく弟の首根っこを掴み起こし、ダイニングテーブルのまわりや下に物が落ちていないことを何度も確認してから、テレビを付けてテーブルの下に隠れて余震に備えました。
ガス栓を確認し、風呂に水を貯め始めました。
すぐに水が止まってしまうだろうと思ったからです、実際このあと水が止まり、みんなが困っていました。
震災対策番組も何もなかった当時、長女としてよくできた行動だったと、今でも思います。
普段から父親の問題で、私がしっかりしなくては、と思っていたので自然だったと言えば自然だったかもしれません。
父は車で出勤したまま、会社の方が大事だと言い戻ってきません。
テレビをつけ、大きな余震を何度も経験した後、家の外が急に騒がしくなりました。
外から叫び声がいくつも聞こえます、母が恐ろしくなって恐る恐る覗いた所、マンション内の人達が「玄関ドアが開かない」と叫んでいるのです。
ドアが閉まっている状態で、叫び声がよその家々に響き渡るのですから、その数とその恐怖心から出る声の質は、想像を絶する恐ろしいものがありました。
幸い私のマンションでは火事が起きなかったので大事にはならずに済みました。
関西人は地震に慣れていないので、年老いた人ほど混乱していたように思います。
子供の方が案外適応力は高かったかもしれません。
向かいにある中学校の貯水タンクから水が出ると聞き、私はそれを汲みに往復しました。
夕方に父が帰ってきて、一緒に往復しました。
そのうち父は家に帰るのが怖くなって(倒壊の恐れから)避難したいと言い出しました。
マンションの住民が、マンションが傾いていると騒ぎ始めたからです。
確かに傾いていました。
父は私達を置いてそそくさと体育館へ避難し、飲み水を抱えて私達も追いかけるように体育館へ。
体育館にはすごい数の人達が集まっていて、毛布が足りない、と配っている人が言っていました。
真冬の1月17日、体育館です。
関西とは言え毛布がなくては眠ることもままなりません。
父に1枚、母と私と弟とで1枚もらい、体育館の舞台には誰かが置いたラジオが余震情報と被害者数を伝え、誰もが食べるものを持たず、飲み水すら足りず、余震が起きる度に被害者数に入ってしまうのではないかという恐怖心から、みんなが悲鳴をあげていました。
体育館には保護者の姿が見えない子供達がいました。
私はまだ中学生でしたから大人の手伝いはできません、しかし子供でもありません。
私と、私の同級生の子達で、その子供達の面倒を見ることにしました。
あの時はみんながそれぞれ、自分にできることを探していたように思います。
男も、女も、子供も、老人も、みんな自分にできることを必死で協力し合いました。
近所にある食料品工場から、おつまみのような食べ物が届きました。
工場主さんが全て、無償で懸命に配っていました。
朝から何も食べる物がなかった私達には唯一の食事で、あんなにおいしいと思ったのは生まれて初めてかもしれません。
(当時の関西は地震がない安全神話が信じられていて、私のいた体育館でいわゆる被災グッズを持っている人は一人もいませんでした)
目が見えない女性がいて、いつも旦那さんが付き添っていたのですが学校のトイレを利用する際はそういうわけにはいかず、力仕事はできない女性達が率先して手伝いました。
必ずトイレに行く時は、体育館の外に出るので5人以上でまとまって行きました。
余震対策です、今考えれば不審者対策でもあったでしょう。
体育館の外では、飲食店が無償炊き出しをし、大人達が体育館で水を汲める情報をまわし、みんながそれぞれ抱く恐怖心を、みんなで分け合って、分散させていました。
みんなの行動がみんなの命を支え、心を支え、誰が誰に感謝するとかそういう問題ではなく、支える側も自分のためであったのです。
全国的にあまり好まれない関西人の馴れ馴れしさはこういう場面で、非常に役に立ったと思います(笑
私と私の同級生の子達で世話していた子供達は日毎、親が迎えにきたり、片親だけが迎えにきたりして少しずつ減っていきました。
それでも親と連絡のつかない子達が数人残り、ちょうど私達世話をする側の人数と子供の人数が同じになった時でした。
自然と相性の合う子とペアになるようになっていったのですが、私と一緒にいた子は小学校中学年ほどの大人しい男の子でした。
無口で笑うこともなく、でも愛想が悪いわけでもなく、ちょっと美少年な彼は思いつめたような悲しい表情を持っていました。
徐々に親達が子供を迎えにくる中、自分の親は連絡すらつかない。
大人びた感じすらする彼は不満も不安も口にすることはなく。
数日経っても連絡がつかない事の意味を彼も私も、うっすらと感じ始めていました。
(阪神大震災の記録2に続く)
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父との異様な関係は、「創価関連ブログ設立の理由」の私の生い立ち部分と「悩みの片側:ストーカー(非学会話)」参照です。