goo blog サービス終了のお知らせ 

友ちゃんブログ

適当で、いい加減・・・それが理想

夏季合宿?

2012年07月11日 02時53分49秒 | O村高校

久々に高校当時の写真から。
同級生の一部には懐かしいネタですが、他の皆様はお付き合いの程を。

 

高校生当時の写真がアルバムに貼ってあるのは30数枚。
その中の4枚。

Img254

Img255

Img256

Img257

日付は「黒木民宿にて 52年8月9日」と記しています。
数年後にアルバムを整理した時に撮影日時を入れたと記憶しております。
多分この日は原爆記念日で登校日だったのじゃないでしょうか。

室内の写真は離れの平屋大部屋ですので、事前に計画して予約を入れていたのでしょう。
写真にはMAX9人写っていますので撮影者を入れて10人は集まったようです。
2年の時に転校したY田三つ足君もいますので、わざわざ連絡して呼んだんだと思います。
Y田君が〝三つ足〝と呼ばれていたのはアソコが大きかったからではありません。彼は陸上部短距離選手で弾丸ランナーでした。足が速いのは2本の足だけでなく、アソコも使って走っているからだろうと云うことで1年7組当時についたあだ名だったと記憶しております。

何故かこの日の事は詳しく覚えておりません。
卒業後直後と夏休みにもこの民宿に集まってますので、いくつか記憶がごちゃ混ぜになっているところもあるようです。それで、記憶が薄いのかも。

こうであったろう、というお話しで進めます。記憶違いのところはコメントください。

下校後、物資を運搬。
3学年。夏休み中の1泊2日の合宿です。
目的は当然、進学のための集中講座、ってな訳ないか。
まぁ、涼を求めて・・・と云うことだったんでしょうけどね。

しかし、7月末に以前UPした〝沈没騒動〝を起こした直後と云うのに、私達は何をやっていたのか。反省などしていなかったようです。
(すみません。時系列をまちがってました。これは8月9日ですので、沈没騒動を起こす前になります。訂正してお詫びも仕上げます)

 

記憶では物資(喉を潤すもの)はカズの軽ワゴンに乗せて運んでもらったと思うんですが・・・。
写真にはカズが写っていませんね。物資を運んでもらっただけで、バイトに行っちゃったのかしら。それか、この日金泉寺かどこかに先に登っている別の仲間のところへ行ったんだったっけ?
カズの後日談では、夜中に真っ暗な山道をたった1人で歩いて登ぼるのはたいへん怖かったそうですよ。そりゃぁ、そうでしょう。私は登れません。 この辺についてはカズのコメントを期待しときましょう。

さて、BBQをやったのか? 残念ながらそれは思い出せません。
しかし、川で泳いだのは覚えています。
私たち仲間内では、遊びにも変な規則を作っていました。
先の沈没騒動の時は全員「競泳パンツにTシャツでボートに乗り込み」ましたしね。

黒木合宿の川遊びは、上は裸、下もフルチンで泳ぐこととなっていました。
つまり素っ裸で遊んでいたわけです。その近くに他の人がいなかったんでしょうけどね。
今だとワイセツ物陳列罪で通報されちゃうでしょうね。

写真には二十歳になるまでは飲んではいけないもの2点は全く写っていませんね。
そんなはずはな・・・・・・・いと・・・・・。

 

室内の写真。M吉が大事に抱いているのはH本です。
これが合宿用の教科書だったのか!
そう言えば、数年前の同窓会の折に、M吉はこの黒木合宿のH本を覚えていたんですよ。
私はすっかり忘れていて、写真をそこまでは見ておりませんでした。

拡大してみると・・・
あれ~。M吉の後ろに顔が写ってない誰かがいるんじゃない?誰だ?
まぁ、それは置いといて。

拡大してみると、確かに女性の胸が写っている一枚が見えてます。
本の名前が分かりません。平仮名でしょうか。「〇 〇 み ん 」とあるような。
ぼかしを入れんといけんので、拡大しませんよ。
誰だぁ、コピーして拡大しようとしてるのは!

この頃は何を話して盛り上がっていたのでしょうか?
まぁ、H本を見て盛り上がった時間もあるでしょうが、それだけじゃあんまりですよね。
(私は親戚が本屋さんだったため、幼少の頃よりH本はある程度見慣れておりました。H本についての話は改めてUPしますね)
受験の事、進学の事を少しは話ししたのかなぁ?

 

翌朝というかお昼は恒例で、民宿の母屋で「鯉こく」か「ニジマスの塩焼き」を頂いて下山したのではないかな。

 
 



 

↓ ランキング参加中。ご面倒ですが、ポチッと頂ければ励みになります。

にほんブログ村 オヤジ日記ブログ 50代オヤジへ

 

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジャケットはどんなデザインだった?

2011年11月02日 23時34分58秒 | O村高校

先月末、白蟻被害のお宅の補修工事をしました。
たまたま、その横のお宅が高校時代の恩師のお宅でした。
2年生の時に担任をして頂いた六〇先生だったのです。
機会は何度かありましたが、先生にお声掛けはしませんでした。
残念ながら特に印象のある思い出話もありませんし、ご挨拶をしてもその後の話の展開はなさそうだったからです。

でも、すぐに思い出したことがあります。
多分1年生の時でした。
ある日の朝の補修の時間だったか、1限目だったと思います。いや、もしかすると2限目以降だったかも。
担当の先生が六〇先生。

記憶にある教室が旧講堂のプレハブでは無く旧校舎の教室のようです。
当初私達7組(男組)は他のクラスとは離れた旧講堂に作られた教室だったのですが、1年間ずっと離れっぱなしではあんまり可哀想だろう(そういう判断だったのかな?)と途中であるクラスと入れ替えになりました。記憶ではその教室のようです。
私はその教室の黒板に向って右寄りの中間より少し後ろの席。 

このブログによく登場の羽〇野が遅刻してきました。
彼の片手にはカバン。そして、小脇にLPジャケットを挟んでいました。

先生「羽〇野、脇に挟んどるのは何んか?見せてみろ」

羽〇野がLPを差し出します。

先生はジャケットを見て言いました。

「キャラメル・ママ??」

そして、LPを羽〇野に返しました。

 

私は「キャラメル・ママ」を全く知りませんでした。

先生もご存じじゃなかったようです。無理もないですが。

この朝の一場面がすごく記憶に焼き付いており、
私の中では、「六〇先生」といえば「キャラメル・ママ」が連想されるのです。

 
 
 
 

↓ ランキング参加中。ご面倒ですが、ポチッと頂ければ励みになります。

にほんブログ村 オヤジ日記ブログ 50代オヤジへ

   <script type="text/javascript" src="http://bn.my-affiliate.com/movie_bn.php?p=00040359&s=00045551&w=300&h=250&mode=1&hid="></script>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明日に架ける橋

2011年10月29日 21時38分34秒 | O村高校

久々想い出話しです。D高当時のお話しです。
多少ヤバいところもあるのですが、「若気の至り」、「時効」と云う処でお許しを!
決して母校の名誉を汚すつもりはございませんので、ご理解の程を。

 
 

前回の体育祭の続きになります。
無事、仮装行列の山車用に借りたリヤカーを返し終え、いよいよ打ち上げです。
私達2組はやりましたが、他のクラスはどうしたのかは覚えておりません。

会場は丁度自宅の引っ越しでほぼ空き家状態だった羽〇野の家。
そこに集まったのは総勢25人。クラスは全員で38(女子3人を含む)人でしたら65.78%の出席率です。

Img228

(撮影はT野くん。私は「あ~ん」・・・恥ずかし~い)

 

料理は写真で見ると「とんちゃん」がメインだったようです。
残念ながら乾杯の写真は出せません。ご理解ください。アハハ。

途中の事はほとんど思い出せませんので省略します。
まぁ、沈没事件のすぐ後ですので、その話で盛り上がった事は間違いないでしょう。

 

私が特に記憶に残っているのは〇瀬君の事です。
記憶違いかも知れないんですが、私の記憶では次の騒動と体育祭の打ち上げがリンクしてるんです。
 

会も終盤となり、テーブルから別の部屋へと移動したり、外で涼む者もいます。
そろそろ自宅へ帰る者も出始めた頃です。適量を超えた〇瀬が「帰る~!」といってフラフラと外へ出ようとするのを制止する数人がいます。なんと彼は原付きで来ていたらしく、「(原付きを運転して)帰る~!」と騒動しているのです。
当然、そんな事はさせられません。事故を起こすに決まってますし、そうなると、私達もヤバイ事になります。なんせ、沈没騒動のすぐ後ですからね。それこそ「謹慎」では済まない事態になります。
「泊まれ!」  「いや、帰る!」
そんなやり取りを繰り返しながら、2階へ上ったり、下りたり家中を廻っていました。
最終的には彼は寝てしまったようです。御世話をしてくれたのは誰だったんでしょうか?ご苦労様でした。
私はそのまま泊まりました。

 

翌朝の記憶です。
ちょっぴり二日●いが残る中、2階の一室に数人が居ます。沈没組みの面々だったんじゃないかなぁ。
部屋にはまだ引越しが済んでいないピアノが残っていました。
当時、羽〇野はピアノも弾くし、ドラムも叩く男でした。2年の時、9月の文化祭(だったっけ?)では上級生とドラムのセッションを披露したんだったなぁ。確かほとんど独学だったはずです。

私と誰かは窓際に腰かけ外をボーっと眺めています。
そして、誰かが羽〇野に言いました。

「なんか弾いてくれ」

「了解」

おもむろに彼が弾き始めたのは、サイモン&ガーファンクルの「明日に架ける橋」でした。

これが朝のまどろみの中、いい感じでしたよ。

 

あの時、メロディーを聴きながら各々が未来に架けた橋は

現実のものとなったのか?

幻となってしまったのか?

 

</object>
YouTube: サイモン&ガーファンクル『明日に架ける橋』




よくよく思い返せば、
8月27日の沈没騒動
そして体育祭に向けた山車製作のひと騒動がたぶん9月末。
そして、体育祭が10月2日。
8・9・10月と騒動ばかりを起こしていたんですね。
この外にもまだまだ記憶に残っている騒動もあります。改めてUPしますね。
いや、受験生であることを感じさせない充実ぶり?ですね。

 

 

↓ ランキング参加中。ご面倒ですが、ポチッと頂ければ励みになります。

にほんブログ村 オヤジ日記ブログ 50代オヤジへ

 

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

すみませんでした

2011年06月20日 13時08分11秒 | O村高校

高校の同級生からのコメントが、当時のことを思い出す切っ掛けになります。
今回は『体育祭』について。
大高の体育祭にはまだ早いですが。

 

大高の体育祭は数年前から1・2・3年混成クラス対抗(この表現はあってるのか?1~3学年の同じクラスが1チームになるってことです)になっているようです。詳しい編成ははじめちゃんがご存じでしょうけどね。それまでは1学年対2学年対3学年の学年対抗でした。

そして、例年優勝するのは2学年でした。

3学年は既に受験体制に突入済み。しかし、最後の体育大会であり、出し物の作製などもあってなかなか忙しい。で、運動不足。
1学年は半年前は中学生。やっとこ、高校生活のリズムが分かり出した頃。勉強と運動のバランスがまだ掴めてない。

2年は高校生活もすっかり板についている。まだまだ、受験の緊張感は弱い。程良く勉強と運動をこなしている。

やはり、中堅の2学年が実力を遺憾なく発揮できる学年だったと云って良いでしょう。
当然私たちの学年も2年生の時は総合優勝しましたよ。

 

 

話は3年生時の体育祭。S52年10月2日。あっ、沈没騒動からひと月ちょっとなんですね。

学年の総合学力は今一でも、団結力はピカ一。模試となるとテンションが下がるが、お祭りとなるとテンションが一気に上がる。そんな学年でした。

私たちの3学年は前年と同様、総合優勝を狙っていたのです。 

『2連覇たい!』

しかし、1年前は新米高校生だった2学年は当然力をつけています。私達3学年は状況から判断すると2学年より不利であることは確か。まともに勝負して勝てるのか?

 

当時、私は陸上部のキャプテンでした。(短距離400mを走っておりました)
陸上部員は体育祭においてスターター等の役を受け持っていました。 

そこで、

「点数を稼ぐためになら、多少の・・・」という話だったかは覚えていませんが、

「お前がスターターとして立つのなら、他の奴らより早くスタートを切れるように何かサインを出せ!」と数名の級友に脅しを掛けられていたのです。

私はあっさりと合意。

ならばと、ピストルを持った右手ではなく、空いている左手でサインを送ることにしたのです。

「ピストルば鳴らす直前に左手ばこがん動かすけん」

それはピストルの引き金を引くより一瞬早く、左手をピクリッと動かすから・・という打ち合わせです。

「よし、分かった。他のもんにも教えとく」

 

 

「位置について」

ピストルを持った右手を挙げて 「よ~~い。」

だらりと下ろした左手の先がピクッと動きます。

級友が一番にスタートを切ります。

間髪入れずピストルを鳴らします。

一瞬「フライングじゃん!?」と思う者もいたでしょうが、

レース進行の権限はスターターにゆだねられておりますのでそのまま続行です。

多少のクレームも無かった訳ではありませんけどね。

これで、何人かは上位に食い込みました。

 

同級生の皆さん、卒業アルバムS52年10月2日体育大会のページ。

左ページ中央下に一着でテープを切るE藤と2位のK子さんの写真が写っています。

あれはE藤の実力ではありません。上記のインチキのおかげです。
ついでに言わせてもらうと、写真の彼が履いている青にラインのシューズは私のものです。確かアディダスのトレシュ(トレーニングシューズ)だったと思います。
走る直前にこれまた「貸せ!」と脅されたのです。

Img225

(赤〇のシューズは私のものです) 

 

さて、表題の件に入っていきましょう。

上記のようなイカサマもしながら、3学年と2学年の得点は接戦でした。
さぁ、最終プログラムとなりました。種目はリレーの花形、学年対抗リレー。このレースは各学年の選り抜きの選手が出場します。リレーは何人出場だったのかは覚えていません。
その中の女子学年対抗リレー。(この後男子だったのかな?)

 

さあ、スタートです。
(流石に途中の経過は記憶しておりません)
レースは終始3学年女子がリードしていたと思います。
テープを切ったのも3学年じゃなかったかしら。
歓声に沸きあがる応援席、健闘をたたえあう走者達。
しかし、思いもよらぬ結果が待ち受けていたのです。
それはリレーゾーンオーバー(正式にはテイクオーバーゾーン)。後半の何?走者かがこのゾーンをオーバーしてバトンを受けとってしまったのです。判定結果は失格。

このゾーンは例年設定されていたわけではありません。この年新たに陸上部で設定したのです。
「ゾーン外でバトンをリレーしたチームは失格とし、得点は無し」
そして、ソーンを設定しようと言ったのはこの私だったのです。
何故設定をしたか?
それは、ゾーンを設定することによって、走者達がダラダラと広がることを避けたいと思ったからだったのです。

 

この女子のレースの後に男子のレースだったと思います。私は男子の選手として出場したのですが、自分のレースは殆ど記憶にありません。何位だったかも記憶にないのです。それは、私の頭の中は「俺が設定したばかりに、こがんことになってしもうて・・・」と自分が設定したことで失格となった女子達にすまない気持ちで一杯だったからです。

途中の得点発表では、たとえ女子が失格したとしても、それをカバーするだけの点数差があったのでしょう。
「もしかすると2年に勝ったかも」 私も皆もそう期待していたに違いありません。

 

そして、最終集計です。
私達の応援席に発表より早く情報が入りました。
「2点差ぐらいで勝ったらしい」
そこら一帯で歓声が湧きました。

そして、正式発表です。

「優勝は2学年 〇〇〇点」

2年生が先ほどとは比べ物にならない大きな歓声をあげます。 

「え? 2点差で勝ったとじゃ・・・・」

 

何点差だったかは覚えていません。最終結果は2学年に負けてしまいました。

ただ、女子リレーの得点を加算すれば勝てた点数差だったんだと思います。

 

体育祭のすべてのプログラムを終えて着替えの為に教室へ向かう中、私のそばで「ごめん」と泣きながら歩いている女子達がいます。彼女達は悔しさと申し訳なさに泣いていたのでしょう。
私は「よかよか。実力じゃ勝っとったとやっけん」と声掛けながらも、実は自分を責めていたのでした。

 

でも、やっぱり私たちの学年の団結力はすごかったんですよ。
実力では2年にまけてなかったんです。これは確かです。

 

S52年10月2日体育大会。
あの時走った女子の選手のみんな。
そして、応援した同級生のみんな。
ゾーンさえ無ければ連覇出来ていました。

すみませんでした。

上級生・下級生の皆さん。すみませんでした。


Img226

黄色〇の写真が女子学年対抗リレーの一枚じゃないかしら。

3年は緑のハチマキ。あっ、写っているのも〝みどり〝さんだ。

 

2組の出し物。『ヤッターワン』作製顛末記はこちらで。

 

↓ ランキング参加中。ご面倒ですが、ポチッと頂ければ励みになります。

にほんブログ村 オヤジ日記ブログ 50代オヤジへ

 

 

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夏の日の思い出 その4 ~沈没軍団~

2011年05月26日 06時32分44秒 | O村高校

前話はこちらです。
その1その2その3

 

2学期が始りました。
HRの時間となり、担任の岡本先生が教室へ入ってこられました。
教壇の両端に手を添えて、騒動を起こした面々を見回し、ガクッと深く頭を落とされました。
 

さあ、私達の処分は?

(さすがに先生の言葉は覚えていません)
要は、
ボート部顧問の先生より、職員会議に於いて報告があったそうです。
キャプテン平○から報告のあった内容をご説明されたんだと思います。
特に事故・怪我など出ていなかったからでしょうか、『全員処分無し』でした。

 

まぁ、校長室で指導を受けた以後の経過を推測するならば、
まずは、翌日、ボート部顧問の先生より、担任の岡本先生へ事の成り行きのお話し。
驚いた岡本先生と共に教頭先生へ報告。
最後は顧問・担任・教頭先生の3人が校長の元へ報告と相談。
4者で8人の処分についての協議。
そして結果を2学期初日の朝の職員会議にて先生方へ報告。
と言ったところでしょうか。
そうそう、8人が全員2組の生徒ですから、担任としての岡本先生の心境はいかばかりかとお察しいたします。

 

HRへもどりましょう。
岡本先生が最後に「処分無しで済んだのは○○先生のお陰ぞ。後でお礼に行け!」と仰いました。終了して直ぐに私達8人は職員室の先生の元へ行きましたよ。
職員室に入るやいなや、好奇な視線を浴びるのです。部屋にいた先生方は皆ニヤニヤ笑っておられます。
大方の先生がこう思ったに違いありません。
「あはぁ~、沈没したのはこいつらか。2組ばかりとは、岡本先生も大変やなぁ~」

先生の前に並び全員で頭を下げます。「すみませんでした」

 

その日、体育館での授業があったのでしょう、渡り廊下を歩いている私達に後方から「沈没軍団はお前達や?」と声掛けたのは"足蹴りの河津"先生でした。

職員会議での報告のみで処分も無かったので、この一件を知らない人が多いでしょう。その後話が広まったと言うこともありませんでした。

しかし、その後も私は肩身の狭い思いをする事となりました。

実は、沈没翌日船の清掃・修繕をボート部の下級生達としました。それですっかり顔を覚えられたため、学校内外ですれ違う度に彼らが「こんにちは」と挨拶をしてくれるんですよ。それが恐縮でした。

事の真相を彼らは知っていたのでしょうか?知っていたとするならば、さすが海を愛する者達です。その心は海のように広かったんですね。

 

そして、

なんとこの話には後日談があるんです。
去る2年半前の同窓会の折、谷○から聞いた話です。
彼が大学のサークルの先輩達と一緒の時(飲んでる時だったっけ?)の話。

その先輩とは知り合って1年以上経っていたそうですが、
その先輩から「ボートで沈没した高校生達を助けたことがある」という話が出たそうなんですよ。話の内容を確認すると何とそれは私達だったんだそうです。
「それ俺たちですよ!」 「なんやそうや!」で盛り上がったそうな。

命の恩人が身近に居たというのも面白いですね。 

 
 
 

今となっては楽しい思い出話ですが、当時の先生方・ボート部員の皆さんのみならず、その後のボート部員の皆さん、そして、休部中のボート部復活にご尽力頂いた大先輩方にも、誠に申し訳ないことを致しました。
沈没軍団8人、いつの日か、大高ボート部に何らかの形にて恩返しをさせて頂きたいと存じます。

 

シリーズ4部作、長らくお付き合い頂きました。ありがとうございました。

これにて『 完 』

 
 


↓ ランキング参加中。ご面倒ですが、ポチッと頂ければ励みになります。

にほんブログ村 オヤジ日記ブログ 50代オヤジへ   <iframe scrolling="no" height="60" frameborder="0" width="468" src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=tomochan-22&amp;o=9&amp;p=13&amp;l=ur1&amp;category=endless&amp;banner=1WCZ9R2Z3XBWRQE2SRG2&amp;m=endless&amp;f=ifr" border="0" marginwidth="0" style="border: medium none;"> </iframe>

<iframe scrolling="no" height="60" frameborder="0" width="234" marginwidth="0" border="0" src="http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=tomochan-22&amp;o=9&amp;p=42&amp;l=ur1&amp;category=amazonrotate&amp;f=ifr" style="border: medium none;"> </iframe>

コメント (8)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする