新・台所太平記 ~桂木 嶺の すこやかな日々~

N響定期会員・桂木嶺の、家族の介護・闘病・就職・独立をめぐる奮戦記を描きます。パーヴォ・ヤルヴィさんへの愛も語ります。

体、ボロボロだったみたいです😢 大学病院の精神神経科を受信しました。調布市役所の対応に悄然とする。

2019-02-01 21:34:51 | 生活保護という、新しい生活

ここで、訃報です。Twitterで、私にもやさしくしてくださった、通称”カラヤンさん”が、お亡くなりになっていたことが、さきほどわかりました。もうご葬儀はすまされたようですね。Twitterを久々にのぞいてみて、知りました。カラヤンさんは、ずっと糖尿病で闘病中で、入院されてからも、明るくたのしい投稿をTwitterでされていました。クラシックの音楽の造詣もふかく、明るく、巨体をゆさぶりながら、コンサートホールを闊歩する姿をなつかしく思い出します。駆け出しのクラシックファンの私にも親切にしてくださり、大変心強かったですが、おととい、ムーティさんのコンサートに姿がお見えでないので、「あれ、おかしいな?」と思っていたら・・・46歳という若さでした。

やさしくて、よい方ほど、早く天国にめされてしまいますね。老残はさらしたくないものだと思います。カラヤンさんのご冥福をこころよりお祈り申し上げます。

きょうは、近くの大学病院で、きのうお話した体調の悪さについて、いろいろ検査をうけたり、調べたりしていただきました。結論としては、いろいろ問題は山積。非常に途方にくれておりますけれども・・・😢

でも、むりに明るくふるまうこともなかったのだなと思いますね。いろいろな意味で、私の心も体も限界だったようです。あまりにも、つらいことがいままで多すぎました。

ソーシャルワーカーさんともお話しまして、「かつらぎさん、いままで無理に笑顔を振りまいてきたかもしれないけれど、もうめいっぱい、アップアップなときにはギブアップ!と宣言してもいいのですよ」とおっしゃていただき、ずいぶん気持ちが軽くなりました。

きょうは、(もう正直にいってしまいましょうね)精神神経科と、脳神経外科を受診しました。自宅を離れると落ち着くようで、パーヴォの音楽を聴きながら待っていて、血圧をはかったら、だいぶさがっていたので、医師も看護師さんも「ああ・・・」とため息をついていましたが。

一応明日、MRI撮影をして、こまかく私の体の状態を調べることになりました。先日頭部は、CTスキャンで見ていて、何事もなかったのですが、手足のしびれはのこり、足はひきずった状態です。どこに行くにもタクシーでないと、疲れてしまう状態が続いていたのですが、

歩けない、ということはつまり、

体調面で限界だったということです

と医師に言われて、わたしは思わず落涙しました。

最初に精神神経科を受診しました。かかりつけではないのですが、16年前の発病から現在にいたるまでのお話を詳しく聴きたい、ということでしたので、1時間以上にわたって、おちついて話しました。パーヴォとの出会いから、今までにいたるまでの経緯もきちんとお話しました。お医者さまはY先生とおっしゃって、やさしい男性の先生でしたが、うんうん、とだまって私の話を聞いてくださり、「あなたは大変おちついておられるし、妄想に陥っているわけでもないですよ。むしろ大変よいお話をきかせてくださいました」と静かにおっしゃいました。

パーヴォが私に一昨年のクリスマスに、(これももうちゃんと正直にみなさまにお話しますね)シェーンベルク作曲の「浄められた夜」という曲をプレゼントしてくださり、ドイツ語の詩がつけられているので、それを私に捧げるといってくださり、それを日本語訳した文をネットで調べて読んだら、こう書かれていたことをお話しました。

「ぼくと君は、回り道をして、

あやまちをおかしたけれど、

いまこうしてお互い目の前に

たっているよね・・・。

僕は君以外考えられなくなった

僕を信じて、どうぞついてきてほしい」

という意味の詩が書かれていたので、大変おどろき、パーヴォに私がきいたら、

「とにかく、僕を信じて、

一生ついてきて」

といわれたことをお話すると、Y先生は、

「それは、プロポーズ、

ということですよね?」

とおっしゃたので、私が「そう私は受け止めました」とお話したのですが、

思わず感情がこみあげてきて、わっと泣いてしまったのでした。

Y先生は、「いいですよ、かつらぎさん、大丈夫ですよ。ちゃんとお話してください」

といったので、そのあとのパーヴォとの顛末も勇気をふるってお話しました。

ソーシャルワーカーさんにも同じ話をしたら、彼女にも涙ぐまれてしまいました。

 

パーヴォが私の病名をしって、

音楽療法を申し出てくださったこと。

 

音楽の感想を前のブログで書き始めたら、

具合がどんどんよくなっていったこと。

 

パーヴォが音楽の力でわたしを

治していってくださったこと。

 

そしてブログでの感想を読んだ、

某大手出版社の編集長の方が、

実際に私に逢ってくださって、

「音楽のコラムや記事をうちで

今後書いてみる気はありませんか?」

と言ってくださったこと。

 

などなど、いろいろざっくばらんにお話をすることができました。

(パーヴォ、ごめんなさい、全部お話してしまいました。どうぞ許してください。)

Y先生が「そのあたりの事情は、たしかに、パーヴォさんも有名な方だから、誰にもいえなくて、つらかったですね」とやさしくおっしゃってくださったので、私はこのお話もしました。

「はい。実はY先生の前の前の精神科医の先生には何もかもお話したのですが、彼女にしか話していなかったことが、どういうわけか、2ちゃんねるに書かれていて、情報が流出していたのです。」

 

Y先生は顔をしかめました。

「ひどい話だな。ほんとだとしたら医師法違反だ」

私が「そうなんです。それで、わたしが2ちゃんねるで大変な誹謗中傷をうけて、大変傷ついたのです。でもその女医さんは否定されて・・・。で、もう彼女とは信頼関係をもてなくなってしまったので、主治医を変えたのです。」

Y先生は、それでますます誰も信用できなくなって、パーヴォさんに精神的に頼ってしまうようになってしまったのですね。お気持ちはわかりますよ」とやさしくおっしゃってくださいました。

私は涙をこらえて

「はい。お恥ずかしいお話です。パーヴォさんにも負担をかけてしまいました」

Y先生が、「でも、いまこうしてお話できたし、今後は一緒に医療チームと一緒になって、問題に取り組みしょう。まず、今の先生に紹介状をもらってきてもらって、うちに転院をしてきてください。それから、いろいろ治療方針を決めていきましょう。

あなたが恋愛妄想に陥っているとはおもえないし、

パーヴォさんのなさったことは、

いわば美談ですからね。

すばらしいエピソードなんですよ。

いまはお薬を出す必要はないとおもっています」

とおっしゃってくださり、私は大変安心しました。

それからソーシャルワーカーさんとも1時間半にわたってお話をしました。父の精神的な暴力のこと、パーヴォさんとのこと、パーヴォさんをめぐる、2ちゃんねるや5ちゃんねる、Twitterなどの深刻なネット被害のことなどを率直にお話することができました。彼女は大変ショックをうけていましたが、最後にワーカーさんはおっしゃいました。

「いま、かつらぎさんをめぐる問題は、かなり深刻だとおもいます。所持金がないということもひとつですし、お父様との関係がもう限界にきていると思われます。パーヴォさんとのことも、行き詰まりをみせているようですね。ストレスが嵩じて、健康面にまで被害が及んでいるので、早急に手をうたなくてならないけれど、私達にできることといえば、調布市の市役所の福祉課に電話をかけてあげることしかできないのですが、だいじょうぶですか?」

そうやさしくおっしゃってくださったので、私はすなおに「ハイ」とうなずきました。ワーカーの女性のYさん(こちらもYさんでした)も、私の味方になってくださると約束してくださいました。

「かつらぎさん、もうあなたは十分元気にふるまってきました。でも、限界なときは、ちゃんと(SOSの)サインをだしてくださっていいのですよ。かつらぎさん、無理をなさってはいけません。ギブアップしても全然いいのですよ」

そういって、女性のYさんは、さっそく調布市役所の生活福祉課のSさんという女性に電話をしてくださり、私につなげてくださいました。

「一応、Sさんには、今後いまのご実家を出ることも含めてお話しておきます。就職がきまるまで、生活保護ということも念頭においていただいていいですか?」というので、わたしは小さくうなずきました。私はいいました。

「とにかく私としては、安心して、ひとりで、おだやかに夜眠りたいです。何も心配することなく、朝までゆっくり眠りたいです」

Sさんにも電話をするように言われて、私は病院を出たあと、調布市役所の生活福祉課に電話をしました。Sさんがすぐに出てくれました。ただ、Sさんはかなり当惑した様子でした。

「お父様とは、

仲直りされたのではなかったのですか?」

と、Sさんはずいぶん鋭く私を問い詰めました。

「ご実家にいるのがつらいということでしたら、きょうの段階では宿泊所がご用意できます。でも、そこは門限もありますし、規則もうるさいです。外部との連絡はとれませんし、食事も集団生活で一緒にとっていただくことになります。すぐに生活保護の申請がおりるわけではありませんよ」ときびしくおっしゃいました。

「それに、かつらぎさんはお元気です。就職活動はなさらないのですか?MRIだって明日撮影ということは、緊急性がないと医師が判断したと私はおもっていますが」Sさんが電話の向こうで冷たくおっっしゃったので、私はおもわずカッとなりました。

「緊急性があるかないかは、私には医療知識がないのでわかりません。あなた方は福祉のプロだからわかるかもしれませんが、わたしは素人です。そんなことを私が判断できるわけがないのは、あなたもご理解くださってもいいのでは?」

Sさんは「それは失礼しました」と事務的におっしゃいました。

私はますますカッとなりました。

「私だって就職活動はしています。でも、いま、ことごとく落ちている状況なんです。

私は元気にみえるかもしれませんが、実際のところは、私は障害者手帳を持っている身です。もう面談やこのような話し合い、交渉には精神的に疲弊してしまうので、家にかえると、クタクタで倒れてしまう状態なんです。

元気でもなんでもないのです。こういう交渉事や、家を決めることなど、ほんとうなら誰かヘルパーさんを付けていただきたいくらいなんです。でもあなた方は、全部私におしつけています。

福祉のプロであるはずのあなた方が、

障害者の私に甘えているだけなんです

そういいましたら、Sさんは電話の向こうで、「それは大変失礼しました」と冷ややかにおっしゃいました。「では、とりあえずこうしましょう。市役所で、障害福祉課のスタッフと三者で、かつらぎさんの今後の生活を、生活保護にすべきなのか、シェルターなどの緊急避難で対応すべきなのか、相談しましょう。ただ、障害福祉課のスタッフが地区担当ごとになっていまして、その地区担当の人間がきょうは終日外出しているのです。なので、2月4日(月)以降に話し合いということでもいいですか?」

私はぐっとこらえました。パーヴォと一緒に撮った写真を眺めたからです。

※こちらの写真(それに名古屋でパーヴォにいただいたサイン入りの写真)を見せながら、精神神経科のY先生と、ソーシャルワーカーのY先生にお話をしたら、いろいろなことを信じていただけました。

 

写真のパーヴォはニッコリわらって、

「いまはがまんだよ、チコ。がんばって」

とはげましてくれました。

「ハイ、わかりました。ただ、早急にお返事をお願いします。わたしはとても疲労困憊しています。父がまた暴言を吐いて、血圧が200を超えてしまう事態も考えられます。もし容態が急変して、ほんとに脳梗塞になってしまったら、あなた方の責任問題になりますので、そのつもりでいてください」

そう私がいうと、Sさんは初めて「そんなにひどかったのですか?」と驚かれた様子でした。

私が「そうです、だから大学病院まできて検査してもらおうということになったのです。父の対応もひどいので、ソーシャルワーカーさんも出てくる事態になったのです」と言ったら、Sさんは急に慌てて、事の重大さをようやくさとったようでした。

「それは大変失礼しました!

かつらぎさん、

おつらかったのですね・・・」

急にSさんの声が上ずりました。「では早急に連絡を担当者にとります。夕方までにはご連絡いれますので、きょうはお引き取り願えますか」

わたしは落ち着いて「わかりました。いったん実家に帰ります」

そういって受話器をおきました。

これが、生活保護をめぐる、福祉の実態です。生活保護は、実は自治体の本音としては、なかなか出したくありません。でも、粘り強く交渉するしかないのですね。感情的に、決して怒鳴らずに、事態のひっ迫していることを、つとめて冷静に話すしかないのだと、あらためて私は思い知りました。

 

そして、帰宅しました。遅い帰宅になってしまったので、父は大変立腹していました。母がとりなしてくれましたが、父は

「なにぐずぐずしてたんだ!

ばかやろう!」

と怒鳴りちらしました。

いままでの私なら、カッとなって言い返すところでしたが、私は、そんな父を冷静に観察しました。父は、「洗濯物を取り込むんだ!邪魔だ、お前はデブなんだから!」

私が、「パパ、大学病院と市役所に行ってきて、いろいろ話があるのだけど」と冷静にいったのですが、父はこういい放ちました。

「フン、ばかやろう!お前の話なんか、俺は聴きたくもないし、お前がどうくたばろうとしったことじゃないよ!どけ!馬鹿!この役立たずが!」

今までの私なら、そこで父に反発して怒鳴り返すところでしたが、私はそれをすべてメモに書き込みました。Y先生が

「あなたは、なにも悪くないのですよ。あなたはお父様からひどい精神的なDVを受けているのです。DVをしている当事者が言ったことは、すべて記録につけておいてください。そして、後日の証拠にとっておきましょう。」

といったので、それをおもいだして、書いたら、気持ちが冷静になりました。

いずれ、この記録が私をまもってくれることになるでしょう。

そして、ひどく疲れたので、母に事情を落ち着いて話しました。

母は、大変ショックをうけていましたが、「チコちゃんの体調がひどくなるのなら、仕方ないかもしれないわね」とつぶやきました。

私は母には大変申し訳ないと思いながらもこういいました。「もともと、はるちん(前の夫ですね)に暴力を振るわれた時、ここ(実家)には、臨時で長くいるつもりはなく、やってきたから、パパも、私がこんなに長くいるのは計算違いだったのではないかしら。いずれにしても、この家にいるのは、もう限界だと思うので、月曜日以降に市役所と話しあって、方向性を決めるね。あと、精神科の転院を、こちらの大学病院にするので。いずれにしても生活保護をうけるにしても、調布市で受けることになるから、ママから離れるわけではないよ」

そういいましたら、母は泣きましたが、私は、おちついてその様子を眺め、彼女をなぐさめ、それから少し横になって眠りました。

父は大音量でいつもテレビのアクションものを見ているのですが、ますます音量をあげて、「お前ら、すこし黙れ!俺に聞こえないように話せよ!」と怒鳴ったので、私は、「うん、眠るから」といってそのまま寝ました。

いまは、夕食をそこそこに切り上げて、このブログに書いています。

ブログを書いていて、よかったなとおもうことは、本来なら、こうしたメンタルのことや病気のことはオープンにすべきではない、と思っていたのですが、おかげさまでたくさんの方がこのブログをご来訪、応援してくださるので、私の置かれた立場も、発病当時とくらべて、ずいぶんご理解いただけるようになったのかな、という実感がわくことです。

父との軋轢は、どうしていいのか、私にはわかりません・・でも、いままでかいては消し、書いては消してきた、父との対立ですが、父と私はまったく正反対な人生を送ってきたので、親子とはいえ、やはり半分は「他人」のようなものなのだろうと思います。いままでは、いつか父がわかってくれるに違いない、私のやってきたことをほめてくれるに違いないと思いましたが、いま、一連の父の暴力や無視を受けて思うことは、ずっと彼はわたしを憎んでいたし、嫌いだったし、自分とは相いれないものだとして嫌ってきたのだなと思います。

もうその価値観はうごかしようがないし、これ以上父を庇ってもしかたないかと思います。

いつか府中の女性相談センターのスタッフの方が私におっしゃってくださったことを思い出します。

「かつらぎさん、あなたはもう十分、ご両親のために、働いたし、りっぱな業績も残されたし、世間と闘ってこられたのですよ。ご両親、特にお父様がそれに気づいてくださらないのでしたら、もうお父様とお母様のことは、介護保険の範疇で、行政が責任をもって面倒をみますから、かつらぎさんは、もっと自由に人生を謳歌していいと思いますよ。でないと、かつらぎさんご自身の人生が破滅してしまいますし、健康もますます損ねてしまいます。ご自分の人生を、まず大切になさるべきです」

みなさんには、ある意味、かなしい結論となりそうですが、私は、早急に、実家から出て、とりあえず、生活を立て直し、健康を取り戻すことを最優先にすることになりそうです。

・・・パーヴォには、どう説明したものかとかんがえあぐねていましたが、いまこのブログを、彼も読んでくれていますので、あとで落ち着いたところで、パーヴォにメールを入れて、パーヴォが私に対して、どう対応してくれるのか、成り行きを見守りたいと思います。

パーヴォが、私のツイッターをそもそもフォローしなければ、私はクラシック音楽の世界に足を踏み入れることもなかったし、離婚、独立、ストーカー騒ぎ、実家への居候・・・と、こんなに人生が変わることもなかったのです。

「チコ、僕を信じてついてきてほしい」

そう私にいったパーヴォが、私の人生に対して、いくばくかの責任をもってくれていることはわかります。が、具体的に、どう責任をとってくれるのか、実はずっと彼に問いたいところでもありました。

ブログを通じて、私の意見や表現の場が確保されていることに感謝したいと思います。

みなさまのご理解と応援を、心から賜りますように、お願い申し上げます。

 



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