スロバキア、タトラ山脈の麓より

スロバキア人の夫と2人の娘と私の生活
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スロバキアの地名、ドイツ語名

2013-11-27 | ポプラド・タトラ山脈/Poprad・Vysoke Tatry
今日はこんなブログに出会った。ポプラド(ポプラト)のことも紹介されていた。
ブラチスラヴァ便り←こちらをクリック

以前からスロバキアの町や村になぜドイツ語名があるのか気になっていた。
例えば私たちの住むポプラドはDeutschendorf、以前紹介したことのあるケジュマロクはKaesemark、そして首都ブラチスラバはPressburg。まぁ、ドイツ語圏の国が隣り合っているし、かつては多くのドイツ人がいたというのだからドイツ語名がついていてもおかしくはないのかもしれないけれどマルツェルに聞いてもはっきりわからない。それがこのブログに書いてあった。

ついでに自分でも調べてみると、
現代のスロバキアは比較的均一性の高い国民国家としての性格を有している。ただし現在のような民族構成になったのは第二次世界大戦以降である。スロバキアは歴史的経緯から、マジャール人、ドイツ人(ドイツ植民)、ルテニア人(ハンガリー王国に流れ込んだウクライナ人)、ロマ(ジプシー)も多く、入り組んで住んでいた。さらにはユダヤ人のコミュニティも多かった。スロバキアのすべての町村にスロバキア語以外にハンガリー語の名称があり、また多くの都市がドイツ語名を持っているのはこのためである。(ウィキペディア参照)ということだった。
つまりそのまま、ドイツ人(ドイツ植民)が住んでいたのでドイツ語名がついたのね。

そしてふむふむと思ったのが、ブラチスラバ便り、「東スロバキアとドイツ人」にあるこの背景。まさにマルツェルの家族のように思う。
ドイツ系の名字を持ち、祖父母は流暢なドイツ語とハンガリー語を話した。(子供たちに聞かれたくない会話は初めはドイツ語で、子供たちがドイツ語を理解し始めると次はハンガリー語で話していたのだそう)

ドイツ人については最終的に第二次大戦後にそのほとんどが強制的に追放された(ウィキペディア)、まさにこれはかつてはスロバキアに住み、今はドイツにいるマルツェルの親戚たちだ。


ポプラド(写真は数年前のもので、寒くはなってきたけれど、こちらまだ雪は降っていない)

ところで、私の住む東部スロバキア(これまたウィキペディアによると現在は8県で構成されていて、東部スロバキア県というのは廃止されているそうだが未だにこの西部、中部、東部という概念は残っているような…)、私の勝手なイメージでは他の地域からは田舎で貧しく、方言も強い(テレビのインタビューで字幕が付くこともあるほど)地域と思われているように思う。私としてはこの東部に(そして更なる東部に)また特別たくましく、エキゾチックなイメージを持ってしまうのだが。

さて、もうすぐ12時(ついでに現在の外の気温はマイナス7度)。妊婦は夜更かし厳禁。そろそろ寝た方が良いのだが、妊娠後期はどうも不眠症になり、ここのところベッドに入っていてもなかなか寝付けず、やっと眠れたと思ってもまた目が覚め、そこから眠れずトイレに行ったり、水を飲んだり、何度も寝返りを打ちながら教会の鐘の音(時報)を聞いたり、長い夜は退屈でなかなか寝る気分になれないのだ。
今日はブログを更新しながら牛乳でココアを作って飲んだのでこれで少しは眠れるかな。


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