フォーサイト(Foresight)寄稿などをもとに並べたもの。
各項冒頭に掲げられたリードが素晴らしい。
が、「これはいつの時点の論だっけ?」とまずは各項末の初出(掲載誌と年月日)を確かめてから読みたかったので、「えーと、この項の文末はどこまで?」とお尻を確かめるしぐさが不可欠だった。
初出は各項の冒頭記載でもよかった気がする。
著者が三田評論に寄せた執筆ノート
第1章 ウクライナ侵攻の衝撃(「さらなるウクライナ侵攻」前夜の攻防;プーチンの主張する「NATO不拡大約束」とは何だったのか ほか)
第2章 ウクライナ侵攻の変容(武器供与をいかに引き出すか;「安全の保証」問題の再浮上 ほか)
第3章 結束するNATO(NATOの冷戦後は何だったのか;北欧に拡大するNATO―フィンランドとスウェーデンの選択 ほか)
第4章 米欧関係のジレンマ(トランプからバイデンへ;アフガニスタン撤退の試練 ほか)
第5章 戦争のゆくえと日本に突きつけるもの
「はじめに」のP15(著者が情報分析に当たって心がけてきたことの第二)が特に素晴らしい。
ズバリ本質を指摘。
書き写すのも脳がないので(誰かやってくれていればリンクで済むのだがね)、
そこで強引に勝手要約を試みると、
日本国内では国際政治、国際安全保障に関する議論に独特の解釈や傾向、前提が存在するが、そのような日本的バイアスに囚われない国際標準の議論を心がけた。
日本では「戦争は悪い」「戦争反対」という場合の戦争とは日本が仕掛ける戦争が想定されている。特に年配者は、戦争といえば第二次世界大戦であり、日本が侵攻されたらなどとは発想の外だ。
「戦争ができる国になる」ことへの反対という議論も、(第二次大戦のように)日本が外に侵攻するとしか考えることができない人たちが少なくない。
日本が将来直面するかもしれない戦争は、(ロシアに侵攻されたウクライナ同様に)日本への侵攻に対して祖国を守る戦争である可能性が高い。そのようなときに、「戦争ができない国」では困る。
21世紀の日本における安全保障関連の議論の噛み合わなさは、ほとんどが上記の諸点に帰すことができるのではないかね。
いわゆる左巻き諸兄姉の「戦争ができる国にしようとしているアベガーはけしからーん」等々は、「日本政府は外に戦争を仕掛けたいに決まっているので、物理的にそうできないように縛っておく必要がある」という発想に基づくと言う外なく、誰のために議論しているのかが滲みでてきてしまう。
ウクライナ戦争をきっかけとして、鶴岡ご夫妻をはじめとする国際標準に則った国際政治学者の面々が、私生活を犠牲にしてまでこれまでになく一般メディアにも登場して国民向け説明に努めておられるのは、上記の危機感によるものと思う。
(ガラパゴスに徹した、国際政治学と称する議論をもてあそぶ面々も存在する残念さ)