七夕の7日の夜と8日の午前中、スポーツ少年団の講習会に参加しました。
8日の日は、大宮アルディージャのトータルアドバイザー清雲栄純さんがお話をしてくださいました。
「サッカーで17と言ったら何の数字かわかりますか?」
こんな質問から始まりました。
サッカーのルールは全部で17ということだそうです。
でも、これはピッチの上でのルール。
これからの子供達にはピッチの上だけでなく、ピッチの外のことを学んでもらいたい。
そのうえで、サッカーを好きになってもらいたいと話されました。
今はFIFAワールドカップもあり、サッカーを知らない私でも、
清雲さんのお話は面白かったです。面白いというより感動しました。
FIFAには207の国と地域が登録しています。
日本のプロの歴史はまだ浅く、15年だそうです。
1992-1993年
オフト監督のもと、アジア最終予選がドーハで行われました。
清雲さんは、コーチだったそうです。この頃はバブル最盛期で、
1億円もらう選手が10人いたそうです。
オフト監督は最初のキャンプで選手をチェックしたそうです。
とにかくチームの規律を守ってください。と言ったそうですが、
集合時間は守れない、就寝時間も守れない。
「アナタハ プロノ センシュ デスカ?」オフト監督が聞くと、ラモスは怒り出したそうです。
就寝時間を過ぎているのに、カズはマッサージ室でマッサージを受けていました。
「カズ、もう寝る時間です。」と言うと、
「俺は自分の体は自分でコントロールする。」と言ったそうです。
オフト監督は、
「チームの規律を守れない人は帰ってください。Off the Pitchの規律を守ってください。」
と、言い続けたそうです。
ドーハへ行く直前、不動の左サイドバック都並が怪我をしてしまいした。
小指の骨折。医師はドーハでプレーをするのは不可能と診断。
清雲さんは、都並にそれを伝えたそうです。
都並は、「僕はドーハへは行けません。誰か違う選手を探してください。」と言いました。
2人でオフト監督のところに行くと、オフト監督は都並に言いました。
「あなたは戦力です。」
都並はレギュラーの中でただ一人、控え選手たちと一緒に水を運ぶ。ボールを集める。
そして用具を片付けていたそうです。
オフト監督はそれを見ていました。プレーはできなくてもあなたは戦力です。
だからドーハへ連れていく。(ということだと私は思いました^^;。)
出発の日、都並は一番最後にやってきました。キャプテンの柱谷が立ち上がり、
「都並のために戦おう。そして日本のために。」と全員に呼びかけました。
都並は泣いたそうです。
アジア最終予選の最後はイラク戦。勝てばアメリカ行きが決定する。
前半が終了した控え室。
後半は体力が消耗していたゴンを下げる。
オフト監督はホワイトボードに、
「USA.45min。(あと45分でアメリカだ。)」と書いて、コッチを見ろと合図しました。
しかし、選手たちはそれぞれが喋りだし、ボードを見ませんでした。
オフト監督は「こっちを見なさい」と思い切りボードを蹴りました。
それでも選手たちは聞こうとしません。
とうとう、オフト監督はボードを足でぶち抜いてしまったそうです。
やっと選手が監督を見ました。しかし、後半開始のブザーが鳴りました。
「8番に気をつけろ。真ん中に穴ができている。」
これを伝えたかったそうです。(と、私は受け取ったのですが、ちがうかもしれません^^;。)
そして、ドーハの悲劇。
試合終了後、オフト監督は清雲さんに言ったそうです。
「日本は若い選手の育成をしなければならない。」
そう言って、西野(ガンバ?)や山本(ジュビロ?)に託したそうです。
1997-1998年。
清雲さんは、U18ユースの監督をしました。
小野、高原、稲本、中野コウジ、小笠原、加地選手の話をしてくれました。
こちらもとっても面白かったし感動しました。
それから・・・ヒデのことも。しかし、長すぎてしまったのでもう終わりにします^^;。
スポーツを通して、技術以外のことを学ばせてください。
そして社会人としてどうどうと生きられるように子どもたちを育成してください。
という、素晴らしいお話でした。
私は話を聞いても忘れてしまうことが多いので、ブログに書きました。
続きはまた後で、書くかもしれません。私が忘れないためにです。
もしかしたら、話を聞き違えて書いているかもしれませんが、お許しください^^;。
清雲さんは今、大宮アルディージャの選手を育成しています。
面白い選手がたくさんいるそうです。
本当にJリーグも見てみたくなりました
。