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病める心も身体もよみがえる。本来の鍼のびっくり効果‼ ハリで心も身体も元気になった。

「原点に基づく快微鍼 表刺・置鍼法」を土台に、新たな医学・医療の創造をめざす、超高齢チャレンジ鍼灸師の歩み。

鍼灸学校・学生時代のこと・・・2

2016-09-05 09:35:47 | 私の鍼灸師としての道のり。
<私の歩み ⑤>
鍼灸学校・学生時代のこと・・・2
私は、32歳で、鍼灸学校の学生になったが、
家業を継ぐために高校を卒業してすぐに入学した若い人が数人いた。

クラスメートの竹山嬢や、若い人たちと、ほとんど毎日のように
新宿駅までの学校の帰り道にある歌舞伎町の音楽喫茶「ウイーン」で
クラシック音楽を聴きながら
「鍼灸を学ぶ意義」や「鍼灸の未来」
そしてどんな鍼灸師になるべきか

を 熱を込めて語り合った。

そんな中、たまたま誰かの紹介で知り合った
東京薬科大学・生薬学教室の川瀬清先生と意気投合し
毎週何人かで教室を訪れ、
先生を囲んで「弁証法哲学」の勉強をした。

先生の教室の鍼灸師の先輩たちとも知り合い、
「新しい医学を創造しよう」との意気込みで結成された
グループにも参加した。

川瀬先生を通じて

医療に携わる看護師も薬剤師も鍼灸師も保健師もすべて
”医師”と平等
であり、それぞれの専門分野に立脚して協力し合い
働く人の立場にたつ医学・医療の建設を目指す」
ことを目標として結成された「新日本医師協会(新医協)」
を知り、
心から共鳴し、早速加入して
「新医協・鍼灸部会学生班」をスタートさせた。

これは

「医師」を頂点とした「パラメヂカル」などとは全く異質の
当時の民主的風潮の中で生まれた組織である。

鍼灸学校・学生時代のこと・・・1

2016-09-04 16:02:09 | 私の鍼灸師としての道のり。
<私の歩み ④>
鍼灸学校・学生時代のこと・・・1

「右翼先生」のところで、初めてハリを刺し見事にぎっくり腰を治した貴重な体験に感動し、
心を躍らせ期待を込めて 新宿の「鍼灸学校」に入学した。

しかし、当時「鍼灸学校」の存在など、全く一般に知られていなかった。
内容もお粗末そのものであった。

私は、明確な志をもって入学したが、がっかりであった。

定数の半数にも満たぬ上に、更につまらぬ「授業」にうんざりして、
半分以上の学友は退学し、やっと残った寂しいクラス。

しかし、その中に素晴らしい女性がいた。
一人は、私が敬愛する竹山晋一郎先生のお嬢さんであった。
先生は、私が当時すでに、「心の師」と決めていた方である。
先生は、私の生きた体験に基づく「鍼灸への確信」に
「私が鍼灸を生涯の仕事」として取り組む理論的土台を与えてくれた
「漢方医術復興の理論」の著者である

そして、もう一人が
そのお嬢さんの大学時代の同級生、聖子さんである。


竹山先生は、当時月に1度、
聖子さんの下宿近くの世田谷で開業されている愛弟子・青木すみゑ先生のところで
「私塾」を開いておられた。私も塾生に加えて戴いた。

私は、聖子さんの紹介で、青木先生とお会いして、
「漢方医術」への熱い思いにすっかり圧倒され、弟子入りしたいと申し出た。
しかし「私はその器ではない」と断られてしまった。でも、私は諦めなかった。

先ず、アルバイト先の「右翼先生」のところを止め、
青木先生の近くに「部屋」を借り転居してから、再び先生を訪ね
「どうしても弟子になりたくて移転してしまった」と決意の強さを訴えた。


新しい土地で生活の見通しは、全くなかった。
しかし、先生は凄いことを提案して下さった。

先生は鍼灸とマッサージの資格をお持ちなので
「鍼灸専門・青木治療所」に「マッサージ部」を開設して下さるから、
聖子さんと二人で患者を開拓しなさい、先生は一切援助しないが、
すべての収入は二人のものにしなさいと言うのである。


当時はまだ、「弟子」という形で無資格者の仕事があり、
資格者で6割歩合、無資格者で3割歩合の収入が常識であった。
私と聖子さんは、10割の収入であった!


それから、二人で「青木治療所・出張マッサージ部」>のチラシを作り、
一軒一軒近所の ポストに配って歩いた。

それが、結構効をそうして、マッサージの依頼が増え、
なんとか学生生活を続けられるようになった。

当時、絶頂にあった俳優の森繁久弥さんは私の上得意で、
週2回ぐらいのマッサージのあと、私の「鍼」の練習台になって下さった。
治療のあといつも、やさしい奥さんが、当時出始めた「インスタント・ラーメン」に
野菜を盛り込んでご馳走して下さった。
あの温かいお腹にしみこんだ味は今でも忘れない!
 

学生時代の練習台森繁先生のおかげも大きな力となり
何とか1人前になって、いろいろと業界の仕事にも携わりその業績で
私が71歳の年(平成14年)に鍼灸師として全国でただ一人、
その年の春の「叙勲」を受けたことを
ご報告できなかったことは、心残りであった。








85歳鍼灸師の私の今は・・・・・

2016-08-12 18:26:04 | 私の鍼灸師としての道のり。
私は臨床歴50年の85歳鍼灸師です

開業以来10年前まで、
誠実に患者の病苦に寄り添い、癒し和らげる日常の仕事の傍ら、
鍼灸師会や鍼灸学会の役員を勤め、業界や学会の発展に尽力してきました


健康保険の問題では、
鍼灸師の施術を受ける患者の権利を主張して戦った国に対する「行政訴訟」の先頭に立ちながら、
きわめて厳しく不支給が多発した「支給要件」の改善を勝ち取り、取り扱いを大きく前進させました。

労災適用運動では、
東京・大阪裁判の勝利をめざす全国の運動に呼応して、
地方で患者会を組織して活動しました。

血を動かす刺絡療法の合法性を獲得する業権拡大の取り組みでは、
「日本刺絡鍼法学会」の設立にかかわりました。

また、日本鍼灸学会・栃木地方会」の事務局長や会長として取り組んだ、
独協医科大学の「解剖学実習室での実物学習」や、
大学病院脳神経外科での金彪教授による「神経生理学」や「整形外科の神経学的基礎」の勉強会は、
私の臨床に生きています

そして、
「厚生大臣賞」「労働大臣賞」を受け、平成14年に国の「叙勲」を受け、
業界・学界の仕事に区切りをつけました。

その後、
すべての業界・学界運動から離れ、鍼灸の臨床一筋に専念してきたのです。

現在、
成功と失敗の積み重ねで築かれた50年の臨床経験を整理しまとめながら、
鍼灸医術の本質・原則の探求に情熱を燃やしています。
そして今、
55年前の鍼灸学生の頃に「漢方医術復興運動」の最先頭に立ち、
「古典に基づく鍼灸」を唱道された丸山昌朗先生・竹山晉一郎先生のご薫陶を振り返り、
先生たちの思想に導かれながら、
私独自の「万能快鍼法」の学と術とを確立
新たな鍼灸学への道を拓くことを目標に、
研鑽に励む楽しい日々を過ごしています。

これの達成は、
患者を中心に据えた新しい日本の医学・医療を創造する”かなめ”となる
と確信しているからです。


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中川求真堂



忘れえぬ「初めての一鍼」

2016-06-25 00:01:58 | 私の鍼灸師としての道のり。
                                  <私の歩み ➂>
忘れえぬ「初めての一鍼」

新しい修行の場である「右翼先生の指圧治療所」に移転し落ち着いたその日に
早速「腰の激痛で動けないから医療に来てほしい」という電話があり
私が行くことになりました。

患者さん宅に着いてみると、かなりの重症で、「鍼をしてほしい」と言われ
私はできないので、明日先生に来てもらうようにしますと、
軽くあん摩をして帰り、先生にその旨を話しました。

すると先生は、
私にこれから、ハリの刺し方を教えるから、明日も行けといい
私が、ハリに触ったこともないから無理だという言い分を聞きそうもありません。

それで、
一晩かかりで、練習し、ハリを「管」に入れる方法を学び、
果物缶詰の空き缶に炒り糠を詰めたハリの練習台で、刺し方を覚えました。

翌日,昨日はできないといった私が治療しますというので、
訝りながらうつ伏せになってくれました。

下手なたどたどしい手つきを見られないように挿管して刺そうとして
一瞬あれっと冷や汗をかいてしまいました。
刺す練習に必死で、「どこにどう刺すか」は全然教えてもらえなかったのです。

仕方なく覚悟を決めて、あちこち軽く押してみました。
すると、突然「痛い!」と身をよじりました。

しめた、と慣れぬ手つきで挿管して、恐る恐る管を立て、ポンポンと頭を叩いて
管を外し、さらに深く鍼を差し込もうとした瞬間
うーんと唸るような声を出したので、ビックリしてハリを急いで抜きまいた。

すると
「気持ちよかったと言いながら患者さんはすぐに立ち上がり
「治った!」と嬉しそうに叫びました・・・・・


これが私の生まれて初めて人に刺した
「忘れえぬ初めての一鍼」でした。

この初体験が「私のハリの威力への確信」の土台となっています。

これは、帰って勉強したら「陽関」という腰痛には多く使われる「ツボ」の一つでした。
しかし、もしあの時いろいろと勉強していたら、あんなに見事に治療できたかどうかわかりません。

あん摩の先生が教えて下さった「患者から学べ」ということの大切さをしっかりと
身につけさせていただいた私の「ハリ医術への旅たち」でありました。



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住み込みあん摩修行で学んだこと

2016-06-24 23:59:28 | 私の鍼灸師としての道のり。
                                       <私の歩み ②>

住み込みあんま修行で学んだこと

「住み込みあん摩」は全く未知の世界でした。

先ず、住み込んだその日の夜。住み込みの先輩から、一通りの「型」の手ほどきを受け、
次の日は早速「仕事」に出されました。

当然、電話でクレームがつく始末。
「あんな素人みたいなの寄越すな」と怒鳴りこまれました。

それでも、毎日「仕事」に出され続けました。
無資格の違法行為であり、こんなことは今日では想像もできませんが、当時は当たり前のように
行われていました。

しかし、私は、悔しさをバネに成長できたと思います。
「全くの新米であり、志をもって盲人の先生に学んでいる」ことを
率直にお客さんに告げて、お客の身体自身に学ばせてほしいとお願いしながら、
毎日10人以上の「特訓」を続けたのです。」


3か月も過ぎると、「指名」を受けるようになり、いささか自信もついてきました。
しかし、先生は全然ご自分の治療は見せてくれません。

私は「鍼灸」が学びたい、志を忘れまい、と疲れた身体を励ましながら「鍼灸の本」を読んでいると
「今、本を読んでも意味がない、あん摩の実践の数を増やすことだけ考えろ」と叱られ、
本を片付けさせられました。

半年も経過し「鍼灸学校受験・入学」の日が近づくと、心がはやってきて
「鍼」見せても触らせても先生にいくらか「嫌気」が出てきたのでした。


そんな時、住み込みの同僚から、元教育者で「指圧治療所」を開きながら、
鍼灸学校で学んでいるという彼の同級生を紹介されました。


右翼思想の持ち主だそうですが、左翼の私と鍼灸への志ですっかり意気投合し、
恩義を受けた先生ご一家の温情を振りきって」夜逃げ」同様の状態で、
新たな修行の場へ移ったのです。

この最初の身を削るような思いで「あん摩」を学んだことが
新しい場で「本当に役に立つ」ことになり、盲人の先生の教えの深さを
しっかりと身に染みて感じることができました。




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