<私の歩み ⑤>
鍼灸学校・学生時代のこと・・・2
私は、32歳で、鍼灸学校の学生になったが、
家業を継ぐために高校を卒業してすぐに入学した若い人が数人いた。
クラスメートの竹山嬢や、若い人たちと、ほとんど毎日のように
新宿駅までの学校の帰り道にある歌舞伎町の音楽喫茶「ウイーン」で
クラシック音楽を聴きながら
「鍼灸を学ぶ意義」や「鍼灸の未来」
そしてどんな鍼灸師になるべきか
を 熱を込めて語り合った。
そんな中、たまたま誰かの紹介で知り合った
東京薬科大学・生薬学教室の川瀬清先生と意気投合し
毎週何人かで教室を訪れ、
先生を囲んで「弁証法哲学」の勉強をした。
先生の教室の鍼灸師の先輩たちとも知り合い、
「新しい医学を創造しよう」との意気込みで結成された
グループにも参加した。
川瀬先生を通じて
「医療に携わる看護師も薬剤師も鍼灸師も保健師もすべて
”医師”と平等であり、それぞれの専門分野に立脚して協力し合い
働く人の立場にたつ医学・医療の建設を目指す」
ことを目標として結成された「新日本医師協会(新医協)」を知り、
心から共鳴し、早速加入して
「新医協・鍼灸部会学生班」をスタートさせた。
これは
「医師」を頂点とした「パラメヂカル」などとは全く異質の
当時の民主的風潮の中で生まれた組織である。
鍼灸学校・学生時代のこと・・・2
私は、32歳で、鍼灸学校の学生になったが、
家業を継ぐために高校を卒業してすぐに入学した若い人が数人いた。
クラスメートの竹山嬢や、若い人たちと、ほとんど毎日のように
新宿駅までの学校の帰り道にある歌舞伎町の音楽喫茶「ウイーン」で
クラシック音楽を聴きながら
「鍼灸を学ぶ意義」や「鍼灸の未来」
そしてどんな鍼灸師になるべきか
を 熱を込めて語り合った。
そんな中、たまたま誰かの紹介で知り合った
東京薬科大学・生薬学教室の川瀬清先生と意気投合し
毎週何人かで教室を訪れ、
先生を囲んで「弁証法哲学」の勉強をした。
先生の教室の鍼灸師の先輩たちとも知り合い、
「新しい医学を創造しよう」との意気込みで結成された
グループにも参加した。
川瀬先生を通じて
「医療に携わる看護師も薬剤師も鍼灸師も保健師もすべて
”医師”と平等であり、それぞれの専門分野に立脚して協力し合い
働く人の立場にたつ医学・医療の建設を目指す」
ことを目標として結成された「新日本医師協会(新医協)」を知り、
心から共鳴し、早速加入して
「新医協・鍼灸部会学生班」をスタートさせた。
これは
「医師」を頂点とした「パラメヂカル」などとは全く異質の
当時の民主的風潮の中で生まれた組織である。