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病める心も身体もよみがえる。本来の鍼のびっくり効果‼ ハリで心も身体も元気になった。

「原点に基づく快微鍼 表刺・置鍼法」を土台に、新たな医学・医療の創造をめざす、超高齢チャレンジ鍼灸師の歩み。

新たな「鍼灸学」の建設をめざして生きる!g

2017-09-17 19:21:15 | 私の鍼灸師としての道のり。
新たな「鍼灸学」の土台は、
それを支える治療実践。


成功と失敗の中の修練の
積み重ねで鍛える技能を
身につけることで
「効果」を高めるしかない。


「ツボ」への刺し方は前に書いたが
指で針先を軽く固定しながら素直にハリがぶれないように
表皮に沿って送り込む。
そして「ハリを刺したことを忘れて
患者がもう抜いて欲しいと言うまで
置鍼しておく。

これが「ハリの原典」である
「九鍼十二原第一」に記述され
現代に残された内容である。 


「効果」を生み出す刺し方は
自己修練しかないのである。


ここにある「直刺」を
深く縦に刺し「感じるように」刺すと
誤読したことが
古来すべての「鍼灸学」であった。


iタウンページ
ハリと灸 中川求真堂
☎ 028-633-1866 

職業病への取り組み

2016-09-10 16:03:06 | 私の鍼灸師としての道のり。
<私の歩み ⑨>
職業病への取り組み
私が鍼灸学生時代に、実習の場であった東京の「鉄砲州診療所」(私の歩み・・⑥)には、
当時職業病の患者が詰めかけていた。
キーパンチャ、タイピスト、銀行・商社の事務員、電話交換手、
新聞労働者、航空整備士、印刷労働者、郵便配達員など多彩であった。


当時は高度経済成長路線を突き進んだ時代で、
「頚腕障害」「腰痛」などの職業疲労性の疾患が多発していたのである。

診療所では、
こうした患者の「労災認定」への取り組みと
鍼灸患者組織作りとを進めていた。

私は、帰郷したので、
開業の地でこの活動をはじめようと考えていた。

そんなある日、
労金労働組合の幹部が「頚腕障害」で治療に見えたので、
私の考えを話すと、
彼は労金の中にも、症状を訴える人は多いから
取り組んで見る意義はあると言ってくれた。

その頃、ちょうど同じ症状で治療に通っている、
無組織の職場で働く結婚まじかの女性がいた。

仕事はきついけれど続けたいらしいが、
「頚腕障害」も簡単には治らないので、きちんと治療を継続するために
「労災申請」をしてみないかと持ちかけてみた。
すると、パソコン・プログラマーの恋人が乗り気になって
応援するからやってみよう・・・ということになった。


その支援行動の中で
地域の「職業病患者会」が結成された。


東京の大きな「労災職業病と闘う全国集会」に参加したり
専門の医師や弁護士を招いて、勉強会なども何度も行った。

まだ「鍼灸の労災治療」には
正式な「適用基準」が確立されていない頃であったが
労働基準監督署の中にも仲間ができて、その尽力もあり
彼女は「労災適用」が認められた!
そして、その後何人かが労災適用を勝ち取った。

私の「待合室」は
最初はお年寄りに混じって
「お若いのにどこが悪くて”はりきゅう"などやるの?」などと言われて
恥ずかしそうだった若い患者たちが増えだして
活気に溢れた集会場になっていった。

その頃行われた
東京・大阪などでの鍼灸の労災適用裁判への支援活動にも
積極的に取り組んだ。
そして「大阪裁判」での勝利の後に、明確な「基準」が定められ

「鍼灸の労災適用」は正式なルートに乗るようになった。





残念な「自宅開業」であった。

2016-09-09 16:04:08 | 私の鍼灸師としての道のり。
<私の歩み ⑧>
残念な「自宅開業」であった。
しかし、
これでじっくりと治療と学問に取り組めることになると思った。

私の「漢方」への目を開いてくれた湯本求真先生にちなんで
治療所の名称を「ハリと灸・中川求真堂」とした。
 
湯本先生は、漢方が没落していった明治の末期に、
敢然と立ち上がって漢方復活の叫び声をあげた
先駆者和田啓十郎先生(「医界の鉄椎」の著者)の跡を継いで、
今日の漢方医学界の基礎を築かれたパイオニアであった。

私は、漢方医学の一翼を占める「鍼灸学」に打ち込むことで、
若き日に心の奥に培われた「変革への志」を実現しようとの決意を
更に深めて「民主治療所」の失敗から立ち直る道を探り始めた


新しい治療所では、恩師・丸山昌朗先生の教えどおり
どんなに経営が苦しくても原則として往療は行わず、
暇なときは勉強して患者を待った。


しかしあるとき、
私が19歳の「浪人生」だった頃付き合いのあった農民の方が治療に見えて、
地域での医療啓蒙活動に取り組んで見ないかと相談された。

鍼灸師になる10年前に
若気の至りで「大学受験の勉強」の傍ら
生かじりの「社会思想」で日本の未来、日本の農村民主化などを
公民館などで熱を込めて説いて回った時の地域の農家の人たちが
今度は、私の鍼灸の話や治療のために集まってくれた。

毎週、あちこちの農家で、楽しい集いが続いた。
その噂が県南にも飛び、月一度は県南にも行くようになった。

そんなことが数年続いたが、それからは重点が「職業病」へ
移っていった。




私は医師と共同の場で開業したかった

2016-09-08 06:06:49 | 私の鍼灸師としての道のり。
<私の歩み ⑦> 
私は医師と共同の場で開業したかった。

鍼灸学校を卒業し、鍼灸師の資格を取り帰郷した私は、
「鉄砲州診療所」のような医師と鍼灸師の共同の場を民主医療機関として
建設しようと志し、地域の協力者を集めて「開設委員会」を組織した。

張り切って資金集めに奔走しながら、同志となる医師を探したが
思うようにはいかなかった。

駆け出しの鍼灸師である私とともに
新しい医学・医療を築こうなどと考える奇特な医師など
存在するはずもなく、民主医療機関連合会(民医連)に依頼しても
全く反応はなかった。

当時、漢方・鍼灸などは、ほとんどの医師には、
「効果がある」と考えられてもいなかったし、
ことに鍼灸は歯牙にもかけられず、
医療の一端を担っているなどとは思われていなかった。

それで、医師との共同の治療の場を建設するのを諦めて
1966年、地域の人たちに支えられて鍼灸専門の「民主治療所」を
スタート
させた。

「開業の集い」には、
地域の老人会の役員や地域の社会活動家などが参加し、
東京からは木下繁太郎先生が駆けつけてくれ、
地元の県鍼灸師会長も顔を出してくださった。

まずまずの出足だった。

しかし、
少しづつ信頼してくれる患者は増えてはきていたが、
期待したほどには來患数はあがらず、最初から経営はピンチ続きだった。

お金をかけて改築した借家の家賃の支払いや
手伝いの鍼灸師の給料の支払いの資金繰りに追われ、
赤字は増えるばかりであった。

結局、1年も維持できず、出資者に迷惑のかけっぱなしで
廃止することになってしまった。

鍼灸学校・学生時代のこと・・・3

2016-09-07 19:28:58 | 私の鍼灸師としての道のり。
<私の歩み ⑥>
鍼灸学校・学生時代のこと・・・3

新医協を通じて、
新しい「人民中国」建設当時の中国を訪れ、
そこでの「中国医学と西洋医学の協同」の現状と実績を見てきて、
全国の医療機関に先駆け、既に漢方薬を治療に取り入れていた
東京八丁堀にある「鉄砲州診療所」の木下繁太郎先生と出会い、
そこに全国初の医療機関での「鍼灸治療の場」を建設することになった。

治療は、私の先輩である東京薬科大の川瀬先生の生薬学教室の鍼灸師のグループが担当し、
私たち学生班には、かけがえのない臨床研修の場となった。


印象に残った例では
「急性虫垂炎」で担ぎこまれた患者に、
すぐに「手術」に移行できる体制を整えた上で、鍼灸治療し、
足三里1本の鍼で、完治してしまったことがある。

先輩の技術と鍼灸治療の凄さに感動した。
これは、
当時の「鍼灸学校」では、絶対に学ぶことのできない体験であった。

当時は、まだ現代医療の現場で、
医師と鍼灸師が
「平等の立場で協同して」患者を治療することは
なかったので、全国の民主医療機関の話題になり、
何か所かで取り組む契機となった。

若い駆け出しの鍼灸師や学生たちに任せておいいては不安だという
当時の大家たちの親心の結晶が
「日本民族医学研究所」の発足であった。

ここには、
今は亡き新医協会長・久保全雄先生、竹山晋一郎先生、丸山昌朗先生、
工藤訓正先生、木下繁太郎先生、小野文恵先生、
そして、今なお悠々自適の長沢元夫先生、川瀬清先生など
当時の日本の先進的な漢方・鍼灸界を代表する
東京在住の錚錚たるメンバーが参加された。

鍼灸学校3年生の私と久子さんの二人で
事務局の重責を担わせていただいたことと、
同じ時期、
新医協の「労働衛生学」の分野から
職業病に取り組んでいた医師たちとの、
鉄砲州診療所・職業病患者会活動への協力は
私の今日を築く糧となった。