コマンダンシア(司令部)までは、山の入り口から片道約2時間の道のりである。急な山道をジープで登り切ったところからスタートするので、まるっきりの“登山”というわけではなく、登ったり下ったりしながら森の奥に分け入っていくトレッキングである。
登り詰めで2時間だったら、途中でリタイヤしていただろう。
目の前に広がるキューバ革命の記録映画の風景。
チェが、フィデルが、セリア・サンチェスが、幾度となく往復した道。
チェ・・・あなたにちょっとでも近づきたくて、私、とうとうここまで来ちゃったよ。
何だか、身体が軽いわ。チェをすぐ近くに感じてるから?・・・
そんな感慨に浸っていると、前を歩く仲間から現実に引き戻す声が。
「ロバのウンコ!レアだよっ!」
ひぃぃ
先頭を歩いている専門ガイドのラウルさんがときどき歩を止めて、群生する植物や動物を教えてくれる。
この辺には、指先を近づけると魚の口のように開く花や、逆から撫でると大怪我をするという危険な茎を持った植物など、珍しい高山植物が群生している。
「この赤い花は何ていう花?」と聞くと、「それはとても難しい名前の花なんだ。スペイン語では・・・(聞き取り不可)・・・」
神妙な顔で聞いている私に、ラウルさんは「この辺ではブーゲンビリアとも言うけどね」と言って、いたずらっぽく笑いかけた。
彼、ラウルさんと、私たちのスルーガイド氏、中年キューバ人コンビは凄かった。
無言で黙々と歩く日本人を引き連れて、往復、喋り通しである。
一体、どこにそんな体力があるんだ。
仲間の1人が、「アメリカがキューバを攻撃できない理由、わかる気がするなぁ」とつぶやいた。
ラウルさんは、革命軍ゲリラを物心両面で支えたシエラ・マエストラの農民の子弟で、彼の父親はときどきギターを弾いてゲリラたちを励ましたそうだ。
また、彼の名前はフィデルの弟ラウルからとったもので、兄弟はみんな、フィデル、エルネスト、カミロといった革命戦士の名前がつけられているという。
ゲリラ兵士と農民の固い結びつきがキューバ革命を成功に導いたことはよく知られているが、彼に出会って、そのことをより深く理解することができた。
シエラ・マエストラの農民たちは、革命後、ハバナに住むことを勧められたが、ここに残ることを選んだそうだ。それで、この栄光の地では今も農業が営まれている。
だから、ロバのウンコに度々出会うのも仕方がない。
美しきキューバ革命史の副産物・・・だから・・・
途中、農民の小屋を利用した小さな展示館があり、ゲリラ兵士が使った武器やラジオ放送(革命軍は山中でラジオ局「ラジオ・レベルデ」を開設して国内に向けて放送を流していた)の機材が置かれている。写真は「7.26運動」の腕章とシャツ。
7.26運動=Movimiento del 26 de julio
1953年7月26日、フィデルは100名余りの仲間とともにサンティアゴのモンカダ兵営を襲撃した。このときフィデル・カストロ27才。
襲撃は失敗に終わり多くの仲間が虐殺される中、フィデルは奇跡的に死を免れ、裁判の末、禁固刑に処された。恩赦で釈放されるも命の危険に迫られメキシコに亡命、1956年12月2日、グランマ号でキューバ上陸、そして、ここシエラ・マエストラにゲリラ拠点を構え、バチスタ独裁打倒の闘いを継続する。
この闘いは「7月26日運動」と名付けられ、革命戦士たちの襟章や腕章として残っている。
この赤と黒の徽章は、革命博物館などでよく目にするが、その度にフィデル・カストロという人物の不屈の精神に深く感じ入ってしまう。
ところで、半年前、私たちの仲間が先遣隊としてここを訪れたときは、この辺りは撮影禁止で、山道の入り口でカメラを預けなければならなかったそうだが、2ヶ月前に方針が変わり、5ペソ(約600円)を支払えば撮影できるようになった。
このことに複雑な思いを抱いた仲間もいたが、決して豊かではないキューバに、清貧や神聖さばかりを求めるのは酷だと思う。
一方、そうしたものを求めたくなるのも、キューバという国の魅力なのだと思う。