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3-7-2 二人の軍師

2018-08-22 17:20:11 | 世界史
『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年

7 権謀と術数

2 二人の軍師

 さて魏の国においては、武侯のあとをうけて恵王が立つ。この恵王につかえて将軍となったのが、龐涓(ほうけん)であった。
 龐涓は、鬼谷子(きこくし)について兵法を学んだ。
 鬼谷子に関しては、いかなる人物なのか、その出身も正しい姓名も、まったくわからない。
 山のなかに隠棲して学を講じ、その門下から多くの人材が輩出したという。
 龐涓もその一人であったし、同門に孫臏(そんひん)もいた。
 軍略家としての実力は、孫臏のほうがすぐれていた。
 もとより龐涓も、自分の才能が孫臏よりおとることを知っている。
 そこで、ひそかに使いをやって、臏をまねいた。
 孫臏が魏にくると、龐涓はさまざまに画策し、これを無実の罪におとしいれた。
 かくて孫臏が受けた刑は、両足の筋を切られ、額に黥(いれずみ)をほどこされる、というものであった。
 刑余の片輪者となったからには、おもてだって人に会うこともできない。
 たまたま斉の国から使者がやってきた。
 孫臏は、ひそかに斉の使者と会って、身の上のことを語った。
 使者は孫臏の人物をみぬいた。
 そこで帰国するにあたり、こっそり自分の車に孫臏をのせて、斉につれていった。
 斉の将軍の田忌(でんき)も、孫臏の才能をみとめ、賓客として待遇した。
 田忌は、しばしば斉の公子たちと競馬の賭けをして遊んだ。
 孫臏がみるに、馬には上中下の等級があるが、速力では大差がない。
 そこで田忌にいった。「うんとお睹けなさい。かならずあなたを勝たしてさしあげましょう」。
 このことばを田忌は信じ、王や公子たちと、千金を賭けて勝負することにした。
 馬場にのぞみ、いよいよ馬をだす間際になって、孫臏はいった。
 「あなたの下(げ)の馬を、相手の上(じょう)の馬と取り組ませなさい。
 あなたの上の馬は相手の中の馬に、あなたの中の馬は相手の下の馬に、それぞれ取り組ませるのです」。
 こうして三組の競馬がおわると、田忌は二勝一敗となって、王の千金を獲得した。
 田忌は、威王に孫臏を推挙した。威王は兵法について問うた後、孫臏を軍師に取りたてた。
 さて威王の二十六年(前三五四)、魏の恵王は大軍を発して趙を攻め、その都の邯鄲(かんたん)を囲んだ。
 趙は斉に救援を求めた。そこで威王は、田忌を将軍とし、孫臏を軍師に任じて、趙の救援におもむかせた。
 足の不自由な孫臏は、輜車(ししゃ=ホロ付の車で非戦闘員の乗用)のなかで、はかりごとをめぐらした。
 いま魏の精鋭は、かならずや国外に出つくし、国内に残るのは老弱のものばかりであろう。
 されば斉の甲は魏の都の大梁に急行し、街路に布陣して、魏の虚をつくがよい。
 魏軍はかならず趙をすてて、自衛を講ずるであろう。この作戦を、田忌は採用した。
 魏の軍は、はたして邯鄲を去り、本国に舞いもどった。
 斉の軍は、これを桂陵でむかえ討ち、大いに破った。
 魏の将軍は、ほかならぬ龐涓(ほうけん)であった。
 それから十三年たった。すでに威王は死し、宣王の二年(前三四一)となっている。
 こんどは魏と趙が連盟して、韓を攻めた。
 韓は危急を斉につげ、斉は田忌を将軍として、またも魏の都に直進した。
 これを聞いて魏の将軍の龐涓は、韓を去り、斉にむかった。
 しかし斉の軍はすでに国境をこえ、魏の領内にはいっている。
 ここで軍師の孫臏は兵法を説いていった。
 「百里の遠きを、利につられておもむく者は、上将をうしなう。
 五十里を利につられておもむく者は、軍のなかばが到達するのみ」。
 この兵法を逆に利用しよう、というのであった。
 魏の地にはいると、斉軍はまず十万の竈(かまど)をつくらせたが、翌日は五万にへらし、その翌日は三万にへらした。
 龐涓は、斉軍を迫うこと三日、大いに喜んでいった。
 「わが地に入ること三日にして、斉軍の士卒は過半が逃亡したぞ」。
 そこで歩兵を捨て、軽装精鋭の騎兵ばかりをひきい、二日の行程を一日で急迫した。
 孫臏は相手の行程を計算し、まさしく日没には馬陵に達するものと推定した。
 馬陵は道がせまく、かたわらに険阻が多く、伏兵をおくには絶好の地である。
 そこで大木の幹を白くけずり、「龐涓(ほうけん)、この木の下に死せん」と書いた。
 かつ、弓の上手な者をえらび、一万の弩(いしゆみ)をそなえて、道をはさんで伏せさせた。
 あらかじめ命じて、いわく「夜になって、火の光のあがるのを見たならば、いっせいに矢を放て」。
 日が暮れて、はたして龐涓は、白くけずった大木の下についた。白い幹に字が書いてある。
 火打ち石をたたいて、火をつけた。その字を読みだすやいなや、斉軍の一万の弩がいっせいに放たれた。
 魏軍は大混乱におちいり、あいついで倒れた。さしもの龐涓も、おのれの知恵が窮し、軍の敗れたことを知った。
 「ついに豎子(じゅんし=あの野郎)をして名をなさしめたか」。
 そのまま龐涓(ほうけん)は捕らわれた。別の説によると龐涓は、みずから首をはねて死んだ、ともいう。
 いずれにせよ、斉は勝ちに乗じて魏軍を全滅させ、太子も捕らえて帰った。
 この大勝によって、孫臏の名は天下にあらわれ、その兵法は長く後世に伝えられることとなった。


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