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リトアニアのその後 

2019-05-27 03:47:55 | 聖カジミロ
『リトアニアの英雄 聖カジミロ』アロイジオ・デルコル神父著

◆11-3、その後

 事実、プロテスタントは、聖カジミロがかたく守っていた信仰を否定していた。それは、ご聖体におけるキリストの真の現存、マリァが神の母であり、無原罪のおんやどりであること、マリアをはじめ聖人たちに対する尊敬、救いに善業とつぐないの必要なことなどである。

 その結果として、プロテスタント側では、聖カジミロが、あれほど大事にしていた修道生活と、これにもとづく修道生活が無意味なものとして捨てられてしまった。

 ドイツでは、聖カジミロが帰天する1年前に、ルーテルが生まれていた。教皇レオ10世が聖カジミロを列聖したその同じ年に、すなわち、1521年に、ル~テルは、決定的にカトリック教会をはなれ、これによって、どれほどの大きな損害を教会に加えたことだろう。

 ところで、聖カジミロの兄弟たちと、かれらが治めていた国々は、カトリックの信仰をりっぱに守りぬいていたが、姉妹たちがとついで女王となったドイツの国々はすっかりプロテスタント化してしまった。

聖カジミロのおいにあたるアルベルト・ホヘンゾレルンは、ドイツ騎士修道会の総長になっていたが、もろくもルーテルの教えに屈した。かれは、修道誓願をうらぎって結婚し、小リトアニアをプロテスタント化してしまった。その結果、小リトアニアのある部分は、長い間プロテスタントになった。

 これとは対照的に、大リトアニアでは、貴族の大部分がプロテスタントになっても、一般国民は、かたく力トリックの信仰を守りぬいていた。プロテスタントの圧迫がいちばん激しかったときでさえ、リトアニアの国民は信仰を勇しく守った。こうしてビーリニュスでは、プロテスタントは、カトリックの聖堂を一つも占領することができなかったのである。ビーリニュスの司教座大聖堂にあった聖カジミロの墓に巡礼する人はたえることがなかった。



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