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9-7-4 税金の雨

2024-07-06 05:35:48 | 世界史

(挿絵:髭に対しても税を取る税吏)

『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
7 西欧に窓を開くピョートル大帝の大改革
4 税金の雨

 不断の戦争と、常備軍の増大によって、軍事費が莫大な額にのぼり、国庫は底をつき、財源も枯渇(こかつ)した。
 そこでピョートルはさまざまな新税を考案させた。
 そこで「利得発案者(プリブイリシチク)」という新しい専門家が登場することになった。
 国家に利得をもたらす方法をあみだすことが、彼らの職務であり、名案をだしたものには褒賞(ほうしょう)があたえられ、またそれが出世のいとぐちにもなった。
 たとえば、クルバートフという男は、もと農奴であったが、主人にしたがって外国へ行ったとき、印紙税のことを知った。
 帰国すると匿名(とくめい)の手紙でピョートルに「鷲(わし)」印紙を提案し、その結果、年三十万ルーブルの利得を国庫にもたらしたということで商工局長にばってきされ、さらにアルハングリスクの副知事にまでなったが、ついに官金消費の罪をおかして死んだ。
 そのほか、おなじような例は、農奴からモスクワの副知事になったエルショフ、総監察になったネムチェフなど、数かぎりなくあったが、彼らはいずれも眼を皿のようにして、これらの税制の穴をさがし、つぎからつぎへと、これをうめる新種を考案していった……。
 「こわれた篩(ふるい)から落ちるように」、納税者である国民にふりかかってきた新税は、なんと土地税、枡目(ますめ)税、重量税、ショ-ル税、帽子税、枕税、大鎌税、皮革税、蜜蜂税、風呂税、洗濯税、水税、煙突税、西瓜(すいか)税、胡瓜(きゅうり)税、クルミ税……で、ついに課税のたねがつきると、こんどは職業や宗教、思想にまで税金がつけられた。
 たとえば分離派(改革された国教にしたがわない教徒たち)には二倍の税金をといったぐあいである。
 税金についで、ピョートルの政府が考えた収入増大策は、専売制度である。
 これまでの樹脂、泥炭、大黄(だいおう)、膠(にかわ)などのほかに、新たに、塩、ウォッカ、タバコ、タール、魚油、トランプ、サイ
コロ、将棋、それに棺桶までが国家の専売になった。
 ところで、ピョートル改革のさまたげになったものに、貴族や官吏の汚職がある。
 彼らの貪欲は手段をえらばなかった。当時のうわさによると、百ルーブルの税金のうち、国庫にはいるのはせいぜい三十ルーブルで、あとはすべて官吏が着服したといわれる。
 たとえば、就職したときには「着のみ着のまま」であった書記が、四~五年もたつと、石造りのりっぱな屋敷をたてるといったぐあいであった。
 そこでピョートルによってうちたてられ、絶対主義の中核であるロシアの官僚機構について一言しよう。
 そのさい、ピョートルが模範としたのはスエーデンやドイツの制度であった。
 これまでの貴族会議や全国会議は自然消滅となり、これに代わって元老院(セナート)がおかれ、これははじめツァーリの権限を代行したが、のちにはたんなる立法の協賛機関となった。
 また国政を監視するため全国に監察をおいた。彼らは酷薄をきわめ、密告を奨励し、政府の要人や上官といえども容赦せずに、絞首台やシベリアへおくった。
 ピョートル時代の最高の官僚は検事総長で、「ツァーリの眼のごとし」といわれ、国家行政全般を監視する役であった。
 中央政府の機構も改革され、イワン雷帝以来の官署庁もスエーデンの参議会(コレーギア)制にかえられた。
 この制度研究のためにピョートルは、ドイツ人出身の官房学者フックを、わざわざスエーデンに派遣している。
 その結果、外務、陸軍、海軍、司法、商業、鉱業、工業など、九つの参議会がおかれることとなった。
 こうして中央行政では官僚による統制がめざされたが、地方行政においては、貴族と上層市民による自治を主眼とする改革が行なわれた。
 またこの官僚制度で注目されるのは、ピョートルが制定した「官等表」(一七二二)で、これは官職を武官と文官に分け、それをさらに十四等級に格づけしたものである。
 八等官(陸海軍少佐、参議官)以上の職についたものは、前身がどうあろうと、世襲的に貴族の称号と特権とがゆるされた。
 最高職は文官では宰相、武官では元帥である。
 もしこれらの官等級を詐称すれば処罰された。
 ついで改革は、ロシアの教会制度にもおよんだ。
 そのころ、修道院領が重要な財源であることに眼をつけたピョートルは、修道院からその収入を処分する権利をとりあげ、これを世俗の官吏である修道院庁の手にうつした。
 すなわち、修道院領からの収入はツァーリの官吏があつめ、そのうちから修道士に給料として、ひとりあたり「十ルーブルとパンー塊」を支払ったのである。
 しかもあとのあまった分は国庫がそっくりもらうことになり、その額は毎年三百万ルーブルにも達したという。
 そしてこれは、のちエカテリナ二世のとき完成される、教会領国有化への第一歩となった。
 ロシア教会は、改革に反対したが、その長である総主教アドリアンが世を去ると(一七〇〇)、これより二十年間、ピョートルはその補充をおこなわず、欠員のままであった。
 そして一七二一年、ピョートルはついに総主教府を廃止し、これに代わるものとして宗務会議をおいた。
 そのメンバーはツァーリが任命し、これよりロシアの教会は、まったく国家に従属するものとなった。





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