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第6課 たとえ話(1)天国のたとえ話

2018-04-27 00:59:37 | 新・旧約聖書まとめ
浦川和三郎司教『新約のはなし』1949年、中央出版社

第6課 たとえ話(1)天国のたとえ話

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○御主は、みおしえを人々の心に深くしみこませるがため、どんな方法をおとりになりましたか
△御主は、みおしえを人々の心に深くしみこませるがため、これを美しいたとえ話にして語られました。しかし、また、反対者にその意味を悟られないように、わざとたとえ話の形をお取りになることもありました。

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○ゼネザレト湖の浜辺において、お話になったのは、何のたとえ話でしたか。
△宣教第2年、ゼネザレト湖の浜辺においてお話になったのは、天国すなわち聖会に関するたとえ話でありました。

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○まず、天国を何にたとえなさいましたか
△御主は、まず、天国を種まきにたとえて、おのおのの注意を促しなさいました。

 「種をまきに出て行った人がある。まくうちに、ある種は、道ばたに落ちて、人に踏まれ、空の鳥についばまれました。ある種は、土の多くない石地に落ちました。土が浅いだけにすぐ萌え出たが、火の昇ると共に、焼けて枯れました。ある種は、イバラの中に落ちたが、イバラも共に育ち、これをおおい塞ぎ、ために実を結ぶことができませんでした。ある種は、よき土に落ち、生え出て、一つは30倍、一つは60倍、一つは100倍の果を結びました。」

御主は、後でこのたとえを弟子たちに説明して、次のように仰せられました。

「種は天主様のみことばです。それが道ばたに落ちたというのは、みことばを聞いてもこれを悟らない時は、悪魔が来てその心からみことばを奪い去ってしまうの意味です。
 石地にまかれたのは、みことばを聞くと、すぐ喜んで受けますが、しかし、一向に根がありません。みことばのために艱難が生じ、迫害が起こるとたちまち、躓く人です。
 イバラの中にまかれたのは、みことばを聞くは聞くが、この世の心配や、富や、快楽やのために、みことばをおおい塞がれて実を結ぶことができない人たちです。
 よき土にまかれたのは、善良な心でみことばを聞き、よくこれを保ち、忍耐をもって実を結び、30倍なり、60倍なり、100倍なりを生ずるに至る人であります」
と。

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○その次には、何のたとえ話を語られましたか
△みおしえの種が萌え出て成長するのを妨げようとする敵も少なくないことを、

 毒麦にたとえてお話になりました。
「天国は、良い種を畑にまいた人に似ています。人々の寝ている間に、仇人がやってきて、麦の中に毒麦をまいて立ち去りました。苗が生長して実を生じますと、毒麦もあらわれました。僕たちは家父に申します。
 『主よ、畑には良い種をまいたのじゃございませんか。どうして毒麦が生えたのでしょうか。』
 『仇人がこれをしたのです』
 『行って、刈り集めたらいかがでしょう』
 『いや、毒麦を刈り集めようとして、良い麦までも共に引き抜いてはならぬ。収穫まで両方育てておきなさい。収穫の時に、私は刈り手に向かい、まず毒麦を集めて焼くために束ね、麦は倉に収めよ、と言いましょう』」

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○天国は、仇人に苦しめられても、どしどし進歩発展していきますか。
△そうです。御主は、からしだねとパン種のたとえをもって、その旨を明らかにされました。

「天国は、人が取ってその畑にまいた一粒のからしだねのようなものです。土の中にあるときは、地上のあらゆる種よりも小さい。でも、生え出た後には、育ってよろずの野菜よりも大きく、樹になり、大きな枝を生じ、空の鳥が来て、その陰に住むことができるほどになります。」

「また、天国は、パン種のようなものです。女が取って3斗の麦粉の中に隠し置くと、ことごとく膨れるに至るものであります」

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○その他には、何を御話しになりましたか。
△福音の教えは、何よりの宝、真珠のようなものである。どんな犠牲を払っても、これを手に入れなければならぬことをお話になりました。
「天国は、畑に隠された宝のようなものです。見出した人は、これを隠し置き、自分の持ち物は全部売り払ってその畑を買います。」

「また、天国は、美しい真珠を求める商人のようなものです。値高い真珠一つを見あたるや、行ってその持ち物を残らず売り飛ばして、これを買います。」

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○福音の教えを見あたり、これを我がものとした人は、終わりに、どのような報いをこうむるでしょうか。
△それを明らかにするがために、御主は、良き魚と悪しき魚とを引き入れる網のたとえを語られました。

 「天国は海に張って、いろいろの魚を集める網のようなものです。魚がいっぱいになったとき、これを引き揚げ、浜にすわって、良き魚は器に入れ、悪しき魚は投げ捨てます。世の終わりにも同じくそうでしょう。天使等が出て、善人の中から悪人を引き分け、これを火のかまどに投げいれます。そこには嘆きと歯噛みとがあるでしょう」

教訓

 これらのたとえ話は、平易通俗な中に深い意味を含めたもので、智慧の浅い、質朴な人のためには、浅く、わかりやすく思われますが、悟りの深い、知識の勝れた人のためには、どこまでも汲みほし難い深みがあります。小さな子羊も歩いて渡ることができるが、大きな象でも自由に泳ぎまわれる河のようなものであります。



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