ふらんす座への招待

俳句をあそぼう

リズム

2009-05-27 21:10:03 | ジロー
 俳句は四拍子です。
日本語は二音ずつ発音されて、一拍となります。  一音しかないときは一音分の休止があって一泊となる。
芭蕉の「古池や蛙とび込む水の音」を読んで見ましょう。
「ふる/いけ/や○/○○//かわ/ず○/とび/こむ//みず/の○/おと/○○//」
という具合に俳句は一音分の休止、一拍分の休止を適宜において四拍子で読まれていることになっています。
しかし、俳句のリズムというものを考える場合、五七調を四拍で読む表向きのリズムともうひとつ意味の上で切れる内在リズムというものがあります。

  曙や白魚しろきこと一寸     芭蕉

この句の意味の上での切れ方は「曙や」「白魚しろきこと」「一寸」(5・9・4)となり、「こと」が「白魚しろき」に付くことが下五に来てはじめて分かる。
ところがその一方、俳句の基本リズムによって意味とは無関係に、中七でちょっと切れる感じがある。
つまり、基本のリズムに乗りながら意味のリズムで外すわけで、不意を突かれた驚きから下五の「一寸」に強い力が生まれる。
このかっこいいテクニックを「句またがり」と呼ぶのですが、新しい感性の発露によく使われます。
これはどこかリズムの裏にアクセントをつけるジャズのシンコペーションのかっこよさに似てますね。


また、話し言葉にせよ、音楽にせよ、終了感を持たせるためのリフレイン構造というものがあります。  たとえば「バイバイ」とか「ジャンジャン」とか。
日本古来の長歌そして短歌も七七というリフレインで終わっています。  ところが俳句はそういう予定調和的な構造を持たない。
何か愛想のないがんこ親父みたいなところがあるのですが、そこはそれ俳句には切れというものがあって、もっといいところへ連れていってくれる。
ヘソ曲がりな親父も付き合ってみれば、本当はやさしかったみたいなことですね。










かなしみ

2009-05-20 22:31:14 | ジロー
 前回言い足りなかったことを
吉本隆明氏は内感覚、外感覚を内コミュニケーション、外コミニュケーションと言いかえて論をすすめている。
胎児は母胎のなかで羊水にかこまれ、母親から臍の緒をとおして栄養を補給されている。  そして母親と同体の内コミニュケーションを行っている。  母親が思い感じたことはそのまま胎児にコミニュケートされ、胎児は母親とほとんど同じ思いを感じた状態になる。  言わば幸福な状態であり、そこから外へ送り出されて誕生してしまうということは憤りとか後悔の段階ということになる。  それからもう少したつと(もう一度母親と親和の接触を与えてくれたら、生まれた状態を肯定してもいい)というつまり内コミニュケーションを回復させてくれるならば生まれた状態を肯定してもいい、という取引の段階を迎えるととらえている。

そういうふうに内コミニュケーションから外コミニュケーションに移行するのであるが、そこで齟齬が生じると問題が起こる。  母親の人格に問題がなくてもそれぞれ事情というものがあり、子供が乳児のときに愛情をそそげない場合だってあり得ると思う。
俗に言う三つ子の魂百までということだが、そこの段階でうまくいかないと、子どもの暴力というものを問題にした場合、その根本的な契機になるのではないかと述べている。



 なんか今さらっていう感じがしますが、この世に生まれおちたことが善なるものとはとうてい思えない人たちがいるわけで、その辺のところに理由を求めたりします。

実は店の客にそういう人がいて、暴力的な人ではないのですが、生まれてきたのが暴力であるような社会に適合できない人です。
話題にするのも敬遠するようなそんな、同化できないかなしみってあるもんだなと、つくづく思っています。

自然は水際立っている

2009-05-13 22:36:40 | ジロー
 三島由紀夫の「仮面の告白」という作品は、子どもの「私」が「自分が生まれたときの光景を見たことがあると言い張った」エピソードから始まっている。

  下ろしたての爽やかな木肌の盥で、内側から見ていると、ふちのところにほんのりと光がさしていた。そこのところだけ木肌がまばゆく、黄金でできているようにみえた。

これは小説における虚構であって、現実にはありえないと思っていたが、そうでもないらしい。
吉本隆明氏は「胎児という時期」のなかで、二才から四才までの子どもは胎内のときのこと、それから分娩によって胎外へ出たときのことを覚えていることが多いと述べている。  氏は人間の感覚作用、とくに視覚と聴覚は、内感覚と外感覚の二重層からできていると解釈する。  胎児は妊娠七~八ヶ月ころから母親と一体になり、胎内で内感覚作用を営む。  誕生して外界にでると外界の光に感応して、視たり聴いたりの外感覚をしだいに形成して知覚作用を営むことになる。  しかし、内感覚をまったく失うわけではなく、無意識に保存している。  つまり、乳胎児は内感覚と外感覚が未分化なまま物を見ている。
この考えを無理やり延長すれば、臨死体験というものも説明できるかもしれない、と述べる。  死に瀕した人間が、外感覚をしだいに失って、胎内に胎児としてあったときの内感覚だけの世界に帰ってゆくことではないかと。
瀕死のひとが暗いトンネルをくぐるその向こうに小さな光の出口を視るのは、胎児が子宮の出口を視たときのイメージと重なる。



 なあんだ、そうなんだ  ひとは死んだら死にきり、自然は水際立っているってことですね
すっきりしてていいんですけど、なんかこうもっと気持ちのいい所に行けるとばかり思ってたから  釈然としないなあ
長い長いトンネルの向こうに、すごい光が視えてさあ  光に吸いこまれるように、それから鳥のようにはばたくんだよね  いや、地を這いつくばっているのかもしらないけど    それでもいいんだけどなあ  

句会レポート

2009-05-06 21:56:52 | ふらんす座
 今回は還水(カンスイ)さん、詠穂(エイスイ)さん、久々のスイスイコンビ(別にコンビではないのですが)の登場で引き締まった句会となりました。  お二人とも夏の装いで、還水さんはたくわえていた髭をそり、詠穂さんは長い髪をショートに、どこかでリフレッシュしたような清々しさを句会にもたらしてくれました。  それと一年ぶりになるでしょうか、矢谷(貴子)ちゃんが袋まわしから参加してくれました。  彼女の柔軟さもまだ健在のようです。


   特選(たかし選)
    
       吊り革の皮きしむ音花疲れ(ジロー)

   並選(たかし選)

       コーヒーの底に冷めたる遅日かな(喜哉)

       見世物の痩せたる馬や麦の秋(還水)

       男衆を頼んで建てる幟竿(詠穂)

       エレベーター下降す春の了るなり(喜哉)

   互選句

       人の後に見つけし果報太わらび(たかし)

       表具屋の几帳面さよ軒菖蒲(たかし)

       武者人形棚上のこと承る(喜哉)

       空寝してひとの声聞く暮春かな(ジロー)

       息切らしみはるかす街青楓(還水)

       髪洗う今年の髪型今年の顔(詠穂)

   続いて袋まわし互選句

       万緑の少なき水に大魚住む(たかし)

       万緑の軒に触れたる山家かな(喜哉)

       かたつむり小事気にせず若遅講(喜哉)

       万緑や色弱は隔世遺伝(ジロー)

       万緑やいわずもがなの「速度落とせ」(還水)

       純白の服アネモネのにほひして(還水)

       春愁に終わりなき夢迫り来る(詠穂)

       あざやかな赤や紫可憐アネモネ(貴子)


 不思議なことが起こりました。  それは袋まわしの時のことで、還水さんと私がお題は違うのですが、同じものを詠み込むということが起こりました。  しかも人物です。
   サヨナラと淀川さんが夢で言う(還水)
   サヨナラとサヨナラと淀川さん春愁(ジロー)
春が暮れてゆく感慨を、日曜洋画劇場が終わったときのさびしさと重ねて、二人とも同じ顔を思いうかべたわけです。
シンクロしたということなのですが、それがその場の親和力からなされたのなら、それはそれは、  素敵なことですね。