俳句は四拍子です。
日本語は二音ずつ発音されて、一拍となります。 一音しかないときは一音分の休止があって一泊となる。
芭蕉の「古池や蛙とび込む水の音」を読んで見ましょう。
「ふる/いけ/や○/○○//かわ/ず○/とび/こむ//みず/の○/おと/○○//」
という具合に俳句は一音分の休止、一拍分の休止を適宜において四拍子で読まれていることになっています。
しかし、俳句のリズムというものを考える場合、五七調を四拍で読む表向きのリズムともうひとつ意味の上で切れる内在リズムというものがあります。
曙や白魚しろきこと一寸 芭蕉
この句の意味の上での切れ方は「曙や」「白魚しろきこと」「一寸」(5・9・4)となり、「こと」が「白魚しろき」に付くことが下五に来てはじめて分かる。
ところがその一方、俳句の基本リズムによって意味とは無関係に、中七でちょっと切れる感じがある。
つまり、基本のリズムに乗りながら意味のリズムで外すわけで、不意を突かれた驚きから下五の「一寸」に強い力が生まれる。
このかっこいいテクニックを「句またがり」と呼ぶのですが、新しい感性の発露によく使われます。
これはどこかリズムの裏にアクセントをつけるジャズのシンコペーションのかっこよさに似てますね。
また、話し言葉にせよ、音楽にせよ、終了感を持たせるためのリフレイン構造というものがあります。 たとえば「バイバイ」とか「ジャンジャン」とか。
日本古来の長歌そして短歌も七七というリフレインで終わっています。 ところが俳句はそういう予定調和的な構造を持たない。
何か愛想のないがんこ親父みたいなところがあるのですが、そこはそれ俳句には切れというものがあって、もっといいところへ連れていってくれる。
ヘソ曲がりな親父も付き合ってみれば、本当はやさしかったみたいなことですね。
日本語は二音ずつ発音されて、一拍となります。 一音しかないときは一音分の休止があって一泊となる。
芭蕉の「古池や蛙とび込む水の音」を読んで見ましょう。
「ふる/いけ/や○/○○//かわ/ず○/とび/こむ//みず/の○/おと/○○//」
という具合に俳句は一音分の休止、一拍分の休止を適宜において四拍子で読まれていることになっています。
しかし、俳句のリズムというものを考える場合、五七調を四拍で読む表向きのリズムともうひとつ意味の上で切れる内在リズムというものがあります。
曙や白魚しろきこと一寸 芭蕉
この句の意味の上での切れ方は「曙や」「白魚しろきこと」「一寸」(5・9・4)となり、「こと」が「白魚しろき」に付くことが下五に来てはじめて分かる。
ところがその一方、俳句の基本リズムによって意味とは無関係に、中七でちょっと切れる感じがある。
つまり、基本のリズムに乗りながら意味のリズムで外すわけで、不意を突かれた驚きから下五の「一寸」に強い力が生まれる。
このかっこいいテクニックを「句またがり」と呼ぶのですが、新しい感性の発露によく使われます。
これはどこかリズムの裏にアクセントをつけるジャズのシンコペーションのかっこよさに似てますね。
また、話し言葉にせよ、音楽にせよ、終了感を持たせるためのリフレイン構造というものがあります。 たとえば「バイバイ」とか「ジャンジャン」とか。
日本古来の長歌そして短歌も七七というリフレインで終わっています。 ところが俳句はそういう予定調和的な構造を持たない。
何か愛想のないがんこ親父みたいなところがあるのですが、そこはそれ俳句には切れというものがあって、もっといいところへ連れていってくれる。
ヘソ曲がりな親父も付き合ってみれば、本当はやさしかったみたいなことですね。