ふらんす座への招待

俳句をあそぼう

場所

2008-07-27 22:10:13 | ジロー
 長い時間、同じ場所にいるというのは子供に限らず、苦痛だということです。  私も店を開店した当初は、何をさておき、その場をはなれることのできないのが苦痛で、連れ立って遊びに行く友などを恨めしく思ったものです。
それも20年もたてば、慣れてしまうもので、店のなかだけではなくて、例えば、長時間のフライトで同じ姿勢を保つことを余儀なくされても、人よりはがまんできてしまう自分がいます。  もし、ムショの狭い独房に入ることが仮にあったとしても、俳句でもひねりながら楽にすごすことが出来て、私には懲罰にはならないかもしれない。

というわけでここ20数年、人生の大半を店の中で過ごしている。 言わば、自分の影が貼りついた場所というか、暗闇のなかでもどこに何があるかわかる空間です。  そのなかで客を迎え、客を送り、常連ができて度々来るようになり、いろんな話をする。  私と客とどちらかに不義理があって、しばらくの間来ないことがあっても、風向きが変わるとまた、何もなかったような顔をしてまた訪ねてくる。
そのように私の時間と客の時間の交差する場所として、店は続いています。


彼の訃報を受けたのは、そんなごくありふれた日の昼下りでした。  その朝に病いで30代の若い生涯を閉じたのだと言う。  彼の近況を知らされていなかったので、突然のことに言葉も出ないまま立ちつくしてしまいました。


彼とは20年近い付き合いで・・・ということは、まだ少年に毛の生えた歳の頃からの常連で、大きな体軀にいかつぃけれどどこか愛嬌のある顔をのせた好漢、というところでした。  体とはアンバランスなナイーブな面があって、年上の多い常連達にとても可愛がられていたように思います。
昔、不義理があって一年近く来ないことがあったのですが、その時も何食わぬ顔をして入ってくる彼を許してしまったことを覚えています。  許してしまえる雰囲気が彼にはあったのでしょう。

それがもう4,5年前になるのでしょうか・・・どちらに不義理があったのかわからないまま疎遠になってしまいました。
それでも彼のことだからそのうち笑いながら・・・と思っていたのですが・・・


彼は還ってきているのでしょう。
彼は時間も空間も失って、幾人かのこころに還ってきている。
しばらくとどまり、そして最もいい場所に還ってゆくのだと・・・そう思います。


  神よ願わくば
   変えることのできる物事を
   変える勇気と
   変えることのできない物事を
   受け入れる落ち着きと
   その違いを常に見分ける知恵とを
   授けたまえ    アーメン



  





トンチンカン

2008-07-19 07:04:17 | ジロー
 実を言えば、私はケータイを持っていません。
何かカミングアウトしているみたいですね。 それほどケータイは普及していて、きょうび小学生ですら持っている。 別に考えがあって持っていないのではなくて、特に必要がないから持っていないのですが。 まあ,持つ準備はあるというところです。
持たないからこそ見えてくるケータイの風景みたいなものがあると思うので、ひとつふたつ述べてみたいと思います。

ものの普及には、功罪取り混ぜていろいろなことが言われるのですが、ケータイに関してまず私が感じるのは、そのオーラです。 ケータイにオーラがあるなんていうと変なんですが、 変なんです。
何人かが集まって無聊でいると、ケータイでメールを打つひとがいるとする。
すると、オーラが現れます。 「準備中」の札を下げた店先にでもいるかのように、入りにくくなる。 あるいは大事なミッションを遂行中であるかのような・・・そこまで言うと大げさなのですが、メールを打っている人の意識とは関わりなく、有無を言わせぬオーラがありますね。

ケータイのメールはおしゃべりの延長であって、たわいのないやり取りがほとんどらしいのですが、それが行為として人に説明しなくても成り立ってしまうわけで、それはそれは便利な面もあるんでしょうね。
口うるさい苦手な人が近くにいれば、メールを隠れ蓑にすればいいし、居場所のないような状況でも場所を確保してしまえるわけで、人によっては、まるで護符のようなオーラがあります。 


・・と、ここまで書いて、  面白くないですね。 
あと、重い内容の私信も軽く伝わってしまう・・・というようなことを書こうと思っていたのですが、まるで空調の効いている部屋で、クーラーは体に悪いと言っているような感じで、  何かトンチンカン。

昔、映画のワンシーンでこいういうのがありました。  レストランの中に何人か客がいて、食事をしている。  そこで、ケータイが鳴る。  すると客が皆いっせいにケータイを耳に近づけている。  それがギャグになっていたのですが、もう、今は使えない。

ケータイのことをとやかく言う立ち位置がわからなくなってきました。


ますます機能を充実させるケータイには、すごいというより他ないですね。
いつかUFOに遭遇する私のために、  誰かケータイをひとつ・・・


 次回の句会は28日(月)です。


      白百合のしきりに揺るる終電車   

遠藤君

2008-07-11 12:15:00 | ジロー
 みなさん遠藤君をご存知ですか?
サッカーの日本代表のMFで、オリンピックのOA枠にも選ばれている。 知らない?
オリンピックにあまり出たくなくて、検査入院中の(?)(?)知ってる?

ところで、今日は彼のPKについて。

遠藤君のPKは面白い。
キーパーの動きを最後まで見際めてコースに蹴る方法で,彼はよく決めます。 でも,彼の場合は蹴るというより転がし入れる、と言った方が正確でしょうか。  相手をおちょくったように、コロコロとボールがゴールに入る場面を何度か目にしています。
この間もアウェイのオマーン戦。
前半1対0でオマーンは勝っていて、後半開始になってもオマーンの選手はなかなか出てこない、そういう日本代表の気勢をそぐような試合展開のなかで、遠藤君はそのPKを決めました。
ああいう大事な場面で、ああいうPKの蹴り方はなかなかできないですね。  もし私が選手だったら、どちらかのコースに決め蹴りをして、思い入れの強い分キーパーに止められそうな気がします。

サッカーをよく知っている人によると、PKをキーパーとの駆け引きで蹴る場合、キーパーの太股を見るそうです。  どちらかの太股に体重が移動すれば、その逆のコースに蹴ればいい。
力を抜いてキーパーの太股の動きに集中すればいいわけなんですが、遠藤君の場合、集中して、駆け引きさえしていないんじゃないか・・そのように見えます。


 例えば、人ごみを歩いていて急いでいる時など、よく人に当たりますね。  対面を歩いてくる人を避けようと方向を決めると、その人が同じ方向に来たりする。

 例えば、4,5人で話していて、何かかっこつけてもの言わんとすると、同時にしゃべった誰かの言葉にかき消されてしまう、っていうようなこと。


 些細なことなんだけど、物事を前もって一方向に決めて事にかかると、よい結果が得られないように思います。  出来るだけ判断を遅らせて、柔軟に対応したほうが世の大海をスイスイ泳いでゆける・・・そんな気がします。  何よりその方が楽しく見えますね。
そう言えば遠藤君は鼻歌を歌いながらPKを蹴っているように見えます。  彼には判断しているという感覚もないんでしょうね。  そして、ヘラヘラ笑っている。

  朝曇雲紙のコップに紙の皿

おいしい俳句の作り方Ⅲ

2008-07-05 20:28:02 | ジロー
 おいしいコーヒーを作るために一番重要なテクニックは、湯の温度の見きわめと湯の注ぎ方です。  うちの店はドリップではなくて、サイフォンなので、湯の注ぎ方が湯と粉の混ぜ方になりますが、基本はいかに湯と粉を混ぜ合わせるかということなので、サイフォンでのテクニックについて説明したいと思います。


まず湯をフラスコで沸かすわけですが、沸騰しすぎてはいけない。  湯がさざ波を立てている状態がいいでしょう。  間歇的に波を立てているのは沸騰しすぎです。  そこへロートを差し込むと吹きだしてしまいます。          ロートを差しこむと、蒸気圧によって、混ざらない湯と粉が上がってきます。  その時、竹べらを手に持って、湯が登りきる直前に、火を中火に戻し、と同時に攪拌する。  できるだけ速く、ていねいに、湯が登ってくる力を利用して攪拌する。  ここがいちばん集中を必要とするところで、できるだけ自然の力を受け止めて、手をかけないで混ぜ合わせるわけです。  半ば目をつむり、たましいを注入します。
そのまま30秒程度火にかけて(コーヒーの種類、杯数によって違うのですが)それから火からはなし、もう一度攪拌する。
そして たましいのコーヒーの出来上がり。


 続いて俳句
俳句をもっとも俳句らしく成り立たせているものは、切れと思われます。  切れとは言い切ること、つまり自分の表現したい詩因を、相手に伝わるように余韻を響かせることです。  俳句は俳諧連句の第一句を独立させて、正岡子規が文芸として確立したものです。  五、七、五の一句でもって作品を成立させるわけで、独特の気息のようなものがあります。
「や、かな、けり」という代表的な切れ字がありますが、句に切れがあるというのは、切れ字とはかかわりなく、表現したい詩因、たましいがあり 相手に伝えようとする気息があれば、おのずと切れる、 そういうものだと思うのです。
例えば

  つつじ活てその蔭に千鱈裂く女  芭蕉

この句には切字がないのですが、「女」と止めて、詩趣の統一をはかり言い切っています。  「切字に用いる時は、四十八字皆切字なり。」と芭蕉さんはいいことを言うし、句も新しい。


 テクニックに関して言えば、表現したいたましいをできるだけ手をかけずに、自然なかたちで切るということですね。  コーヒー作りと似通ったところがあります。  無理に切字を使ったりすると、作為的になるし、湯と粉を無理やり混ぜたコーヒーのようにエグくなる。


 さて最後になりましたが、よく切れていて余韻のひびく句を上げて、終わりにしたいと思います。

 黒葡萄夜はそれぞれに秘かなる    美村祐二郎

 皆さん、俳句に興味をお持ちになったでしょうか・・・お持ちになった方 手を上げて!!    誰もいない   ではまたの機会に


   最後には語るに落ちしブログかな 

句会レポート

2008-07-03 21:44:25 | ふらんす座
「神戸グロツサリィ」と云へば、生粋の神戸ッ子なら、きつと大きな袋に入つたハァシィのチョコレェトや、ココナッツ・ミルクの罐など、舶来品の懐かしい味を連想する事であらう。色鮮やかなパッケージに収まった外国の商品を並べたその店の前の坂を少し昇れば、「カフェ・シベール」のパステル・カラァの看板が見へて来る。

 六月廿九日。街路樹を激しく打った長雨も、夕刻には降り飽きたかのやうにすっかり大人しくなってゐた。梅雨の合間を縫うやうな六月の句會である。
 参加者は四人。それぞれ五句づつ持ち寄つたところで席題を提示するのが慣はしとなつてゐる。

 当夜の席題。「壁」「焼酎」「風鈴」「夏空」。

 「焼酎」が何故夏の季語であるのか深く考えると判らなくなるが、夏の焼酎と云へば落語の『青菜』を連想して何となく納得する。

 真夏の昼下がり、植木職人が得意先の旦那さんに勧められ、庭の縁先で、井戸で冷やした上等の酒(柳陰)を振舞って貰ひ、おまけに「鯉の洗い」に舌鼓を打って上機嫌で家に帰ってくる。太っ腹の旦那さんに憧れた植木屋は、長屋に訪ねて来た友人の大工に対して酒を勧める。

「植木屋はん、まあ、あんた、ここへ上がって、柳陰てなもん呑んでか」
「何言うてるねん、植木屋はお前やないか、阿呆か」

 で、友人に柳陰と称して飲ませる酒が、実は焼酎。そんな訳で、夏の焼酎というとこのシーンを思ひ出す。この夜、S氏持参の「赤霧島」なる焼酎の美味なる事、甘露の如し。

向日葵に髭剃りあとのやふな空(S氏)
風鈴の騒ぐ夜なり雨と風(Y氏)
風鈴や波立ちをりぬ手水鉢(M氏)
夏空を共に戴く敵味方(O氏)

 一通り出揃つた後で、即興で席題を出して短時間で句を作る袋回しを行ふ。席題は「夕凪」「蝸牛」「長沓」「つばくろ」「葭簾」「蠅捕紙」「ひびく」「のうぜん」と来た。

徘徊のひととなるとも蝸牛(M氏)
陽に焼けてしどけなく立葭簀かな(Y氏)
田のうはさくちゅるくちゅるとつばくらめ(S氏)
衆は黙しこの夕凪は君のもの(O氏)

 そのとき突然、民族衣装を纏った美しき二人の婦人が登場した。甘露の如き美酒に酔ひ、そこへ天女の登場とあつては、理性を失ふのも仕方がない。理性を失つては句は出来ぬ。斯様にして句會は自然天然にお開きとなつて仕舞つた。

のうぜんの散華に留守を悟りけり(Y氏)
歯磨きはとても大切豆の花(S氏)
つばくろや草履で行けるところまで(M氏)
初鰹片身四百五十円(O氏)

文責:岡見