ユニバーサルフロンティア理論は世界を救う

GUTこと大統一理論を上回る現代最高の物理理論を公開したいと思う!こう、ご期待・・。

物理学者は俺を栗城史多みたいなもんだと思ってるに違いない

2018年05月24日 | 究極理論
一流の登山家は彼をマラソンで喩えれば市民ランナーであり、登山家としては3.5流だと言っていたらしい・・。

で、俺自身ではね、そのレベル設定を正しいと思う気持ちだってあるんですよ、なにしろ今どきのエベレスト登山の失敗の仕方としてはあまりにも稚拙ですしね、ってー、俺は登山家じゃないし、ましてや栗城さんじゃないよ。ただ奇しくも当ブログでユニバーサルフロンティア理論のことをね、仮想エベレスト登山として紹介してきたからね、なんかその時に登山家諸氏もこのブログを覗いたりね、そんなこともあったから。んー、社会的責任なんてナイし、ましてや個人的責任なんかこれっぽっちもナイんだが、ひょっとして彼の軽々しい気持ちを駆り立てるのにマイナスの役割があったかもしれない、困ったことにね(´;ω;`)ウッ…

物理学者こそ科学者としての使命を履き違えて、自分たちを音楽家や登山家だとでも思ってるのではなかろうか?

かつてフロイトが自己紹介するにあたって「自分は科学者でも哲学者でもなく」という否定から始まって「強いて言えば無意識の世界の探検家というのにもっとも近い」と言っていたが、性欲の研究家らしく己をモテる方向で紹介しているだけのようで大へん小ズルいなあという印象を持った。小賢しいと言い換えてもイイが、理論物理学者が今という時期に、まさにそうなんだろうと思うわけですがな。だから真理の探究として行き詰っても、まるで気にもかけないようなそぶりをして誤魔化しているように見受けられる。

俺にとったら、ドイツ19世紀のクラシック音楽の在り方というのはもっとも気に入らないことのひとつなんだよ!

クラシック音楽というジャンルに属すること自体が特別に大きな意味を持つように設定したがるばかりで、音楽家の人生に付きもののさまざまな苦労を省略し切ったようなヘボ作家ばかりだ。同じ交響曲であっても、やっぱりベートーベンとは違うんだよねー、切迫感というか必然性というか、とにかく表現力に欠ける。とにかくオケの音が鳴っておれば満足なだけの人ならば同じように聴こえるのだろうけど、現代音楽なら新垣みたいなもので武満のクォリティーにはかなわない、みたいな感じだ。というか、新垣さんの音楽というのは直接に19世紀ドイツに似ていて、やはり新鮮味が足らないんだよね。

新しさに欠けるという点では理論物理学体系などにも同じことが言えますw

というか、先の記事で問題視していたように、間違ってない理論物理学体系なんてのは有って無きが如くというか、無いくせして有るよーな面しているとユーか、そもそも人間技ではあり得そうもないんですよね。神さまと違って人間さまは必ずどこかで間違えるようにできているからね。アインシュタインが言ってた「理論物理学の悲しい継ぎはぎ」という嘆き方は今の時代にでも通用するのではなかろうか、はて。つまり、素粒子標準模型は継ぎはぎだらけだと、そう言うわけなんですよね。だから最近になって読み手の理解力というより我慢に頼ったみたいな言い方が増えてきているわけで、というお話もさせていただきましたっけ。

他人のことをディスるよりも先に、自分たちの扱っている模型の足元を詳細に点検してみることを勧めたいです!







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