ぶたのあな

安定の愚痴率

題名はおそらく世の中への不満(とってもそす的)

2010年01月28日 22時12分25秒 | ダメ人間観察記
ついったとみくしの違いについて、
特に「みくしは嫌だけどついったはいいの><」って人が
私にわかるように言語的説明を試みてくれたら、
理解できるできないに関わらず一杯おごってやる。

それぐらいわかんなかった。
敢えてあげられるなら友人紹介じゃなくても入れるところと、
承認されなくてもフォローできるところか。
つまりついったの方が開かれたコミュニケーション……の、ような気はする。


しかし不思議なのは、自己愛+境界性のスーパーかまってチャンコンボ☆
であるわたくしが、ついったでは「フォローされたくね」って思うこと。
なんでだろ。
多分みくしに入っていたとしても、「マイミク申請されたくね」って
思っただろう。
HP同士の「リンク」は大丈夫だった。
というか、むしろ繋ぐの大好きだった。
リンクは見てる前提してるわけじゃないからかな。
HPのリンク、私はほとんどIEの「お気に入り」と同じ
便利帳というかアドレス帳感覚で使ってた。だから平気だったのかもしれない。

みくしは暗黙の了解で「見なくちゃいけない」ってのが
あるみたいだし、
ついったに至っては、フォローされたら
相手のタイムラインに表示されちゃうっていう理不尽さ。
ひどいよね。
私はひどいと思う。なんでだろー。

ブログはこんなに書くの好きなのに。
……と思った時、私はこのブログを「チラ裏」に
近い意識で使ってるんだな、って思った。
基本的にかまって欲しいとは思っているんだけど、
自分がかまってチャンなのも自覚しているから、
「誰も愛してくれないいいいいひゃああああssrdふゅいjk」
みたいな叫びを人が見てるところではしたくない、という思いもある。

非常に迷惑きわまりないと思うんだが、
私は「あびゃあああ」ってなってるのを、「はいはい」ってスルーされて、
「かまってくれないいいあwせdrftぎゅひじょkpl@……さ、ご飯つくろ」
ってなるのを求めているのかもしれないな、と最近思う。
私が求めたとおりに、あびゃああしてる時に
「よしよし、いい子いい子。私が愛してあげる」ってやられると、
私はどこまでも赤ん坊返りしてしまうのだ。
だから誰もかまわないと知ってるここでは
好き勝手にびゃあああってやってられるんだと思う。

知ってる人にも何人か見ていただいているけど、
その人たちはみんな「はいはい」してくれる人なので、
助かってる部分もあるのだ。

そもそも境界性だから、
毎日UPするたびに「見ました!今日の記事は○○で~~~でしたね!」とか
報告されない限り、
基本的に何回「見てるよ!」って言われても
「見られてない前提」で書いてるのだ。
だからなんでも強気でかけるのだ。あびゃびゃ。

ついったに関しては、「誰でも入れる」「誰でもフォローできる」のは
すごくいいなと思うけど、
「誰にでもフォローされる可能性がある」のは
ものすごく嫌だ。
要するに私はオブサーバーでいたいのかもしれない。世界の。
フォローする側でいる限りは、物語の読み手という超越性を保っていられるけれど、
フォローされる側になるということは、物語の紡ぎ手という下位に回ることに
なってしまう。
きっとそれが嫌だ。

「世にも奇妙な~」とか、数々の作品で、
本や映画なんかを作品として楽しんでいる内に、
気づいたら自分もその中に取り込まれてしまって……
という話があると思うけど、
「物語の登場人物」であるはずのフォローされている側の人が
自分をフォローしてきて、関わってくるようになったら、
現実と物語の境界を私はきっと認識していられなくなってしまう。
ただでさえ曖昧になっている中で、それはすごく怖いことだよ。

「二次元の世界へ行けない」ってオタク達は度々嘆くけど、
ついったやみくしみたいな自己発信の形が広がっていくことは、
逆に三次元が二次元化し、それがまた自分の世界と言う三次元へ
接近してくるという様相を呈しているように思う。

実際に書いてる人は全く二次元には行けないわけなんだけど、
「書く」という行為を行うだけで、
外側から見ればその人は一種の二次元的存在に生まれ変わっているのよね。


…ん?なんか論点がずれている気がするぞ。
とりあえずそんなこんなでやっぱり私は
みくしにもついったにも馴染めそうにありません、という報告です。
完全に読者側になれる仕組みならよかったんだけど。
多分それなら自己を公開する人が限られちゃうんだろうな。

完全に読者側になれる仕組みって、それ、ブログやないかーい!



それからもう一つ、フォローされたくない理由として
私が個人的に思うのは、
「フォローされました」ってメールが届いたら、期待するじゃん。
だってフォローしてくれたら
絶対相手のところに自分の呟きは届くわけで、
そしたら、リンクやマイミクよりも深く「つながってる?」って期待するじゃん。
それでも返事が来なかったら、私はそれこそ首括り島なのである。

ついったの「つぶやき」っていうのはそもそも、
「返事を期待しない独り言」で、そこにフォローしてる人からの
「予期していなかった返事」がくるからきっと浄化作用があると思います。
でも、私は「返事を期待しない独り言」なら、一人で吐きたいんです。

人が聞いてるところで独り言って、吐くか?っていう感じがするんです。


姉2がよく、人がいる前で「あーあ。つまんない」とか、
「あーあ、ぶたが○○って言ったから嫌な気持ちになった。」とか
でっかい独り言を言った挙句、
それに対して「なんなの」って返信をしたりすると、
「独り言で言っただけだから、人に聞かせようとしたワケじゃない。
 返事なんか期待してなかった」って
キレる人なんですけど。

それをやられたことが何度もあるから、
私にとって「人に聞こえる場所で独り言を言うこと」っていうのは、
ものすごく恥ずかしい、品のない行為という風に刷り込まれているんじゃないかしら。

私自身が、テレビやラジオがついてると勉強できない、
「いつなんどきも人の言葉は聞いてしまう耳」を持っているから
余計にこう思うのかもしれないけど、
「興味がないからスルーする」ってのに、そもそも気を遣うっていう。
言ったからには何か返信が欲しいんじゃないか、って
一生懸命答えを返そうとして焦って一人で勝手に精神力を消耗するから、
例えミリ単位でも「答えが期待されている」と想定される場所では、
人に自分の独り言を聞かせたくはないと思ってしまう。
相手に同じように気を遣わせて、嫌がられるのが怖いから。

そもそも、
「人に伝えたい主張」
「人に話したい報告」
「愚痴」
「人に伝えたくない心のモヤモヤ」
「人に伝えたくない愚痴」

と色々種類があって、ついったはどのレベルのものを
書くものなのか?
それがすっごくモヤリエンヌだと思います。

どこぞの人みたいに「ついったは面白い発言をする場所」って思ってる人や、
ビジネスの場として考えてる人、交流の場として考えている人、
本当に「つぶやき」の場として使いたい人、
よくわかんないまま適当なことをつぶやいて見る人、
思想や使い方が混在しすぎていて、気持ち悪くなります。
たぶん、ついった的には「そのどれもが正解」みたいなのが
模範解答になるんじゃないのかなと予想しているんだけど、
それならついったをやる意味ってなんなの?と思ってしまう。


結局形を変えたみくしの再来なんじゃないかなーって思ってしまうのは、
私がそういったSNSに一切ノれない友達いない子ちゃんだからなのでせうか。
そうやって結論づけんのは簡単なんだけど、
じゃあSNSは友達いる子ちゃん達だけの楽しみなのかっていうと、
きっと作った側はもっとインターネッツに散らばる、
闇に潜みがちな人も含めたいろんな人とコミュニケーションを
つなげる、というのが目的なんじゃないかな、と思うから、
それも違う気がする。


最初にあげた「参加限定か否か」「承認コミュニケーションか否か」という
違いが、結局は唯一ついったとみくしの違いんじゃなかろうか。
逆に言えば他の機能はまったく同じなんじゃなかろうか。
多分、「どういう類の発言(音)が無視しやすいか」の
違いだけのような気がする。

で、なんにせよ無視がするのもされるのも苦手な私には
これらは向かないんじゃないかと思う。

みくしやったら、私間違いなく境界性が悪化すると思っています。
学生時代ずっと、特定の「いつも一緒にいる」友達を作らなかったのも、
失って傷つくのが怖かったからで、
失った時傷つくぐらいなら最初から「あるもの」として考えるのはやめよう、
という戦略をとって今まで生きてきたので、
「あるもの」と錯覚させてくれてしまうSNSは、
私にとって麻薬みたいなもんです。

どこかで「ここから先は無視、ここから中は維持」みたいに、
一つ一つの関係に線を引いていく態度が必要な気がする。
そしてそれは私は一番苦手とすることです。

最終目標は愛し合った人全員と結婚して一体化することである私にとって、
人間をはっきりと区分けしなければならないSNSは
非常に扱うのが難しい道具なのでした。


たこつぼコミュニケーションしたいなら、
個人や団体ごとでMLでも作ればいい話だもんね。
つまりSNSは「見つけて欲しい」の世界なんじゃないのか。
「自分から発表するほどじゃないけど、発掘されるのはやぶさかでない」みたいな。
積極的に活動する人って、そうなんじゃないかと思う。
あと、出会いを求めるにしても、
ある程度自分の情報を開示して、そんで連絡が取れるようにすることで、
「自分に合う誰かよ、私を見つけて」っていうメッセージのようにとれる。

それは決して悪いことだとは思わないし、
基本人間誰しもがもってる欲望だと思う。

私がそこに馴染まないのは、
多分ひきこもってても満足する人だからかなあ。
私はそれこそ、気の合う何人かとMLが作れたら、
それで一生過ごせる気がする。

最悪、旦那さんがすごく私を理解してくれる人なら
その人一人でも足りると思うし。

実際にはそんな人存在しえないから、期待しないけどね。

「たった一人」が存在し難いから、「たくさんの一人」の
成分を少しずつとることで「たった一人」に代替していく、
という戦略自体は多分私も彼らも変わらないのかな。

そこで多分、
「数人から絞り取れるだけ絞りとって100人相当にする」か
「100人から掠め取れる分ぐらいずつとって100人相当にする」か
の違いかな。
あ、私が前者で、「私を見つけて」が後者です。
そして世の中は多分、一人から搾り取る圧搾職人よりは、
100人から掠め取るライトポップコミュニケーションの達人の人口の方が
多いんじゃなかろーか!
だってほとんどの人が宇宙服着てるし!!


……はあはあ。
今日は大分実りのある議論を(一人で)した気がします。
これに対する答えが聞きたいと思ったら……
やっぱりSNSに入ってるのが早いのかもね。

「主張(ビジネス)の場」と割り切ってしまえれば
きっと私も相当楽しんでSNSできるに違いない。
でも今の私はあまりにも精神的にひ弱すぎて、
すぐ自分の内面の人に見せちゃいけないどろどりまでびゃああっと
発信してしまうから、
ここのようにあなぐらでブツブツ言ってるくらいがちょうどいいんです。
びゃああってしても地上にあんまり聞こえないから。それがいいのよ。



***********************

シャワー浴びたらもうちょっとひらめいた。

・「リアルの関係」と「ネットの関係」を分けたい、
 という感覚のあるなし

「ネットだけでつながりのある友達」って、いると思う。
そして、その他すべての関係性の中で人が少なからずそうであるように、
付き合う人によって自分が被るペルソナは変わる。
「ネット弁慶」みたいに、「リアルの友達」には
「ネットの自分は見せられない」みたいな感覚は、
2ch周辺にはあるように思う。あそこはみんなが場所(板)にあわせて装う場所だから。
一方でついったやみくしは、自分が関係している人が
「一覧」で管理されて、見られてしまう。

それは、リゾーム的な構造で友人の友人同士が
絡み合っていってしまう可能性もあるということ。

違うペルソナで相手をしていた人にも、
自分が持つ別のペルソナを見せてしまうということ。
そういうことに対する嫌悪感のあるなし、というのはあるんじゃないか!

少なくとも私は、心の扉開いてる人と開いてない人とでは
被るペルソナの表情も色も動きも相当違うタイプの人間なので、
「どこにでも伝わって当たり障りない呟き」なんてーのは、
どのペルソナをもってしても不可能なわけです。

どうせ受け取る側は自分の認識の枠内に入るものしか受け取らないから、
そんな心配は自意識過剰だということはわかりますが。
そういう葛藤は、「ついった楽しいです><」な人にはないのだろうか。
あるいはみくしでもいいけど。
いやみくしにはマイミクにだけ見せるとか色々あるからちょっと違うとは思うけど。

自己開示はすごく大事なことだとは思うけど、
無意味に開示を続けることは、かえって精神病を呼ぶのでは。
いやもし私がやった場合な。

私がこんなに不思議がってるのは、
「なぜみんなでやる必要があるの?」ってところだ。
SNSというもの自体についての研究をした本を読み漁って見れば
少しはその心理がわかるのかな?

私にはどうしても、失われた「国家」や「学校」という
大文字の共同体を保管するための
かりそめの「みんな」という共同体づくりに見えてしょうがない。
説明して納得させて欲しい。反論を聞きたい。


・「つながっている感覚が欲しい」という欲望までは同じ。
「離れていてもつながっている信頼」から安心感を得るか、
「つながっているように思える頻度の多い事象」から安心感を得るか

私も大概境界性なので、「つながっている実感を得たい」
という気持ちはすごくよくわかります。
だから私は用もないのにメールするし、
それに返信が帰ってくることで安心を得たり、逆に不安になったりしている。

ついったは、メールほど個人に宛てられたものではないから、
返信する責任感を薄められる効果がありながら、
相手の状況をなんとなく知れる、
一緒に暮らしているような、「そこにいる」という錯覚が得られる、
というのがいいのかもしれない。

ただ私が繰り返し疑問視しているのは、
そこに投げ出される「つぶやき」のベクトルの問題で。
「つぶやき」への返信は、基本的に一回で終わる類のものじゃない。
「つぶやき」がボケで、「返信」がツッコミ。
その一連で一つのまとまりを形成しようとしている。
「会話」はどちらかというとルール違反な感じがする。

つまり、すれ違いざまに「元気そうだね」「うん」って
交わせるレベルでのワンターンの会話しか許されていない。

毎日挨拶するだけで仲良くなれるというのは
ある程度効力をもった説だと思うし、
実際私も毎日誰かに会えれば嬉しいだろう。
でもそれじゃ私は「つながれない」んだ。

きっと「つながる」解釈の違いがあるんだな、と思う。
ついったは、「ゆるくつながる」ことを目指してる。
つまり、ライトにポップにつながりたい、という欲望。

一方で私は「ゆるくつながるぐらいならつながらなくていい」と思うくらいには、
「かたくつながりたい」と思っている。

「つながりたい」という出発点は同じだけど、
最初に書いたように、容量100の愛情のカップをどう癒すかで、
ついったの方向性と私の方向性が違うから、合わないのだと思う。

私が欲しいのは、「つながっていると信じられる信頼感」であって、
私が発して相手が答える、という関係づくりでは
決して実感しえないものなのだと思う。
それは、私の中ですぐに「私が発しなければ答えてくれない関係」に結びつくから。

実際の世界では、声をかけたり身体に触れたり、
身体感覚を通じて愛情を示すことが
割と唯一王道といえる愛情の伝え方だということは
とてもよくわかるのだけれど、
境界性かつ精神のつながりでイッちゃえるキラキラ☆ボーイズラブドリームを
モリモリ食べて来た私にとっては、
身体反応は度々疑わしいものなのです。
しばしば音のない言葉が一番雄弁になるのです。

ようやくするとあれだな、
「声かけて常に確認しなきゃ維持できない共同体なんていらない!
 私が欲しいのはいつでも通じ合える魂の双子だけなの!」
という80年代少女まんが乙な結論になりますた。

実際、そうだし。
会話できない「声かけ」だけのルールが、
私にはものすごく苦しい。
あそこで開示ができるのは、140字にまとめられる人か、140字以内しか
語ることがない人だと思う。
そしてそれが可能になる人口はものすごく少なく、
結果「声かけ」共同体の維持システムになるしかなくなっているように思う。

「見る側」の人にまで二次元内の居場所である
アバター、あるいはID・ホームを必要とするシステム自体に
疑問を感じる。
「自分が参加しなければ読むことのできない物語」、
それはとりもなおさず
「自分も参加できる物語」ではあるのだけれど、
私はそれに全く興奮できない。
自分という主体がなければ生きられない世界は、ファルスの享楽で、
男の世界だよ。
他者の享楽に傾いているアタイは、他人はただ眺める存在でいたい。
自分の、と与えられた身体の中になんて自分を閉じ込めたくない。

ついった利用の男女比、あとで調べてみます。
世の中がファルスの享楽に傾いていたら、悲しい。
いつだって女の3分の1ぐらいはファルスの国に
仮参入していることは気づいていたとしてもね。

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2 コメント

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Unknown (出会いを応援)
2010-01-29 16:21:59
素晴らしいブログを読ませていただきありがとうございます。
これからも更新頑張ってください。
返信する
Unknown ()
2010-01-29 21:56:58
こちらこそ嬉しい感想ありがとうございます!
真面目に考えるのはたまにしかありませんが、
がんばらない更新は超頻度で行います。
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