ぶたのあな

安定の愚痴率

人間として不作法

2011年06月22日 18時49分14秒 | 暗闇・電波思考
「人間として不作法」これは私が大学の時
蛇蝎のごとく嫌っていた某有名冷血教授に言われた言葉です。
この人類史上稀に見る最高にむかつく言葉、姉に与えてあげたい。

ちょっと前に書いたWiiの件ですが、
母を通して「一言挨拶があっても・・・」と伝えたところ、
姉はキレて「こんな家出ていく!」的なことをのたまったらしいです。
で、しばらく機嫌悪くして母とも口をきかない日が続いたのですが、
三日ともたずいつもの調子に戻り、
しかし私に挨拶がくるわけではなく、
勝手に使ったことを謝るでもなく、
な日々が続きました。

正直姉に関しては家族一致して「はやく嫁に行けばいい」という見解で、
大学卒業後一度も実家から出ようとしない、
独り立ちしようとしない姉の態度に関しては
前々から「家を出てみてはどうか」という議論がなされているところでした。

だからこういう形であれ、姉の口から「家を出る」という発言が出たことは、
少なからず母をも喜ばせたのですが・・・・。

なんでか、母となんとなく仲直り(というか、母がめんどくさいのでいつも通りに接していた)ことが、
姉の中では「ゆるされた」という確信になったのか、
まあこのへんのトンチンカンな回路のつながりはまったく理解不能な部分ですが、
姉はまたWiiを無断で使い始めました。

では私の涙の訴えは何になったのか。

それは、ただ姉が「堂々と断りなしにWiiをやる」から「私に隠れてWiiをやる」に
変わっただけでした。
しかも、隠れてっつっても姉は低能で爪が甘いため、
私が出かけたと見るや先ほどもやりだそうとしていたのを横目で見て
部屋にあがってきましたが、
バレバレなわけです。

というか、Wiiフィットの一番いいところは「自分がやった記録がグラフに残る」ところであり、
当然姉がやればみんなの広場に姉がいつやったかは一目瞭然なわけで・・・・
開き直っているのか?と思いもしましたが、
私が帰ってくると慌てて片づけようとする、
私が横を通ると慌ててドアを閉める(※ドアは透明)、
などの動作から、おそらく隠そうとしていることが判明。

・・・・はーあ。

もう溜息しかでません。

なんでこんなくだらないことが気鬱の原因になってるのかもわからんし。
一言「使わせてもらうよー」と言えば、それで終わる話じゃないですか。
別に職場の上司じゃないんですよ。
相手は妹ですよ、4つも下の。

それに対して一言の断りすらいえないとか・・・・はーあ。

字面だけでは、いかに姉に社会性がないのか、その気持ち悪さを
ご理解いただけず本当に残念です。

繰り返しのべているとおり、社会性のなさに関しては私も世間一般から見れば
それはそれはもう笑っちゃうレベルの低さですが、
姉よりはまともに人と口がきけるよ。
あいさつもできるよ。
人づきあいできるよ。

職場の人間関係はからきしだめだけれど、
友達関係でそれほど悩んだりはしていませんよ。
いい友達たくさんもったよ。
私の本名はいい友人に恵まれる意味をもっていますが、
いただいた名の通り友人に関しては自慢できる人ばかり。

とすると、あの人はどこにいい点があるのでしょうか・・・・?

「外ではちゃんとやってる」っていうんですよ、昔から。
家の中で「おはよう」に返事しなかったり、「おかえり」に返事しなかったりすることに関して。
そのほかもろもろ、無神経な言動を批判されたときに、
彼女の決め台詞は決まって「私は外ではちゃんとやってる」でした。

でも、それは私は非常に疑わしい。

仮に、彼女が外ではちゃんとやる人間で、家庭内では
甘えの心からそういう部分をサボッているのだとしたら、
なんで今彼女の中で仮想敵国である私にまで「挨拶しない」という甘えを
なすりつけてくるのか?
論理が破綻してますよ。
一貫性がないんですよ。
女子みてえ。
いやメスだけどな生物種はな。

Wiiに関して、なんでこんなに私がイライラするのかというと、
おそらくリターンがないからなんですよね。
そこは喜捨するつもりじゃないのに、無理やり搾取され、抵抗できない状況にされていることで、
喜捨させられている。
それが一番のネックなんだと思います。

Wiiを楽しく遊ぶにあたり、
母は就職祝いとして買ってくれた人です。そして「使えるようにしてくれてありがとう」と
言ってくれました。
だから母が遊ぶ分には全然気に障らないし、むしろメタボ前衛な母にはやってほしいくらい。
私からも「たくさんやってね」と言いました。

しかし姉に関しては。
①私がWiiを買いたいと言っていた時に少しも協力の姿勢を見せなかった。
②金銭的な負担は一切していない。
③機械の接続作業も当然手伝っていない。
④私はやっていいとは一言も言っていない。(おそらく母が誘ったもよう)
⑤使ってもいいが、一言断ってほしいとは伝言済。
⑥しかし挨拶なし。
⑦長時間使って電池が切れたりするなどアクシデントが生じても、報告なしに放置。
⑧で、私が修理。
⑨使えるようになったと知ると隠れて無断使用。
⑩心中では私に逆ギレ。「あいつが短気だから暮らしにくい」との記述。

という悪条件しかないので、
なにをどうしてどこをどうやって愛すればいいのか、
さすがのマザーテレサと同じ誕生日の私でも、こいつは救えねえ、と思います。

え?これって普通に他人にやったら全力で嫌われる行為だよね?
おいしいとこどりだけして、なんの挨拶もなしって、え?なに?

職場のどんな小さな親切にも重ね重ねの感謝の言葉を求めてくる上司には
私も怒り心頭に発していた私ですけれども、
これは言わせていただきましてよ。

家の中にあるものなら全部家族の共有物か?
仮に共有物だとしても、設置したり修理している人は無視して遊んでいいのか?

姉は子供にかかわる仕事をしているのに、
こんなクズ人間な背中を見せてどうするんでしょう。

私の母がそうだったから言えるけれど、
自分から謝れない母親に育てられると、謝れない人間になるよ。
奇跡的な環境に恵まれて是正されることもあるけれど、
基本ステータスがものすごく低くなって、
生きていくのに無駄にたくさんの負担がかかることはようく知っている。

ただでさえ、今の子供は「見て学ぶ」ことが少ない。
母親や教師がやっている姿を一度見たくらいで次からやれる子なんて、10人に1人だ。
だからこそその姿を繰り返し、当たり前に見せられなきゃいけない。
子供の前でだけ聖人君子ぶったって、絶対にそれは見抜かれる。
子供はよく見ているよ。

「外に出たらちゃんとやる」なんて言葉は、なんの意味もないと思う。
外じゃないところこそ大事にできる人でなくて、どうして外を大事にできるの。

24時間365日仕事人としての意識を持ち続けていられる人なんていない。
泥酔する時もあれば、ギャンブルに夢中になってしまうときだってあるでしょう。
でも、「人に感謝の気持ちをもつ」ということは、
本当に根本のなくしちゃいけない心なんじゃないかと思う。

「ありがとう」が言えない人に「ごめんなさい」は言えないし、
謝れない人に人はついてこない。
上に立つ者は、その組織の誰よりも頭を下げられる人でなければいけない。
その組織の構成員全員分の責任をとって、頭を下げられる人。
そうでなければ、ただのお山の大将であり、名目上の役職でしかない。

そういう意識がないんだろうな。

彼女はずっとリーダーシップをとる場面なく育ってしまった。

私も先日言われましたよ、職場の上司に、「運動系の部活に入っていなかったから、生活体験が少ない」って。

運動部に入っていないだけでそんなことを言われるんです、
いわんや万年ヒラ人員をや。

周りを見るという力がないんでしょう。
私も空気は読めないけれど、学ぶことは人一倍できる。
一度言われればすぐ直すし、教えてくれてありがとうございます、も言えます。
そんなこと逐一誇ることですらないと思うけれど、
ごくごく当たり前のことだと思うけれど、
それさえできない姉の姿を見ると、
そりゃあ「自分は社会性ないということはないかも」、と誤解もいたしますよ。

犬の接し方見ていればわかる。
彼女は、甘やかすだけ。
ほかの人が本気で叱っている場面でも、平気で「あらあらかわいそうでちゅね~」と
ネコナデ声を出したりして水を差す。
職場にあんな女がいたら私はすぐ呼び出して張り倒していると思う。

「甘やかし」を「愛情」だと勘違いしている典型だ。
そして、散歩にいったり、餌をやるといった生活の世話ができていれば、
「自分は立派に教育を行っている」と考えるタイプだと思う。

姉の驚愕エピソードは、そりゃあ数え上げればきりがないのだけれど、
一つ挙げるとすればそれは「殺虫剤噴射事件」です。

上記のごとくねこなで声で「可愛がっている、最愛の犬」アピールをしている
我が家のうめ吉の小屋に、クモが出た夜、
彼女は殺虫剤をためらいなくうめ吉がいる小屋の中にえんえん一分以上噴射した。
うめ吉が咳き込んで逃げているにも関わらず、
彼女はクモしか見ずに殺虫剤を噴射し続けた。

という、もうなんというか、タイーホという言葉すら頭をよぎる事件がございました。
私がうめ吉だったらもう、そんなことがあった翌日から
どんなねこなで声を出されようと姉には近づきませんが、
そこは犬だからね、立派な慈愛の精神があるうめ吉くんは
散歩してくれる人として姉にも尻尾をふってはいます。

でもその事件で私は本当に彼女の精神を疑った。

このほかにも数々の「そりゃ人間としてねえだろ・・・」エピソードをもつ姉のことを、
私と姉2は「何かの精神病ではないか」と疑っています。
私は発達障害の線を推したいけどね。

私も姉2も大概変人と言われる部類で、
お互いパーソナリティ障害らしき兆候はあるけれども、
姉1はもうなんかね、次元が違う。
本当に基地外としか思えない言動がちょこちょこある。

それでも父母はそれを病気とはとらえないのね。
「性格のちょっと困ったところ」ということにして目をそらしている。
父に関しては、もう完全に長女かわいいフィルターがかかっていて、
姉の超絶行動をきいても「ねえちゃんは、のぼのぼくんだからなあ」とか言って
ほのぼのしちゃったり。ね。

のぼのぼくんというレベルを超えて、もはや社会生活に異常をきたすレベルだろ。
明らかに。
と、直接かかわりのある私などは思うし、
おそらく姉2も近い感情を抱いたのではないのかと思いますが。

本人はまったくそんな自覚がないのね。
自分が世界で一番正しいと信じて、
自分の基準をグローバルスタンダードとして微塵も疑わず、
まったく人に譲るということもせず。

そりゃあ行く職場行く職場でハブにされますよ。

今の職場は菩薩の集まりなのか、それほど強烈なイジメは受けていないようだけれど、
以前いた職場では、自分の社会性のなさを棚上げにして、
パワーハラスメント記録帳というものを作って、
せこせこ毎日上司の悪口を書き留めることを日課にしていた。
本当に訴えようと思っていたみたい。

ぶっ飛んでるでしょ?

もう強烈すぎますよ・・・・親類縁者が・・・・。
しかもあまり明るくない方向に強烈ですよ・・・・。

もっとこう、さあ、親戚の集まりで必ず脱いじゃうオッサンとか、
そういう明るい強烈キャラがよかった。

よく私は自分の家庭を「愛情はないけど、笑いレベルは異常に高い家」という風に
表現したりしますが、
この笑いが豊富にあるのは、
やっぱり世間的にみて少し異常な人がそろっているから可能なことなんですね。

大概笑いレベルの低い(沸点の低い)家というのは、
家族の構成員に人格者が多いわけ。
だから争いとか起こりづらいし、
笑いになるような突飛な出来事も起こりにくいわけ。

「よく笑う子」が好感度の高い女子像としてあげられるのは、
こういう部分にも一端があるんじゃないでしょうか。

よく笑う→沸点低い→育ってきた家庭が沸点低い→ささいな出来事が笑いになる→家庭が比較的円満
という図式になるのでは?
つまり「よく笑う子」は育ちのよさを保証できるシステムなのです。
どうよこの理論。
誰か論文まとめて学会に発表して。あ、私の名前原案者のところに入れて。

だから私の笑いのツボもずれてるんだろう。
授業を受けている時なんかに、ちょっと突飛な行動をする子がいて
ささやかな笑いが起こる、みたいな場面で私がちいとも笑えなかったのは、
それが日常だったからです、多分。

突然発狂して奇声を発する人は毎日そばにいたし、
理由なく足を踏み鳴らしたり、一人ごとでキレていたり、
そういう人が家庭の中に当たり前に、普通にいた。

だから「異常事態」が笑えなくなったの。
それが「通常事態」だったから。

で、変なとこでものすごく面白くなっちゃうのは、
その「通常事態」が私の感覚の中では「異常事態」だからなの。

という仮説。
少なからず私の性格形成による部分があるということを差し引くとしても。
それは、あるよ。

なんとなくの雰囲気だけれど、
家庭がほのぼのした感じじゃない人は、シニカルな笑いがよく通じる。
エログロナンセンスへの拒否感が小さい。
そんなイメージがあります。

家庭がほのぼのした感じの人は、確かになんか本人にも、
ほんわかした空気があるのよ。
厨二病にかかっていても、それがほんわかしたムードに包まれていて、
角がとがりきらない感じ。
それが基本オーラとしてある。

だからほのぼの家庭オーラを出す女子は、
美醜を問わずようモテておる。これガチな。

別に家庭的だとか料理上手だとかそういう要素で「ほのぼのオーラ」って
出るものではなくて、
ほのぼのした人種しか集まらない空間に長時間いた残り香みたいなものが
そのオーラを形成しているんだと思う。

だから獲得しようとしてできるものではないのよね。
ということに、最近実体を通した分析を続けた結果気づきました。

「落ち着きオーラ」は一人でも出せるの。
心が落ち着いてさえいれば、つまりストレッサーが少ない状況に
もっていくことができれば、表面上の角をなくすことはできる。
けれど根柢の温かみみたいなものは、一人では出せない。

その「ほのぼのオーラ」がおそらく「愛されオーラ」とも呼ばれているものだと思います。
だからいくら香水ふりかけようと、リボンがかわいい丸っこい服きようとも、
言動を優しくやわらかに心がけても、
出ない人が努力で出すことはできない。

愛があふれた空間でシャワーのように愛情をあびることで、
はじめて愛されオーラのにおいみたいなものが付着するんだと思う。

どこをどうやって愛されオーラの話になったのかもうわかりませんが。
つまり私は今日もブログをカウンセラーに、
Wiiを無断使用した厚顔無恥な姉への怒りを発散することができましたとさ。

カウンセリングって、やればすぐに癒されたり救われるものではないのよな。
いうなればアナムネ?アネムネ?みたいな。病状確認的なニュアンスが強いのかな、とは、
「精神科医は腹の底で何を考えているのか」という本を途中まで読んで思ったことです。
この本自体は、作者の「こんなことやっちゃう異端者オレ。(でも、それが真にいい方法だと思ってる)」
という主張が激しくてくらくらする部分もありますが、
処方の実態とか、カウンセリングのお値段や手法などが少し知れて
ためになります。

カウンセリング勉強しようかなと思った時期が
当然現役厨二病患者のわたくしにもあるわけですが、
仕事で実際のカウンセラーという職業の人を
見るだに、あ、なんかイメージ違う、という感じがして。

カウンセラーの人よりも、普通に職場で頼りになるといわれているベテランの方が、
とっても話しやすい雰囲気をお持ちなわけであって。

だからそれはあまりこう、心を癒すというか、
心を解放するというか、そういう治療的な部分ではなく、
まじ導入的な、情報収集といった意味合いが医師の側からすれば
強いのかなという感触を受けました。

じゃあ私がやりたいことはカウンセラーではないな、って。
もちろんカウンセリングの手法を学ぶことはマイナスにはならないと思うけれど、
カウンセラーになったからといってできることでもないし、
逆にカウンセラーじゃなくても人生訓練を積めばなんとかなる領域だなって。

背後に大グモ出現により今日はここまで!