11日は、「東日本大震災」からすでに丸4年目でした。
月日の経つのは早いもので、こちらもすでに1年半になります。
2013年9月の台風18号で京都・嵐山の河川があふれ、名勝の渡月橋が今にも流されそうになったテレビ映像はご記憶の方も多いことでしょう。
もし、渡月橋が流されていたら、渡月橋がないと嵐山は絵にならないでしょう。こうなると嵐山は1~2年は立ち直れなかったのではないかと思います。
写真は1ヶ月後の10月に訪れたときの、渡月橋です。
檜でできた橋桁隠しが無残な姿になっていましたが、渡月橋は無事だった。
嵐山のシンボル、生命線とも云える渡月橋は台風のあの洪水に流されなかった。
逆に云うと、なぜ渡月橋はあの濁流に耐えられたのか。
渡月橋を写真のように遠くから眺めると、木製の橋のように見えます。
ヒノキでできた欄干や橋桁隠しの飾りがあることや、昔の木橋のイメージが出るように橋脚もほっそりと造られ、その間隔も約10㍍と短く配置されていて木橋の風情を損なわない工夫が施されているからだと思います。
しかし実際は、橋脚や路面は鉄骨鉄筋コンクリートでできています。
「渡月橋」と云う景観や観光目的で付けられたような優雅な名前の橋ではありますが、橋長は 155㍍ 幅は 11.2㍍の大きさで、 観光客だけでなく、市バスや大型観光バス、自動車がジャンジャン通る立派な京都府道29号線の一部であります。
このため頑丈に造られていて当然といえば当然のことなのです。
だが、コンクリート製の橋だから濁流に耐えたという単純な答えではありません。コンクリ橋でも濁流にのまれて崩れたと云う話しは台風のニュースなどでみることがあります。
それでは、渡月橋はなぜ生き残ったのだろうか。
地元の新聞に記事がありました。「流木止め」と呼ぶ、橋の上流側に立つ7本のコンクリート製くいが、濁流で続々と流れてくる大木や岩をせき止めて脚橋への衝撃を和らげていたとのことです。
この殊勲甲の「流木止め」写してきました。
この流木止めが「身代わり地蔵」の役目をした、実際何本かは損傷したようなので、立派にその役目を果たしたと云えます。
昭和30~40年代にこの桂川はたびたび洪水を起こしていたようで、国や自治体が堤防や川床を改修するときに、橋の上流の川底にコンクリート製、橋脚様の「流木止め」と云う杭7本が打ち込まれた。
これにより、上流より流れてくる流木が脚橋間を塞ぎ、橋がダムとなって橋自体を破壊し、流出することを防いだとみられています。
とは云え、渡月橋自体も頑丈な造りであったことは、云うまでもありません。実際、鉄筋コンクリートの脚橋には鋼板を巻いて補強もされています。
私の勝手な推測ですが、4本1組の脚橋だけでなく、その両側に斜めに立てられている支柱なんかも十分頑張って支えていたのではないかと思っています。
何はともあれ、建造から約80年もたった一見華奢(きゃしゃ)に見えるが、しなやかさを備えた渡月橋は残り、台風が通り過ぎた翌日の 午後には、はや人も通れるようになった。
この裏には、先人たちの知恵がいっぱい詰まっていたからだろうと思います。
因みに、この「流木止め」は「渡月橋」だけでなく、宇治市の宇治橋、時代劇の撮影によく使われる通称 "流れ橋" の「上津屋橋(こうづやばし)」、伊勢神宮の内宮の参道口にある宇治橋など、いずれも昔の由緒ある美しい木製の橋に設けられていさるそうです。
一般には渡月橋の架かるこの川は桂川と云われていますが、地元では渡月橋が架かる川は、「大堰川(おおいがわ)」と呼び、その上流が保津川下りで知られる「保津川」、そして渡月橋より下流を「桂川」と呼んでいます。
一本の川ですが呼び名が変わります。さらに桂川はその後、鴨川、木津川、宇治川と合流して淀川となり大阪湾に流れます。
大堰川に橋を架けられたのは、平安時代で法輪寺を中興した僧、道昌(どうしょう)で、法輪寺の門前橋であったことから「法輪寺橋」と呼ばれていました。
鎌倉時代には貴族の憩いの場となり、亀山上皇が満月の晩に舟遊びをされ、月が橋を照らす様をめでて、月が橋の上を渡るように見えることから渡月橋と名付けたとされています。
たび重なる水害や応仁の乱での焼失などを経て、江戸時代に京都嵯峨の豪商、角倉了以(すみのくらりょうい)の保津川開削にともない100mほど下流となる現在の位置に橋を架けかえられた。
昭和初期まで木製の橋だったが、1932年の洪水で橋の半分が流失したため、1934年(昭和9年)に今ある鉄骨鉄筋コンクリート製の橋として完成しました。
余談ながら、京都には“渡月橋を渡り終えるまで、後ろを振り返ってはいけない”という謂れがあります。
法輪寺は渡月橋の西にあり、京都だけでなく関西では十三詣り(じゅうさんまいり)のお寺として知られています。
十三まいりとは数え歳で13歳になった子どもの、大人の仲間入りを祝い心身ともに健康であるようにと祈り願う行事です。
全国的には七五三ほどは一般的でないようですね。
法輪寺に参拝し知恵を授ける祈祷をしてもらった帰りに後ろを振り向けば、「せっかく授かった知恵が舞い戻ってしまう」という京都では有名な言い伝えです。
現在も十三詣りした子どもたちが真剣な表情で渡月橋を渡っているようです。
月日の経つのは早いもので、こちらもすでに1年半になります。
2013年9月の台風18号で京都・嵐山の河川があふれ、名勝の渡月橋が今にも流されそうになったテレビ映像はご記憶の方も多いことでしょう。
もし、渡月橋が流されていたら、渡月橋がないと嵐山は絵にならないでしょう。こうなると嵐山は1~2年は立ち直れなかったのではないかと思います。
写真は1ヶ月後の10月に訪れたときの、渡月橋です。
檜でできた橋桁隠しが無残な姿になっていましたが、渡月橋は無事だった。
嵐山のシンボル、生命線とも云える渡月橋は台風のあの洪水に流されなかった。
逆に云うと、なぜ渡月橋はあの濁流に耐えられたのか。
渡月橋を写真のように遠くから眺めると、木製の橋のように見えます。
ヒノキでできた欄干や橋桁隠しの飾りがあることや、昔の木橋のイメージが出るように橋脚もほっそりと造られ、その間隔も約10㍍と短く配置されていて木橋の風情を損なわない工夫が施されているからだと思います。
しかし実際は、橋脚や路面は鉄骨鉄筋コンクリートでできています。
「渡月橋」と云う景観や観光目的で付けられたような優雅な名前の橋ではありますが、橋長は 155㍍ 幅は 11.2㍍の大きさで、 観光客だけでなく、市バスや大型観光バス、自動車がジャンジャン通る立派な京都府道29号線の一部であります。
このため頑丈に造られていて当然といえば当然のことなのです。
だが、コンクリート製の橋だから濁流に耐えたという単純な答えではありません。コンクリ橋でも濁流にのまれて崩れたと云う話しは台風のニュースなどでみることがあります。
それでは、渡月橋はなぜ生き残ったのだろうか。
地元の新聞に記事がありました。「流木止め」と呼ぶ、橋の上流側に立つ7本のコンクリート製くいが、濁流で続々と流れてくる大木や岩をせき止めて脚橋への衝撃を和らげていたとのことです。
この殊勲甲の「流木止め」写してきました。
この流木止めが「身代わり地蔵」の役目をした、実際何本かは損傷したようなので、立派にその役目を果たしたと云えます。
昭和30~40年代にこの桂川はたびたび洪水を起こしていたようで、国や自治体が堤防や川床を改修するときに、橋の上流の川底にコンクリート製、橋脚様の「流木止め」と云う杭7本が打ち込まれた。
これにより、上流より流れてくる流木が脚橋間を塞ぎ、橋がダムとなって橋自体を破壊し、流出することを防いだとみられています。
とは云え、渡月橋自体も頑丈な造りであったことは、云うまでもありません。実際、鉄筋コンクリートの脚橋には鋼板を巻いて補強もされています。
私の勝手な推測ですが、4本1組の脚橋だけでなく、その両側に斜めに立てられている支柱なんかも十分頑張って支えていたのではないかと思っています。
何はともあれ、建造から約80年もたった一見華奢(きゃしゃ)に見えるが、しなやかさを備えた渡月橋は残り、台風が通り過ぎた翌日の 午後には、はや人も通れるようになった。
この裏には、先人たちの知恵がいっぱい詰まっていたからだろうと思います。
因みに、この「流木止め」は「渡月橋」だけでなく、宇治市の宇治橋、時代劇の撮影によく使われる通称 "流れ橋" の「上津屋橋(こうづやばし)」、伊勢神宮の内宮の参道口にある宇治橋など、いずれも昔の由緒ある美しい木製の橋に設けられていさるそうです。
一般には渡月橋の架かるこの川は桂川と云われていますが、地元では渡月橋が架かる川は、「大堰川(おおいがわ)」と呼び、その上流が保津川下りで知られる「保津川」、そして渡月橋より下流を「桂川」と呼んでいます。
一本の川ですが呼び名が変わります。さらに桂川はその後、鴨川、木津川、宇治川と合流して淀川となり大阪湾に流れます。
大堰川に橋を架けられたのは、平安時代で法輪寺を中興した僧、道昌(どうしょう)で、法輪寺の門前橋であったことから「法輪寺橋」と呼ばれていました。
鎌倉時代には貴族の憩いの場となり、亀山上皇が満月の晩に舟遊びをされ、月が橋を照らす様をめでて、月が橋の上を渡るように見えることから渡月橋と名付けたとされています。
たび重なる水害や応仁の乱での焼失などを経て、江戸時代に京都嵯峨の豪商、角倉了以(すみのくらりょうい)の保津川開削にともない100mほど下流となる現在の位置に橋を架けかえられた。
昭和初期まで木製の橋だったが、1932年の洪水で橋の半分が流失したため、1934年(昭和9年)に今ある鉄骨鉄筋コンクリート製の橋として完成しました。
余談ながら、京都には“渡月橋を渡り終えるまで、後ろを振り返ってはいけない”という謂れがあります。
法輪寺は渡月橋の西にあり、京都だけでなく関西では十三詣り(じゅうさんまいり)のお寺として知られています。
十三まいりとは数え歳で13歳になった子どもの、大人の仲間入りを祝い心身ともに健康であるようにと祈り願う行事です。
全国的には七五三ほどは一般的でないようですね。
法輪寺に参拝し知恵を授ける祈祷をしてもらった帰りに後ろを振り向けば、「せっかく授かった知恵が舞い戻ってしまう」という京都では有名な言い伝えです。
現在も十三詣りした子どもたちが真剣な表情で渡月橋を渡っているようです。
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