超スローカーブ

更新が遅れても仕方ないと予防線を張ったつもりの、私ことブリダイが世相や身近な出来事について斜め切りしたごった煮

東大寺大仏殿の寄木柱

2015-12-17 02:05:56 | 古きもの
先日は奈良の大仏さまの螺髪のことを書きましたが、今回はその
建物、つまり大仏殿について書いてみます。

 世界最大の木造建築物といえば、東大寺大仏殿 でしょう。
 その大仏殿と大仏さまはこれまでに2度の大きな戦に巻き込まれ
て焼け落ちています。現在の大仏殿は江戸時代になりやっと再建さ
れたものです。



 最初の戦火は、源平争乱期(1180年)に、平重衡(しげひら)が
南都焼き討ちを行った際に興福寺は全焼し、東大寺も大仏殿をはじ
め数多くの堂塔を焼失しました。
 このとき大仏の頭と手が転げ落ちてしまいました。
 俊乗坊重源という僧が再建資金確保するため寄付集めから、再建
工事の指揮まで行う尽力によって、5年後に大仏さまと大仏殿をを
再興されました。
 1185年に後白河天皇も出席した大仏開眼法要が行われました。
そして、1190年には源頼朝が出席する大仏殿再建の落慶法要が行わ
れました。

 ところが1567年に2回目の戦火を浴びることになったのです。
 それは松永久秀と三好三人衆の戦いにおいて、久秀の兵火によっ
て大仏殿および大仏さまは前回よりもさらに大規模な被害を受けて
しまったのです。
 この戦国時代の二度目の火災に遭ったときは、資金的にも苦しく
て復興事業はなかなか進まなかったようです。
 大仏殿はとりあえず仮堂で復興したのですが、運悪くすぐに大風
に遭い倒壊してしまったのです。
 そして大仏さまの方は銅で鋳造した頭部を造ることができず、苦
肉の策なのでしょうが、信じられないことに、銅板で作った仮モノ
の頭部であった様なのです。
 大風で倒壊した大仏殿の復興もままならず、結果として、大仏さ
まは雨ざらしのままで、その姿も無惨なまま、百数十年もの長い間
放置されていました。
 そしてようやく、江戸時代の僧、龍松院公慶の尽力によって再建
されることになるのです。1691年に大仏さまが、1709年には大仏殿
が完成し現在に至っています。
 このため冒頭に書きましたように、現在の大仏さまと大仏殿は江
戸初期の再建のものになります。





 ここからが本題になるのですが、江戸期の再建にいたる頃は、多
くの寺院がたび重なる戦火による焼失と再建を繰り返していて、大
仏殿を組み上げるような大木がすでに無くなりつつあり物理的に調
達できない状況でした。
 そこでどうしたかと云えば、写真の様な現在いうところの集成材、
すなわち寄木細工をおこなったのです。



 長さ方向には、二本ないし三本の柱材を継ぎ合わせて芯材としま
した。
 太さに関してはその芯材の周りにぐるりと柱を巻き付けて太くし
ました。そしてこれを写真の様に鉄の帯で締め付けて一本の長くて
太い柱に仕上げたのです。
 大仏殿にはこの様な寄木柱がなんと60本ほどあるそうです。
 こうしてこれまでの様な大きな東大寺大仏殿を再建したのです。
 それでも、創建当初から比べると、約86.1 m あった横幅が3分の
2程度の 57.5 m 程度に他も全体的に規模は縮小された再建だった
のです。
 規模が縮小されたとは云え、それでも世界最大級の木造建築物で、
国宝に指定されています。

 今回のブログを書いていて、ひと口に、「再建された」で済まさ
れていることにも裏ではたいへんな事があるのだ知りました。
 まず資金の寄付集めから始めて、戦火により建物の資料もままな
らない状況下で、おまけに、肝心の柱になる大木探しを近くから遠
方にまで手を尽くして探しまわります。
 最終的には集成材にするにしても芯になる柱は出来るだけ大きく
て長い柱が必要です。
 またそのたくさんの木材の運搬が今とちがいたいへんです。
 そして、宮大工さんの手配から実際の建築工事まで、完成までに
はたいへんな工程が続きます。
 再建指揮を担った、1回目の重源さん、2回目の公慶さんと、その
工事に関係された方々のたいへんな苦労が察せられました。
 そして、どちらの再建にも多くの寄付が集まったことです、当時
は今以上に寄付文化が根付いていたことなども新しい発見でした。

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