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更新が遅れても仕方ないと予防線を張ったつもりの、私ことブリダイが世相や身近な出来事について斜め切りしたごった煮

近江神宮初詣と宇佐山ミニ登山 その3 (近江神宮)

2014-02-07 15:10:48 | 歴史探訪
  「宇佐八幡宮」からつづく

 ひとり、宇佐八幡宮より下山して、途中に近江神宮への近道らしき道もあったが、来た道を橋の所まで戻り近江神宮への正規の参道(?)を通って近江神宮まで行った(笑)





   「中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)」
 中大兄皇子(後の天智天皇)は、中臣鎌足(なかとみのかまたり・後の藤原鎌足)と共に、専横がつづく蘇我一族を倒した。これを「乙巳(いつし)の変」と呼ばれている。
 余談ながらこのような名前が付けられているとは知らなかった。学校では「大化の改新」の年号は645年と覚えていた。そしてこれは蘇我入鹿等を暗殺した年なので「暗殺」が「大化の改新」?と多少の違和感を長く感じていた(笑)

 その後「大化の改新」を断行した中大兄皇子は、以後20年にわたり「称制(しょうせい)」つまり即位せずに皇太子として政治を行った。
 663年に百済を救うために朝鮮に出兵したが「白村江(はくすきのえ)の戦い」で、唐と新羅の連合軍に大敗してしまった。
 いつ連合軍が押し寄せて来るかと云う緊迫した状況のなかで、飛鳥から近江へ遷都を行い、大化の改新から17年後の667年に即位して天智天皇となった。
 こうした状況で近江大津宮が誕生した。



 「白村江の戦い」で大敗した後、664年に国土防衛の政策の一環として対馬・壱岐・筑後国に水城(みずき)や烽火(のろし)・防人(さきもり)を設置した。
 一方、大津宮では、我が国の憲法の基礎となる「近江令」を制定。学校制度を創始して国民の教育の道を開き、日本初の戸籍である「庚午年籍(こうごねんしゃく)」の制定、農地制度の改革ともいうべき「班田収授の法」を施行するなど政治改革を行った。 
 また当時最新の科学技術を駆使して産業振興を図られるなど、次々に新時代に向けての政策を推進され、政治経済の改革・学芸文化の創造発展に寄与された。

 国内外の困難ななかで画期的な政策を推進し、日本の運命を導かれたことから、天智天皇は開運の神・導きの神として、また産業・文化・学問の神として崇敬されていった。

    「近江神宮」
 その38代天智天皇を御祭神として、皇紀2600年を記念して同年にあたる1940年(昭和15年)11月7日、昭和天皇の御勅許を賜って創建されたのが、この近江神宮なのだ。
 因みに近江神宮は昭和天皇により創立された唯一の官社である。 近江神宮は全国16社の勅祭社の1社であり、4月20日の例祭には天皇陛下の御名代として宮中より御勅使を御差遣(ごさけん)いただいているとのこと。

 御鎮座が昭和15年なので神社としての歴史は新しいが、滋賀県・近江国の発展は大津宮に都をおかれたことに始まるとして、明治30年ころより滋賀県民の間から天智天皇をまつる神宮の創建運動が高まり、昭和に入って昭和天皇の御勅許を賜わり、滋賀県民を始め全国崇敬者の真心の奉賛(ほうさん)により創建された。

 かつて大津宮が置かれていた錦織遺跡の近く、森に囲まれた境内地は約6万坪(20万㎡)あり、朱塗りの楼門や社殿は近江造りあるいは昭和造りと呼ばれ、山麓の斜面に本殿・内外拝殿を回廊が取り囲み、近代神社建築の代表的なものとして、国の登録文化財に指定されている。

   「漏刻(ろうこく)」
 また、天智天皇が日本で始めての時計「漏刻」(水時計のこと)を造ったことから、時の祖神、時計の守護神として、崇敬を集めている。
、近江朝廷に「漏刻」を設置して、鐘太鼓を鳴らして時を打ち、初めて国民に社会生活の基本である時報を知らせた。









 これが日本の時報制度の始まりとされる。
 以後、全国の鎮守府にも漏刻が設置されていった。
 この日を記念して、毎年6月10日は「時の記念日」として1920年(大正9年)に制定された。
 毎年この日には近江神宮を時の祖神として崇敬する時計関係者の方々が中心となり、賑々しく漏刻祭が斎行されている。
 また、境内には「時計館宝物館」が設けられ、和時計をはじめ各種の古時計などを展示されている。また境内に設置された水時計や日時計や火時計は、時計業界からの献納とのこと。

   「小倉百人一首・かるた祭」
 さらに、小倉百人一首の巻頭歌(第一首目)として国民に親しまれている「秋の田の 仮庵(かりほ)の庵(いほ)の 苫(とま)をあらみ わが衣手(ころもで)は 露にぬれつつ」は天智天皇御製ということに因み、「かるた祭」や競技かるたのチャンピオンを決める名人位・クイーン位決定戦が毎年1月にここ近江神宮で行われている。
 この正月の名人位・クイーン位決定戦はテレビで毎年放映されてよく知られるところとなってきた。
 このほかにも高松宮記念杯歌かるた大会・高校選手権大会・大学選手権大会なども 開催されている。
 百人一首・競技かるたとのかかわりが深く、競技かるたを題材にした漫画・アニメ「ちはやふる」の舞台ともなった。

   「天智天皇陵」
 ついでながら、天智天皇の陵墓は京都山科にある、なぜ京都なのかといろいろな説もあり議論もされているようだが、、私は単純に「天智天皇の没年は672年で、天皇が亡くなった直後には壬申の乱が勃発したため、陵墓の建設は遅れ、死後28年を経た699年になってから着工したとの説もあるが、それでも平安京ができる90年以上前のことになる。つまり陵墓が先に山科に出来ていた」と考えていいのではないかと思う(笑)。
 現在の区割りでは他県になるが、大津と陵墓のある山科は案外近い位置関係にある。
 それに、山科は天皇の腹心だった「中臣鎌足」の本拠地として古くから開発されていたところなのでこんな事も案外関係したかも知れない。。
 また、天智天皇陵は被葬者に疑いがないとされる、数少ない天皇陵の一つであり「十陵の筆頭」つまり、重要な御陵の内でも一番目として、歴代の朝廷から奉幣(ほうへい)が行われ、平安時代を通じて、その忌日には一般の政務を停止し、崇福寺(すうふくじ・今は廃寺)での法要に当ることになっていたようだ。
 このことからも、後世に至るまで歴代天皇のなかでも格別の位置に置かれていたことがうかがわれる。
 また歴代天皇の即位に当っての宣命には、かならず天智天皇のことに言及されるなど、皇室の歴史のなかでも特別崇敬の深い天皇であられたようだ。
 
 余談ながら私は若い頃の一時期に、天智天皇陵のある山科の御陵(みささぎ)に住んでいたこともあったのだが、御陵地に足を踏み入れたことは一度もなかった(笑)


 石段を上がったところに朱塗りの大きな楼門が見えた。
 やはり、昭和の建築だけに、立派な造りではあるが、昭和ならこれ位は出来るだろうと、頭が先に判断してしまい、古い山門をくぐるときとは少し違う感覚があった。
 楼門からさらに進むとまた、石段があり、外拝殿があった。
 外拝殿ながら、その造りと大きさはやはり県下一のものであった。 普通はここで参拝するが、その向こうにあるのは、本殿ではなく、内拝殿であり回廊で結ばれている。そしてさらに奥に見えるのが本殿である。
 なので、本殿はほとんど見ることはできない。















 
 メンバーより一足早く近江神宮に参拝して、写真などをひと通り撮り終わったころに皆が到着した。
 楼門前の石段のところで集合写真をとり、そのあと各自それぞれ祈願して今年の初詣を終わった。

終わり

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