ブルゴーニュにうってつけの日/ANGEL'S SHARE

世の中にワインと称するお酒は数あれど
やっぱりブルゴーニュに勝る銘醸地は無しと
思うワイン日記

『春の雪』

2005年10月30日 | Weblog
公開第一週の週末なのに観客はまばら。こりゃオオコケ確定?でも思ったより上出来だと思う。宣伝が足り無いんじゃないの。確かに一般受けはしない題材だから仕方ないのかなぁ。豊饒の海の第1巻という位置付けでないのが物足りない。実際に製作できるかどうか別にして原作の様に60年の時間軸に渡る輪廻転生の壮大な物語絵巻のプロローグとしてもっと色々仕掛けを作って味付けした方が楽しめた。松枝家の書生役の飯沼が出てこないしもっとハッキリしているのは転生の証し清顕の身体的特徴の脇下の三つのホクロも無視されている。最初から続編作るつもりがないのだなぁと判ってちょっと残念。視点も原作は本多繁邦から観た視点から描かれているが映画の方は本多の立ち位置がちょっと曖昧、だから最後の場面で月修寺の門跡が清顕には会わないのに本多には会っているのが生きてこない。ラストも”松枝清顕は二十歳で死んだ“というナレーションか字幕スーパーが入るもんだと思っていたら何にも起こらずエンドクレジットが流れて拍子抜け。行定作れよ『奔馬』を!
土曜の昨晩は『寅さん』は留守録にして『Z』の続編を観た。こちらはお客さんは一杯。一作目に比べて新作部分が多い。相当編集していてストーリーはTV版と最早別の展開。キャラの性格付けも相当変えている。来春の完結編が楽しみになってきた。でも映画としてはイマイチの出来。世界観の構図の説明が殆ど無しだからファンとオタク以外は展開についていけないだろう。なんで戦争しているのかさえ予備知識ないとわからないと思う。そういうところは割り切って最初からガンオタ向けに作っているのだろう。今秋は豊作、観たい映画がまだまだある『モンドヴィーノ』『TAKESHIS』『ヴェニスの商人』は近々見にいくぞ。
閑話休題//アクセス数が増えたので、なんでかなと思ったら『春の雪』のこと書いたせい。他人のブログも覗いてみたが、現代の若者たちの無教養さに改めてあきれる。松枝家、綾倉家の“両皇族の二人”と勘違いして書いてある奴がいた、皇族と華族の違いも理解出来ていない。同じ華族でも綾倉家のような堂上家と維新の勲功で華族に列した松枝家の家格の違い、そういうことが話しの味付けになっているのを判った上で観ないでこの悲恋話の意味はわからん。(三島がモデルにしたのは西郷従道侯爵家)これじゃ天皇制も危ういわけだ、皇室制度の危機は国家の危機なんだけどなぁ。あと三島文学のキモであるタブーに触れる、それが美とエロスの至極、すなわち絶対者に触れることにより生の歓喜を得て同時にタブーを犯すことにより死を受く、それが美の絶対的境地に他ならん。三島が生前最後の対談のなかで喋っている美・エロス=死という観念の体現した文学がこれ。その美とエロスへの到達が『春の雪』では清顕の恋であり、『奔馬』では勲の革命への情熱、『暁の寺』ではジン・ジャンの肉欲そのもの、そして『天人五衰』の透でそれは・・・というのがこの作品の基本プロットだけどそれがこの映画で伝わるのかしら?
春の雪


『私が愛したウルトラセブン』

2005年10月27日 | Weblog
EVAは卒業したがCRウルトラセブンからは今だ卒業出来ていない。スペックが強烈で巷では廃人製造仕様と言われている。確変が保証されていないのでなんじゃそりゃと言いたくなる場面も多い。もう2度と許可されないと言われているギャンブル性の故、EVAに比べるとゲームバランスは最悪だがでも僕らの世代はセブンが大好き。(ホンとは少し上の世代だろうけど)台の上のギミックの役物アイスラッガーがピカーって光ってデヤァーと叫ばれるちょっと脳みそが麻痺する。懐かしさのあまり最近少しずつDVDを買って観ている。アンヌには幼心がトキメイタがDVDを観ると御肌荒れ荒れ、実相寺監督が激怒したのが良く解かる。いやらしいことに実相寺監督はそのアンヌの酒焼け御肌をわざとUPで撮影しまっくているから今観ると実相寺が撮った回はアンヌのアップが多いがまさしくクレーター状態の悲惨な状況。今日はVOL.9を買った。市川森一が脚本を書いた有名作品を収めている。予算不足で敵を出さない設定の制約が傑作を生んだ伝説の1本。最後にマヤの押したジュークBOXのボタンはJ7、ジュークBOXの本来Iがある場所には何故かアルファベットのIが無い。つまりI=ウルトラアイ=愛が無いという謎掛け。ということを今回初めて知った。こんな事幼稚園児のガキには判らんよ!その後の最後の映像でダンが夜の街を一人走る場面はとても印象深い。幾つになっても思い出すとせつなくなる。シリーズ屈指の名場面。DVD買って良かったと思えるなぁ。しかし今住んでる所からすれば藤沢に行けばその名もダンの店、調布に行けばアンヌの旦那の中華屋、どちらも1時間足らずで行こうと思えば行ける。運が良ければ当の本人に会えるかもしれない。でもまず普通は行かない。役柄と演じる役者を混同しても仕方が無い。
禿げたダンや年食ってすっかり草臥れたアンヌ見たってなんの感動も無い。役者はイイ作品に恵まれイイ演技すれば作品の中に永遠の生命を持ち続ける。それで充分でしょう。現実とフィクションを一緒くたにしてたら切りが無いと思う。
NHKドラマ 私が愛したウルトラセブン(DVD2枚組)

『男はつらいよ』etc.

2005年10月22日 | Weblog
ここ最近の週末の楽しみはBSで『男はつらいよ』シリーズを見ること。全作品をBSで
毎週土曜日に放送。外出してても放送時間に合わせて走って帰る。しかし『寅さん』に嵌まるなんて年とっちゃったなぁ。でもこの究極のワンパターンが見ていて何故か心地よい。そんな年齢になっちゃった。喜劇役者渥美清の偉大さを改めて認識。寅さんのことは誰もが知っていても年寄り以外はあまり男はつらいよなんてちゃんとみたことないだろうね。映画オタクの金正日のほうが余程、眼が肥えている。

『バルトの楽園』その2

2005年10月19日 | Weblog
昨日どこかのNEWSで映画『バルトの楽園』にブルーノガンツ出演決定との記事が…
ロケは12月からになったみたいだが正月はロケ休みだろうなぁ。ブルーノガンツに逢いたいなぁ。でも6月公開って編集大丈夫かいな。
http://www.city.naruto.tokushima.jp/fd/gakuen/top.htm

『ステルス』

2005年10月17日 | Weblog
内容を云々してはいけない映画。その特撮のドライブ感だけ楽しめば良い映画。
そういう意味では面白かった。風邪を引いたので朦朧としながら観た。おかげでちょっと
気持ち悪くなった。季節モノとして大井の“布恒更科”でかきそば食ったが、残念ながら鼻が利かず味気ないものだった。お銚子頼んだのが悪く、頭ががんがんして熱が出た。
大事な用件がなきゃ休みたいところだ。

京王堀之内『車屋』

2005年10月11日 | Weblog
八王子の有名店。ちょっと遠いが遠征してきた。古民家を移築した佇まい。御酒も東京ではめずらしく奈良の銘酒『春鹿』も置いてある。つまみも豊富。車で来た方が便利なところだが、お酒と蕎麦を楽しめる。鴨南蛮がウリのひとつ、当然それを注文。鴨はつくねもロースもたっぷり入っているが、鴨肉のロースが二枚別皿についてくるのがイイ。粒マスタードで食べるのも良し。蕎麦ツユの中に追加でいれても良し。こういうのは初めてだった。蕎麦はまぁまぁ、鴨はつくねがいまいちだった。あと気になったのが鴨ねぎというくらい鴨と葱の相性はいいがその葱がイマイチだったこと。鴨なんには太目の葱の白い処だけをざくぎりしたのを軽くあぶったものが抜群に相性がイイと思うがここのは少し煮込みすぎで青いところも沢山入っていた。御値段は八王子では高いという人もあるがまあこんなものだと思う。近くにあったら通ってもイイ店。

日々是平穏

2005年10月07日 | Weblog
今日はよく考えたら誕生日。特に感慨も無い。今夜はシャンパンでも飲むかそれともそろそろ朝晩ひんやりしてきたし“布恒更科”に行って抜きおろしでキュと熱燗でも遣るか、毎日、可もなく不可もなく日々是平穏。ここに来てエヴァウイルスからもようやく立ち直りつつある。それにしても強烈なウイルスでわずか1月ほどで少ない蓄えを全部吐き出してしまった。そんな自分が“信じられないわ”

映画「みやび~三島由紀夫」

2005年10月04日 | Weblog
渋谷ユーロスペースで一日一回のみ上映。こんなドキュメント映画でも観る人いるんだね。がらがらだろうと思ったら結構人がいた。三島ブームなんだろうか?もうすぐ『春の雪』も公開される。映画自体はわざわざお金払うまでもない代物。三島の長女の学習院時代の同窓だった能役者、狂言師。作家の平野啓一朗、中国人の文学者、イタリアの日本研究者、あとよく知らない演出家、女優、芸術家、ユニークなのは一般人の高校の美術の先生。三島の同世代というより幼い頃に三島事件に衝撃を受けその後三島文学に惹かれた人たちのインタビューを集めたもの。でも一番面白かったのは神戸星陵高校の美術の先生の話、この人何者なんだろうと思いながらみてたら中盤で実は事件のあと出版された三島由紀夫と高校生とかなんとかいう新書に印象的な投稿をした人だった。その文章が読み上げられるがなかなか興味深かった。最近実家の押し入れから取り出した三島の文庫本をいくつか読み返したが現代では三島文学というのが事件を抜きにしては語りえないものになっているのに改めて気づいた。初期の作品の頃からその最後のイメージが到る所にちりばめられて実際本人がそのとおりに自作自演して死んじゃっているのでその文学に新たな意味が生まれている。同時代的には作品の美意識は人工的でレトリックは秀逸だが作品自体にはリアルさが無いという批評をよく目にしたが、自決以降は十代の作品までさかのぼっても統一された死へのメタファーが背景にあることが読み取れる。皮肉なのは本人は文学は捨て武人として死ぬことを望んだが、武士ならあんな用意周到な死に方はしないし出来ない。几帳面な性格が災いして完璧な型の自決を試みたおかげで返ってその死は文学的なコードでしか語られなくなってしまっているのは悲劇なのだろうか喜劇なのだろうか?来春には長らくお蔵入りしていた映画『憂国』が新潮社からDVDで発売されるらしいのでいまから楽しみ。しばらくこのブームは続く予感。