核・戦争のない世界!!

2024-05-27 10:43:42 | Weblog
 
「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)
                             1995年8月15日
  いま、戦後50周年の節目に当たり、われわれが銘記すべきことは、来し方を訪ねて歴史の教訓に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らないことであります。
 わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。

 

 
南京大虐殺 

 
南京大虐殺(マギーフィルム)
パネー号撃沈






 重慶爆撃               
原爆投下や東京大空襲ばかり取り上げて、 日本のテレビや教科書が重慶爆撃を取り上げないのは問題だと思います。 (視聴者のコメント)

 

 

731部隊 

731部隊展


 原爆    
 
今も傷む背中の傷 目をそらさないで聞いて 原爆を背負って(1)


被爆者がいない時代に ~再掲に寄せて~
 被爆直後の真っ赤な血で染まった背中の写真で世界に知られた谷口稜曄(すみてる)さん=2017年に88歳で死去=は、16歳で長崎原爆に遭ってから「一度も熟睡したことがない」と言っていた。
 原爆の熱線で焼かれた背中の傷は完治せず、痛みからあおむけで眠ることはできなかった。うつぶせになれば床擦れでむき出しになった左胸の肋ろっ骨こつが心臓を圧迫し苦しい。右を向いて横になり、体勢を微妙に変えながら浅い眠りについた。


 
 
 

日航123便の怪(1985年8月12日)


 

     
 
●東京帝国大学伝染病研究所
  
伝染病研究所の写真は、『傳染病研究所』小高健著より

 ●東京帝国大学伝染病研究所『実験医学雑報』

・東大伝研とは戦前、どんなことをやっていた機関なのか?

・1934年6月、宮川米次と阿部俊男は何をしに満洲国へ行ったのか?

・満洲衛生技術廠とは、一体何をやっていたところなのか??

・東大伝研は731部隊と連携を図っていなかったのか??

・伝研で毒ガスの講演?毒ガスへの対処法も考えることになるのか??

・小島三郎の渡満では、満洲衛生技術廠や大連衛生研究所にもいったのだろうか?

・1933年頃から細菌兵器開発の一環として、「満洲」の背蔭河では人体実験が行なわれているが、そこでも赤痢菌の研究が行なわれていたのだろうか?35年の川崎市の爆発赤痢は、人為的に行なわれたものなのか?それとも自然流行なのか?

・1936年5月に浜松一中で大福餅事件、37年9月に大牟田で爆発赤痢事件が起きているが、これなども細菌兵器・研究の一環として軍医学校や伝研の関与による仕掛けられたものか、自然に発生したものか究明する必要がある。

・1936年5月と37年9月の両事件に、小島三郎が出張しているが、果たして何をやったのであるか??

・河本禎助も毒ガスの研究をしていた。

・1938年6月1日の伝染病研究所で石井の厚意によって上映された映画には、731部隊の生体解剖でも映っていたのでであろうか?
精神的緊張裡とは、何のことだろうか?
 ・実験医学雑報20巻 第7号(1936年)
本所職制改正
この度本所では職制を次の如くに改正し7月より実施することとなった。
*特別研究室とは何だ??
・中込亘は、731部隊で細菌に感染して死んだのだろうか?
 
雑報6号(23巻、1939年)
伝染病研究所創立41周年記念日に当り医学界を展望して所感を述ぶ
                     宮川米次
1,緒言
本日並びに本所創立41周年の記念祝典を挙ぐるに当たりまして、所懐を述べますることは、私の欣幸とする所であります。聖戦第3周年に当たりまして。諸君と共に、畏れ天皇陛下の万歳を寿ぎ奉り、皇軍の武運長久を祈り、併せて本所の益々発展せん事を庶幾うものであります。事変以来、本所員として5月末日迄に応召せられました方が37名、現在応召中の方が30名、芽出度く凱旋せられた方が7名でありまして、今日までは本所員としては何れも武運強く、戦死、戦傷等を蒙った方もなく、多くは第1線に御活躍になり、目覚ましい勲功を樹てられていらるることを承りまして、感謝感激に堪えないと同時に、衷心よりご健勝ならんことを祈る次第であります。
 
 
 
 
 
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
吉田裕監修  
2001年ピュリッツァー賞受賞 
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。
 
好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
 戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!   
 
第3部   陛下の戦争
1931(昭和6)年―1945 (昭和20)年  
 
第7章 満州事変
 
 
1931年当時、天皇は臣民に君臨するというほどの統治を実際にはしていなかったというのが妥当である。天皇の行動は、現状に遅れがちで、一貫せず、自己矛盾していたのである。些細なことに大権を行使し、より重大な問題で反抗的な陸軍将校に譲歩をした。天皇は満州事変を画策した参謀将校よりも日本経済が欧米に依存していることを理解していたため、外交的な孤立や経済制裁を懸念していた。しかし、公的にも、私的にも、けっして満州での陸軍の行動が間違っているとは言わなかった。
 
 
 
 

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