Ⅲ 日本における生物・化学兵器の歩み
2、 生物・化学兵器の種類と特性
ガス弾射撃及び放射
(1)ガス弾射撃 各種火砲により実施する方法で、ガス効果と破片効果が期待される。
(2)ガス放射 放射筒及び缶などによる方法で、発見されやすく、行動も困難である。
ガス手榴弾・・・近接戦闘において局部的に随時使用される。
ガス地雷・・・・敷設するために時間と労力を要する。
ガス器散・・・・車両または携帯散布器により行われる。発煙機。放射機を利用する場合もある。
以上が戦用ガスの種類及びその特性と代表的な使用手段である。(発煙剤及び焼夷剤については省略する。資料の付2表参照)
第5代衛生学校長
井上義弘【1904~1969(65歳)、石川県出身
1929年に台北医専卒、陸軍見習士官を経て1931年3等軍医、1938年軍医中佐、その間、陸軍軍医学校教官、陸軍医務局課員、シンガポールに設置された細菌戦部隊(南方軍防疫給水部9420部隊)に所属、戦後、第1復員省、厚生省復員局勤務、1953年復員局から保安庁に出向、陸上幕僚監部衛生課長、陸上自衛隊衛生学校第5代校長、陸上幕僚監部衛生監を歴任1960年退官。近代5種競技世界選手権大会(ブタペスト)に日本選手団長として参加中、1969年9月急逝。1969年日本体育協会近代5種・バイアスロン連合会副理事長となり、専門の体力医学の分野で活躍】
第4代衛生学校長であった金原が1957年12月突如転任(『大東亜戦争陸軍衛生史』を編纂するため、膨大な旧軍資料を集め、又戦後に日本独自の細菌戦部隊の復活させようとしたことが原因か??)になり、第5代の衛生学校長になったのが井上だ。両人とも戦時中の細菌戦部隊にかかわった人物である。それも金原は細菌戦部隊の指導的な立場にあった。それがアメリカの圧力か何かで、衛生学校長の職を解任され、その後を井上が引き継いだ。
井上は、自衛隊に保管されていた731関連の資料を自宅に持ち帰り、保管していたが、ブタペストで急逝したため、何も知らない遺族がそれらの資料を廃棄してしまった。ところがそれが神田の古書店に行きつき、某大学の研究者の目に留まり、その大学で買い取った。そこで改めてその資料を検証すると、731部隊の毒ガス実験等の論文があった。某大学では、その買い取った731関連の資料や、731部隊のデータを使って書いた論文等は、以前はその大学研究者は許可を得て見ることができたが、今ではそれらを見ることができなくなっている。
又、京大の次に多くの医学者を731に送った東大も細菌戦に関する資料を公開せず問題になっている。
東京医大等の不正入試だけでなく、大学医学部の戦中の細菌戦関連の資料の隠蔽も今、大きな問題になっている。
※1955年に二木秀雄が精魂塔を多磨霊園に建立し、731部隊の戦友会「精魂会」が発足した。
1950年には日本ブラッドバンクが内藤良一(元731部隊員)らによって設立され、元731部隊員は復権に向けて動き出している。
南方軍防疫給水部(岡9420部隊)
●昭和天皇(ハーバード・ピックス著『昭和天皇』より)
吉田裕監修
※昭和天皇は、平和主義者でもなんでもなかった。好戦的であり、常に軍部に色々と指示を出していた!!
戦後補償問題に国家無答責という天皇主権の明治憲法下の原則を適用するな!!
第1部 皇太子の教育
1901(明治34)年―1921 (大正10)年
第2章 天皇に育てる
Ⅴ
皇太子の教育過程には終わりがなかった。その最終目標は、政府と統帥部から提出される政策文書に示された判断と決定を、文書の作成過程をめぐる政治的闘争や対立の外に立って理解し、現実的に評価できるようにすることだった。さらに無敵で神聖な日本の政治組織に均衡を保たせ、官僚間の派閥抗争を統合と合意に導けるようにすることだった。このような機能を果たすのに、彼は論理を重ねて疑点をただし、理論的に討議するという方法は取らないだろう。というのは、日本の指導者たちは、問題をはっきりさせ、論争を解決するために議論が効果的だとは信じていなかったからである。むしろ彼は、文武にわたる自分の詳細な知識と聖なる権威とが、どのように論争を合意に向かわせるかを学び、それによって役割を果たすようになる。彼がその役割を適切にこなしてゆけば、その決定と意思は支配機構内のすべてのグループに浸透し、一致が生まれるはずだった。その際、自身の平凡な身体の特徴―ほっそりした体格、甲高い声、ごく平均的な知性―がうまく作用して、皇太子を危険な神話的宣伝から引き戻し、現実につなぎ止めておく錨のように働いた。皇太子は物事を直感的に理解するような人物ではなかったが、必要に応じて短時間に、十分学ぶ能力は身につけた。
日本国憲法9条
第9条【戦争の放棄、戦力及び交戦権の否認】
RENUNCIATION OF WAR Article 9.