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この世の地獄!731部隊・南京大虐殺

2010-07-09 07:29:18 | Weblog
 
 日記@BlogRanking

日米間の密約はまだまだ存在する!!
全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
武器よ!さらば!沖縄の米軍基地撤去!
               
「怨」

きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)

新しい日本!!
「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)
(時効なき戦争責任・戦争犯罪)

●731部隊
『731部隊の生物兵器とアメリカ』
(バイオテロの系譜) 2003年発行
(ピーター・ウィリアムズ / デビッド・ウォーレス=著 西里扶甬子=訳 かもがわ出版)
◆40年後の731部隊関係者
◆血液銀行からミドリ十字へ
 731部隊の2代目の隊長だった北野政次元中将は、戦後かつて彼の部隊のための人材スカウト係だった田宮猛雄の下でワクチンの製造会社を作ったが、破産させてしまう。しかし、朝鮮戦争が始まって間もなく、一時はマリー・サンダースの通訳だった内藤良一が日本血液銀行を設立し、北野も参加するよう頼んだ。北野は東京支店長になった。日本血液銀行を設立する前に自分の医院を開いた内藤は日本の医学界で有名になった。彼は血液銀行を、非常に成功した多国籍企業ミドリ十字に変身させた。大阪ベースの国際的医薬品製造の大会社で、多くの731部隊の元隊員を雇い入れ、インターフェロン、プラズマ、人工血液などの製造を専門としている。内藤はこの会社の副社長となった。北野も重役に名を連ねた。1973(昭和48)年に内藤はこの会社の社長となり、1978(昭和53)年には会長になった。この会社の1985(昭和60)年の推定利益は60億円だった。ミドリ十字は大規模な研究所を持つロサンジェルスのアルファ・セラビューティック社やイングランド州ノーフォークのアルファ・セラビューティック英国社などの子会社を持っている。
※内藤らが設立したミドリ十字は大きな医薬品会社になったが、そこで行われた臨床試験などは731部隊で行っていた人体実験と本質的に変わらない人権無視の試験だった!!
ミドリ十字(ウィキペディアより)
 関東軍防疫給水部731部隊で活躍した内藤良一が中心となって設立。人工血液製剤製造のトップ企業となる。
1967年に赤痢予防薬の臨床試験を陸上自衛隊員を対象として行った結果、1089人中577人に急性食中毒が生じた。また、人工血液製剤の承認を求める際に厚生省に提出したデータに改竄の痕があり、その調査の過程で瀕死の女性患者に人工血液を未承認のまま投与する人体実験をしていたことが明らかになった。
内藤良一の死後、厚生省薬務局長を務めた松下廉蔵(社長に就任)など多数の厚生省出身の天下り官僚らにより経営の実権は握られることとなった。具体的には、当時の副社長には元薬務局細菌製剤課長補佐、取締役には元薬務局企画課長補佐、薬事部長には薬務局経済課長補佐経験者などがいた。政・財・官の癒着構造が、当時血友病患者らによってエイズ感染の危険性を指摘され始めたにもかかわらず、非加熱製剤の使用を許容させ、また当時は加熱製剤自体が新商品であった要因も加わり、ミドリ十字をはじめ、化学及血清療法研究所、バクスタージャパン(日本トラベノール)、日本臓器製薬、カッタージャパン(→バイエル薬品)など主だった企業による薬害エイズ事件が引き起こされることとなった。
なお薬害エイズ事件など一連の問題で経営が悪化し、1998年に吉富製薬に合併され(事実上救済合併)、法人格は消滅した。その後三菱ウェルファーマとなり、現在は合併して田辺三菱製薬となっている。
●南京大虐殺   
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
目撃された虐殺の凄まじさ
謝金文(男、71歳)の証言
 1937年の暮れに、日本軍が南京を占領する前に、家中の者が既に南京を離れ安徽省(あんきしょう)の含山県に避難しました。私は左足が自動車にひかれて傷し変形して、松葉杖を突いているのと、私は大豆のもやしを造るので、家には7部屋のわらぶきの小屋と、木の桶が百余りと、大きなかめが6つあって、看ている必要があり、それで私は行きませんでした。1938年の1月と2月に、私は隣近所の人たち4人が、前後して日本軍に殺害されるのをこの眼で見ました。
1、劉小三子は、殺された時40歳余りでした。彼は豆もやしを造っていて、ある日元々は国民党の倉庫だった所(今の南京刀具廠や内燃機配件二廠の場所)へ食べる米を背負いに戻って行きましたが、その時は倉庫の戸が開いていて、管理している人が無く、劉が倉庫の門を出る時に日本軍に見つかり、日本軍は直ちに劉に向けて一発射撃し、死ななかったので、二発目を撃って殺害しました。
2、郭三債子のわらぶきの家屋が、日本兵に火を放たれて焼け、日本軍が行ってしまったところで、郭がバケツで水を運んで消そうとしましたが、その時に日本軍が振り返って郭三債子が火を消しているのを見、すぐさま郭を押し倒し、銃剣を抜いて郭の顔を一太刀つつき、続いて又身体を数太刀むやみにつついて、その場で郭を井戸のそばに死なせました。日本兵は郭を殺害してから、死体を井戸の中に押し入れました。あの時郭は50歳足らずでした。(肖中煌が記録:明日に続く)
●731部隊と天皇
 欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。
 日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。
 1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他多くの石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
 1938年(昭和13年)の5月には国家総動員法が発令され、京大や東大の研究者なども上司の勧めや説得により、731部隊に派遣された者もいる。731部隊は国家的プロジェクトだった。そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
 研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
 ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
 これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
 731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入っていたはずである。
 莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊ではなかったか?

 マッカーサーは、軍人であった。軍事戦略に長けていた。日本軍の731部隊の細菌戦や、そこで行われている人体実験、また、アメリカ人捕虜に対する残虐行為などの情報はある程度知っていた。しかし、マッカーサーが占領統治に当たって重視したのは、そのようなことを裁くのではなく、円滑に日本統治をすすめ、将来的には日本が、アメリカの傘下に入って、共産主義と対峙する国にしようとしたのではないか?
そのためには、日本人がその当時も今もかもしれないが天皇教に洗脳されていることを利用し、昭和天皇をそのまま在位させて、その力を統治に最大限活用した。
 そして、国家的プロジェクトであった細菌兵器の開発や、731部隊で行われていた人体実験のデータを極秘裏に集め、自国の遅れている生物兵器開発に役立てようとした。
上記のことを実行するためには、天皇や731部隊員の戦犯免責が必要であったため、731部隊関係者には、最初は731部隊員の戦犯免責はマッカーサー自らが与えていたが、ソ連の介入により、アメリカ本国の了解を取るようにした。
 また、東京裁判でこの件が裁かれないように工作し、731部隊のことに関しては報道管制を敷き、天皇はじめ731部隊関係者が法廷に立つことはなかった。
 結果、天皇の戦争責任は問われることはなく、日本の生物戦の戦争犯罪も一切問われなかった。
 そして、東京裁判は、形式的なのものになってしまった。

 戦後、アメリカのキャンプ・デトリックから細菌戦のことを調査しに派遣された調査官サンダースやトンプソンの731部隊員に対する尋問する前に、GHQのG-2(参謀2部)が先手を打った。*G-2(参謀2部)が、軍事的に価値ある情報(人体実験と実戦データ)を密かに独占することを目的に、731部隊中枢幹部と陸軍高級参謀の一部との極秘の取り引きで、サンダースやトンプソンの尋問に対する供述の内容をコントロールしていた。その背後には、大統領の椅子にまで野心を燃やしていたマッカーサー将軍が、トルーマン大統領にうとまれていた化学戦部隊と共謀して、原爆に匹敵するような秘密兵器を持ちたいという願望があった。
 また、マッカーサー将軍が、8万8千人の将兵を置き去りにして、オーストラリアへ逃げた雪辱を果たし、軍人としての失地回復を図るには、日本占領・統治には失敗は許されなかった。大規模な人体実験と細菌兵器の実戦使用が明らかになれば、当然おりから進行中の東京裁判でも、重大な戦争犯罪として裁かれざるを得なくなる。そして、それはまた、極秘部隊ではあっても、天皇の軍令によって正規軍の一部となっていた細菌戦部隊(防疫給水部)の行状として、天皇の戦犯訴追という結果を招きかねない重大問題であった。それは、日本軍部が、敗戦を目前にして最後までこだわった、国体護持を危うくしかねない問題そのものであった。双方の利害はそこで完全に一致していた。*

731部隊幹部はデトリックの調査官に、人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。*この尋問要求をめぐる米ソの協議の過程で、人体実験、ノミや細菌の生産の実態など、731幹部隊員の供述が提示されたことによって、価値ある情報の独占を画策していたマッカーサー及びG-2 は、あわてて戦犯免責取り引きを含めて、ソ連の要求に対する対応を本国からの指示を仰ぐというかたちに切替えたと考えられる*。
 アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・生物戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731部隊の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
 
 日本政府及び天皇とアメリカは、一緒になって、731部隊の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)
その結果、裁判で国民の前に731部隊の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任を問う声は国民からはあがらなかった。
※*~*【『生物戦部隊731』(アメリカが免罪した日本軍の戦争犯罪)西里扶甬子著 :草の根出版】より引用。
※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。【 『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳 193頁】

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