日米間の密約はまだまだ存在する!!
全世界の究極の祈り・願い!!
「No more war!!」
武器よ!さらば!沖縄の米軍基地撤去!
「怨」
きけ!「マルタ・アジアの犠牲者」の叫び!
「日の丸」・「君が代」反対!!
(侵略のシンボル)(天皇賛美の歌)
新しい日本!!
「世襲の天皇制から選ばれし大統領制へ!」
(昭和天皇の戦争責任・戦争犯罪を問う。)
(時効なき戦争責任・戦争犯罪)
●731部隊
『生物戦部隊731』(アメリカが免罪した日本軍の戦争犯罪)
西里扶甬子著:草の根出版:2002年発行
第三章 新しい証言者と新資料の出現
昭和天皇死去・「731部隊展」以降
陸軍参謀の業務日誌
(1)井本熊男大佐の業務日誌。1939年10月から1940年10月まで支那派遣軍参謀、1940年10月から1942年12月まで参謀本部作戦課員。1942年12月から1943年2月まで大本営作戦参謀(第8方面軍)。これらの期間、細菌戦の実施について連絡調整した模様を詳しく記している。
(2)金原節三軍医大佐の「陸軍業務日誌摘録」。1941年11月から陸軍省医事課長。
(3)大塚文郎軍医大佐の「備忘録」。金原大佐の後任として1943年9月に医事課長。アメリカ軍に対する細菌戦計画を詳細に記録。
(4)真田穣一郎少将の業務日誌。1943年10月から翌年12月まで参謀本部第一(作戦)部長。
日誌では、細菌兵器による攻撃作戦は「ホ号」「ホ」「ほ号」「保」「㋭」、もっとも有効な細菌兵器とされているペストノミは「アワ」「粟」、ノミの生産に不可欠なネズミは「餅」などの暗号で呼ばれている。また細菌についてはPx(ペスト菌液)、P(ペスト)、C(コレラ)、T(チフスまたは腸チフス)、PA(パラチフスまたはパラチフスA)などの略号が使われている。日誌は、1940(昭和15)年から1942(昭和17)年まで、日本陸軍が中国において細菌兵器による攻撃を実行したこと、これは天皇の命令に基づいて参謀総長が出す、作戦に関する具体的な指示である「大陸指」に従って実行されたことを記している。
これによって、「天皇は知っていたのか?」というイギリスのテレビドキュメンタリ―が問いかけていた疑問に対する答えが、明快に出たといえる。これらの業務日誌と中国側の資料、被害者、実戦参加者などの新たな証言を突き合わせることによって、実戦に関する事実関係が極めて具体的に解明されつつある。以下にこれらの業務日誌から読み取れる、特筆すべき事項のみを3点にわけてまとめてみた。
※これは大きな発見であった。業務日誌が見つかり、天皇の命令で細菌戦が実施されていたことが判明した。天皇の責任は重い!!
●南京大虐殺
「この事実を・・・・」
(「南京大虐殺」生存者証言集:侵華日軍南京大遇難同胞紀念館/編 加藤 実/訳)
(発行:ストーク、発売:星雲社、定価2000+税)
※私達日本人は、南京大虐殺の「この事実を・・・」を謙虚に読むべきだと思う。
南京でどんなことが起こっていたのかをもっと日本人は知る必要があると思う。
今でも多くの被害者の方々はPTSDに悩んでいる!!
2、日本軍の狂暴な個人的虐殺
目撃された虐殺の凄まじさ
史月英(女、74歳)の証言
南京が陥落する前は、私の家は明瓦廊14号でした。父は廃品回収をし、母は人の家で雑用をしていましたが、父が早く死に、母と私と1人が9歳で、1人が6歳の妹達2人とで生活していました。その時私は19歳で、結婚したばかりでした。
日本軍が南京を占領する前の晩に、私たちは難民区の中の漢口路25号に引き移って住まいました。口過ぎのために、難民区で団子を造って売りました。やがて日本軍が占領してからは生活の手立てが無く、難民区で炊き出しのお粥に頼って生存していました。情勢がやや収まってから、母は妹たち2人を連れて明瓦廊14号に戻って住みましたが、私は依然として難民区に住まっていました。
日本軍が入ってきて何日もしないで、王という名の売国奴が日本軍の一群を連れて、難民区の寧海路冬瓜市場で、みんな出て来るようにと、わめき叫んだので、男も女も老いも若きも一斉に出てきて、空き地に立ったところ、売国奴が「中央軍をやった者はすぐに立ち上がれば、するべき仕事をやる。仕事をしたくない者は、家に送り返してやる」と言いました。そうしたら少なくない人たちが本当だと信じて、立ち上がり、日本兵はトラック6台でその人たちを下関まで引きずって、機関銃で掃射し死なせてしまいました。
その時群れの中で立ち上がらなかった人たちの間で、日本軍は人を捕まえ始め、夫の兄の李文華が捕まえられ、ゴム輪の人力車ひきで、手にたこがあったので、中央軍だと日本軍が言い、捕まえて行こうとしたのを、老いた姑が地にひざまずいて哀訴し、これは中央軍ではありません、息子です、と言ったので、それでやっと捕まって行かずに済みました。お隣のあるお婆さんが、日本軍が検査をしていた時に、侯という名の中国兵が1人群から捕まり出されるのを、このお婆さんがぐっと抱きしめ、自分の息子ですと言って、この侯という中国兵を救ってあげたので、この人は死を免れました。(段月萍と劉柏雲が記録)
●731部隊と天皇
欧米の帝国主義にならって、日本も中国侵略を真剣に考え、実行していった。
当時、天皇は現人神であり、日本国においては絶対の存在だった。日本人は、小さい頃から、家庭や学校で天皇を拝み、学校では教育勅語を奉読され、天皇のために死ぬことが最高の価値のように教えられた時代でもあった。当時植民地であった朝鮮や台湾の人々を二等国民とか三等国民と呼び、中国人をチャンコロと呼んで蔑視していた。また、軍医になって中国に渡れば、731部隊に所属しなくても生体解剖は当たり前のように行われていた。
日本の傀儡政権が満州に成立すると、早速、陸軍軍医少佐の石井四郎は、満州の背陰河で人体実験を重ねながら、安くて強力な兵器(貧者の核爆弾)の開発を目指した。
1936年、天皇の認可の下に中国ハルピンの郊外平房の広大な敷地に研究施設を作り、東京の陸軍軍医学校やその他多くの石井のネットワークと連携しながら、中国人・朝鮮人・ロシア人・モンゴル人などをマルタと称して生体実験・生体解剖などをし、試行錯誤を重ね、より強力な細菌兵器の開発を目指した。
1938年(昭和13年)の5月には国家総動員法が発令され、京大や東大の研究者なども上司の勧めや説得により、731部隊に派遣された者もいる。731部隊は国家的プロジェクトだった。そこで開発された細菌爆弾(陶器爆弾)は中国の都市で実戦された。ペスト菌で多くの被災者を出し都市は混乱した。
研究成果は思ったよりも上がらず、兵器の開発を急いだが、時すでに遅く、ソ連の参戦を許してしまった。
ソ連が参戦するや否や、軍部・天皇はいち早く731部隊の証拠隠滅をはかり、建物を爆破し、収容されていたマルタを全員殺し、731部隊員を急遽日本へ戻した。
これも戦争犯罪がばれると、天皇にもその責任が問われることになるからだ。
731部隊にも何人かの皇族が行き来し、実際731に係わっていた皇族もいた。東条も足を運び、大元帥昭和天皇の耳にも731についての情報は入り、実際細菌戦の命令も出していた!!。
莫大な予算をかけ、全国の優秀な医学者(京都帝大・東京帝大医学部が中心)を集めて作られた731部隊は、軍部・天皇がもっとも期待していた部隊であった!!
マッカーサーは、軍人であった。軍事戦略に長けていた。日本軍の731部隊の細菌戦や、そこで行われている人体実験、また、アメリカ人捕虜に対する残虐行為などの情報はある程度知っていた。しかし、マッカーサーが占領統治に当たって重視したのは、そのようなことを裁くのではなく、円滑に日本統治をすすめ、将来的には日本が、アメリカの傘下に入って、共産主義と対峙する国にしようとしたのではないか?
そのためには、日本人がその当時も今もかもしれないが天皇教に洗脳されていることを利用し、昭和天皇をそのまま在位させて、その力を統治に最大限活用した。
そして、国家的プロジェクトであった細菌兵器の開発や、731部隊で行われていた人体実験のデータを極秘裏に集め、自国の遅れている生物兵器開発に役立てようとした。
上記のことを実行するためには、天皇や731部隊員の戦犯免責が必要であったため、731部隊関係者には、最初は731部隊員の戦犯免責はマッカーサー自らが与えていたが、ソ連の介入により、アメリカ本国の了解を取るようにした。
また、東京裁判でこの件が裁かれないように工作し、731部隊のことに関しては報道管制を敷き、天皇はじめ731部隊関係者が法廷に立つことはなかった。
結果、天皇の戦争責任は問われることはなく、日本の生物戦の戦争犯罪も一切問われなかった。
そして、東京裁判は、形式的なのものになってしまった。
戦後、アメリカのキャンプ・デトリックから細菌戦のことを調査しに派遣された調査官サンダースやトンプソンの731部隊員に対する尋問する前に、GHQのG-2(参謀2部)が先手を打った。*G-2(参謀2部)が、軍事的に価値ある情報(人体実験と実戦データ)を密かに独占することを目的に、731部隊中枢幹部と陸軍高級参謀の一部との極秘の取り引きで、サンダースやトンプソンの尋問に対する供述の内容をコントロールしていた。その背後には、大統領の椅子にまで野心を燃やしていたマッカーサー将軍が、トルーマン大統領にうとまれていた化学戦部隊と共謀して、原爆に匹敵するような秘密兵器を持ちたいという願望があった。
また、マッカーサー将軍が、8万8千人の将兵を置き去りにして、オーストラリアへ逃げた雪辱を果たし、軍人としての失地回復を図るには、日本占領・統治には失敗は許されなかった。大規模な人体実験と細菌兵器の実戦使用が明らかになれば、当然おりから進行中の東京裁判でも、重大な戦争犯罪として裁かれざるを得なくなる。そして、それはまた、極秘部隊ではあっても、天皇の軍令によって正規軍の一部となっていた細菌戦部隊(防疫給水部)の行状として、天皇の戦犯訴追という結果を招きかねない重大問題であった。それは、日本軍部が、敗戦を目前にして最後までこだわった、国体護持を危うくしかねない問題そのものであった。双方の利害はそこで完全に一致していた。*
731部隊幹部はデトリックの調査官に、人体実験の事実は隠し続け、人体実験はしていないと嘘を通した。
1947年(昭和22年)1月に、ソ連が石井ら日本にいる731部隊幹部の尋問を要求した。*この尋問要求をめぐる米ソの協議の過程で、人体実験、ノミや細菌の生産の実態など、731幹部隊員の供述が提示されたことによって、価値ある情報の独占を画策していたマッカーサー及びG-2 は、あわてて戦犯免責取り引きを含めて、ソ連の要求に対する対応を本国からの指示を仰ぐというかたちに切替えたと考えられる*。
アメリカは731部隊幹部に約束した戦犯免責を保証し、人体実験・生物戦のデータを独占しようと、石井らと打ち合わせをする。その結果、ソ連の尋問は形式的なものになってしまった。
731部隊の戦犯追及をしていた占領軍(アメリカ)の法務局の活動はアメリカ自身の手によって強制的に中止され、詳細なデータはアメリカが独占することになり、東京裁判では731部隊のことは裁かれなかった。
日本政府及び天皇とアメリカは、一緒になって、731部隊の隠蔽を図り、これが東京裁判で裁かれない様にし、その残虐な事実が国民の前に公表されないようにした。(昭和天皇とマッカーサーとの会談は極秘裏に戦後11回行われた。新憲法が制定された後でも、「象徴天皇」という新たな憲法上の地位に“制約”を感じることもなく「政治的行為」として、マッカーサーと「トップ会談」がなされていた。それも、当時の政府を飛び越えて行われていた。この「トップ会談」の「公式記録」はこれを所管する宮内庁・外務省が正式に資料公開すべきである!!)
その結果、裁判で国民の前に731部隊の情報が公開されなかったし、追及もされなかったものだから、大元帥昭和天皇の戦争責任を問う声は国民からはあがらなかった。日本政府は戦争の加害の事実に目をつぶり、隠ぺいし続けているが果たしてこれでよいのであろうか?
※*~*【『生物戦部隊731』(アメリカが免罪した日本軍の戦争犯罪)西里扶甬子著 :草の根出版】より引用。
※パウエルの記事と森村の本は、日本で政府が見解を出さざるを得ないほどの騒ぎを巻き起こした。政府は国会で731部隊の存在と、731部隊の戦争犯罪について初めて認めた。議論の中で政府は、石井の細菌実験について知りながら石井にかなりの軍人恩給を給付していたことを全く偶然に露呈してしまった。【 『死の工場(隠された731部隊)』:シェルダン・H・ハリス著、近藤昭二訳 193頁】