「2083―ー欧州独立宣言」日本語版

グローバル極右界の「共産党宣言」、現代世界最大の奇書

2.85 将来への欧州キリスト教身份?(p684~)

2013-01-20 22:02:34 | 左翼思想批判
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カイル・スポツウッド


 出典(リンク切れ)

 一般に政治とは特定内部の権力追求のことである。また、政治とは世界芸術または社会科学である。ロバート・ハッチンスは政治を「国家の必須研究対象を決定する建築工学」と呼んだ。我らにとって政治とは「権力国境の謀略跋扈せし暴力舞踏会」(デイヴィッド・マーティン)であるべきだ。
 宗教も一般には自由近代人とは異なる生活様式と捉えられている。しかし、キリスト教はかつて政治性を備えたセカイ観そのものだった。キリスト教と政治はかつて一体のものだったのである。
 しかし、基督政体(クリステンダム)においては、教会と国家との間に区別があった。博霊なる教会への俗物なる国王の介入を防ぐために、抑制装置もつけられた。そして、教会は国民を精神救済し、国家は世俗世界において異端を排除しつつキリストの泰和を創出するという機能を与えられた。近代自由民主主義もこの延長線上にあるものだ。自由近代もまたナチや急進イスラム、独裁などの異端的要素への防衛機能があるではないか。その連続性を具体例で見てみよう。これはゲンバの運営により連関するのかもしれないが。

 ・宗国境界(コンコルダート)・・・国家と教会の責任領域を二分する。国家は必ずしもキリスト教とは限らない
 ・エラスムス主義・・・キリスト教の国では国家が教会を管理すべきという思想で、純粋なキリスト教社会が想定されている
 ・体制化・・・教会が他の宗教より優遇される訳だが、そこには多様性の要素も入り込む
 ・和諧(調和)・・・宗国境界を確定し、キリスト教国を運営する
 ・カエサル法王主義・・・キリスト教の君主が宗教組織をも統治する構造
 ・基督政体・・・宗国境界を維持しつつも、教会が国家の上に立つ形態

 しかし、ここで論じるキリスト教政治の概念は、近代世界のそれとは異なる。ここで想定されるのは、キリスト教が敵視される世界に現れた「カトリック合一教会民兵」である。
 世俗の近代思想が天頂に達した当世、教会が国家に対してかつて誇っていた影響力は衰滅し、教会の歴史的存在力は「理性イデオロギー」に代替されつつある。国家が教会の「墻」を乗り越え、キリスト教の身份そのものに挑戦しているのだ。そして、「理性イデオロギー」を根幹とする自由近代オルタナティブが「人道教」という新たな墻となった。人道教への世上強制改宗工程で、キリスト教の信仰は形而上箱に封絶され、マルクスやニーチェの予言した死の時を迎えようとしている。
 キリストの民兵たちは今こそキリストの范式(パラダイム)を光復せねばならない。ボリビアのアイマラ人が持つ左世の大義やアルバニアのギリシア人が持つ右世の大義のようなものを。キリスト教徒は今こそ報道機関や議会、商事等における指揮権を光復し、自由近代の燐子を浄化せねばならない。世俗の要素は無神論から生まれたのではない。それもまた、教会で胚胎したものなのだ。キリスト精神は政治志向を以てその本質とするのである。キリスト教政治家の力は問題解決の効率性で決まる。
 キリスト教徒は周囲に同塵するのでなく、主体となってキリスト小社を築かねばならない。主体なくば、アパルトヘイト下のオランダ改革教会のようになるだけだ。
 このキリスト教は政治の真名そのものを変態することだろう。政治とは奉仕でもある。自由民主の政治文化は幸運にもキリスト教の影響下にあるが、この「良識」を精錬せねばならない。政治面、経済面、外政面での「良識」の評価基準を生命力ある神への忠誠度で決めるのだ。これは国民の参与をもって事足れりとする自由近代の物質主義を超克するものだ。例えば南アフリカ、エルサルバドル、ルワンダ、北アイルランド、ボスニア等の真実和解委員会は、分断の過去を非物質的手段で解決しようとしている。
 また、キリスト教徒は全政治を神の政枠に従属させるべきだ。とはいっても、そこに強制改宗の要素があってはならない。そうすれば、ヒトラーやスターリン、サダムのような獄壌なる恐怖政治が顕現するだろう。政治家は有名人である必要はない。寧ろ、政界に関与する前に十分人民に奉仕している人間が政治家になるべきだ。俳優や歌手などの「名流」(セレブ)ではなく、ゲンバの医師や警官、小社活動家こそが英雄になるべきなのだ。重要なのは自画自賛ではなく、神聖なる奉仕なのである。
 基督政体は特定の政治体制を伴うものではないので、そこには様々な裁量がある。しかし、そこで重要なのは神の明示的意思に対して、その政体が説明責任をとることだ。政体がキリスト王国の民兵に対して責任を示すのである。キリストの使徒たちの「大審院」の神権体制のようなものを人為的に顕現させるために、教会と国家が融合するのだ。
 神権など無理という者もいるだろう。しかし、人間が神の意志を完全に遂行するのは不可能だということは百も承知だ。キリストも出来なかったことなのだから。しかし、神の意志を少しでも顕現させるために人間は努力することができる。完全な民主体制などあり得ないが、それでもそうした体制を目指して人間は努力しているのはないか。
 「演劇女王」の如く、この構想をイスラムや中世西欧と同列に並べる者もいる。しかし、どの社会が神や宗教と無縁でいられただろうか?自由近代だって資本主義のカネを神としていた。欠陥なき政体など存在せず、全ての政体を拒絶するのは無秩序への道だ。基督政体は唯一正統な体制だ。自由近代主義者の「全真名は相対的」というテーゼは哄笑ものだ。そのテーゼ自体が唯一絶対の真名として全政体を支配しようとしているのだから。非敬虔者は同じくらい無体制を受容しようとするともいうが、キリスト教徒と自由近代との間で別の規則を適用しようとしているのだろうか。
 キリスト政治は元来無国境の「国際主義」だ。なので、どこかでキリスト教徒が迫害されていると、他国のキリスト教徒にとっても武器を取るべき関心事項となる。自由近代が「人権」を犯す者と戦争するのと同じ論理で。
 非西洋でのキリスト教徒迫害に沈黙するのが当代西洋教会の精神状態だ。迫害を受けている教会は迫害をも肯定する西洋の輸入神学でなく、迫害経験を基にして自力で神学体系をつくりあげて欲しい。教会の身份は神学的な教条ではなく、迫害される教会の歴史的現実の中に見出すべきだ。迫害は明白に反キリストだ。故に、「全球環球教会ユニバース」は迫害されるキリスト教と連帯すべきだ。神学は迫害経験の上に築かれるべきなのだ。

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2.84 汝、猶督を嫌いたまえ(p681~)

2013-01-20 21:40:37 | 現代欧州
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フョードマン同志


 出典(2006年)

 僕は世俗派だが、猶督文明の西洋文化の影響力は認める手合いだ。僕はイスラムに媚敵し、反世俗で連帯する教会を批判してきた。しかし、ムスリムにとって最も利用価値があるのは、世俗なる群衆のようだ。
 サヨク多文化主義者が猖獗するBBCは反米、反キリストで親ムスリムだ。BBC商事編集員のジェフ・ランダルが上層部に多文化主義偏向を告発したところ、「BBCは多文化主義では中立ではない。寧ろ推進役だ」と述べた。
 反キリスト感覚は西洋多文化主義者共通の性向のようだ。オスロ大のトーマス・フラント・エリクセン教授などその代表だろう。教授は国民国家の死を嬉々と記し、ノルウェー第一のニダロス教会が多文化社会の象徴になるべきでないと語る。誠心思考の管理人オレ・ヨルゲン・アンフィンドセンと衝突した時は、こう反論した。「白黒以外の肌もいる多文化コスモポリスでは、アンフィンドセンの投げつけた問題など些細化していくだろう」アンフィンドセンは「無知蒙昧」で「キリスト歪曲主義」に基づいているというのだ。
 どうもエリクセンは嫌イスラム流を懸念するより、キリスト教を揶揄する方に関心があるようだ。「テオ・ヴァン・ゴッホ監督殺害のような事件にイスラムは関係ないという事実をアンフィデルセンは我々に確認させようとしているのだろうか?」と。
 本当に関係ないのだろうか?
 ソマリア系のアヤン・ヒルシ・アリと共に「反イスラム」の映画を制作したオランダ人テオ・ヴァン・ゴッホ監督を2004年11月銃殺したムハンマド・ブーイェリはアムステルダム生まれのベルベル人だった。監督の侮教を確信したブーイェリは「信仰通りに行動したのみ」と残虐な殺人行為を肯定した。
 なら、平和的なキリスト教徒は密室での秘事を告発され、ムスリムはイスラム的動機を自賛してもイスラムと関係なしとされるのだろうか?多文化社会が崩壊して間もない旧ユーゴから渡来したセルビアの医師が大量移民の盲流を警告した時、エリクセンは「認識不足」と揶揄した。
 多文化主義の第一戒は「汝、猶督を嫌いたまえ」だ。多文化主義者は「非西洋文化は人為的吟味の上に」と唱えて、国民国家ばかりか啓蒙思想まで嫌悪する。エリクセンのような「多文化コスモポリス」の徒はイスラムも西洋の宗教と唱えながら、反西洋の要素としてイスラムを選好する。
 宗教は社会の必要条件なのか?カトリックの歴史家クリストファー・ドーソンは『進歩と宗教』でこう書いた。

 宗教衝動こそ世上と文化の統合包摂力の供給者だ。大文明が大宗教を胚胎するのではない。その逆が世の理なのだ。宗教なき社会はやがて文化を衰滅させていくだろう。

 トクヴィルは『米国の民主主義』でこう書いた。

 米国では宗教は直接政府に関与していない。しかし、宗教こそが自由なる政治機関の淵源となっている。全米国人が敬虔か否かは不明だが、宗教は与否なく共和制度を護持する不可欠の要素である。

 『ハラキリする理性』のリー・ハリスは、基督欧州はヘブライとキリスト、ローマの法律、ゲルマン蛮族の恋由などの混淆物だと唱える。では、どこから近代の理性人共同体が生まれたのだろう?哲学者ヨハン・ヘルダーはこう語る。

 カントのような批判的思想家を生み出すのに必要とは何なのだろう?カントは『純粋理性批判』で神の存在を完全論破したわけだが、カリーニングラードの敬虔者は彼を路上で四肢切断することはしなかった。

 ヘルダーにとって、西欧近代科学の理性なる産物は聖書とギリシア哲学、ローマ遺産の集合体だった。
 19世紀のショーペンハウアーは無神論者だったが、それでもキリスト教の神界観が宇宙の理性的解釈を可能にしたと認めている。
 ハリスは指摘する。「神を求める人類の本性は近代理性でも変えられない。無神に狂熱する者も他者の崇めるネ申を完全無視することはできまい。前近代の状態を考慮するなら、近代理性もまた、民俗・宗教両面で生存のための適応機制を備えねばならない。民俗機制とは暴力より理性を好む人間の小社をつくることだ。宗教機制とは、理性社会の構築に役立ちそうな宗教を信じてなくても選択することだ。
 テオドール・ダルリンプルは社会病理の多発に直結した目的意識の欠如を問題視する。最後の文はイスラムと西洋社会への警句でもあろう。

 大多数の人民は福祉国家故に義務たる労働から自尊心を感じなくなり、私生活以外への帰属感を感受しなくなった。…私は敬虔ではないが、反宗教でもない。政教分離の非神権体制なら宗教の味方だ。…自由なき規律は惨禍への道だが、規律なき自由も騒擾の紅世なる惨禍への道だ。

 僕はハリスやダルリンプルの意見に賛成する。猶督文明には理性の強盛共同体を生み出す力があるが、イスラムは決してそうした共同体を生み出せないだろう。オーストラリアのぺル枢機卿が言うように、「反キリストのあまりキリスト教の敵を同志と看做す世俗派は、未曽有の誤算を行っている」。
 イスラムが西洋の一部を征服したら、多文化主義者も多文化新教が伝統なる猶督教より悪逆だったことを理解するだろう。晩時の嘆きとして。

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