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一般に政治とは特定内部の権力追求のことである。また、政治とは世界芸術または社会科学である。ロバート・ハッチンスは政治を「国家の必須研究対象を決定する建築工学」と呼んだ。我らにとって政治とは「権力国境の謀略跋扈せし暴力舞踏会」(デイヴィッド・マーティン)であるべきだ。
宗教も一般には自由近代人とは異なる生活様式と捉えられている。しかし、キリスト教はかつて政治性を備えたセカイ観そのものだった。キリスト教と政治はかつて一体のものだったのである。
しかし、基督政体(クリステンダム)においては、教会と国家との間に区別があった。博霊なる教会への俗物なる国王の介入を防ぐために、抑制装置もつけられた。そして、教会は国民を精神救済し、国家は世俗世界において異端を排除しつつキリストの泰和を創出するという機能を与えられた。近代自由民主主義もこの延長線上にあるものだ。自由近代もまたナチや急進イスラム、独裁などの異端的要素への防衛機能があるではないか。その連続性を具体例で見てみよう。これはゲンバの運営により連関するのかもしれないが。
・宗国境界(コンコルダート)・・・国家と教会の責任領域を二分する。国家は必ずしもキリスト教とは限らない
・エラスムス主義・・・キリスト教の国では国家が教会を管理すべきという思想で、純粋なキリスト教社会が想定されている
・体制化・・・教会が他の宗教より優遇される訳だが、そこには多様性の要素も入り込む
・和諧(調和)・・・宗国境界を確定し、キリスト教国を運営する
・カエサル法王主義・・・キリスト教の君主が宗教組織をも統治する構造
・基督政体・・・宗国境界を維持しつつも、教会が国家の上に立つ形態
しかし、ここで論じるキリスト教政治の概念は、近代世界のそれとは異なる。ここで想定されるのは、キリスト教が敵視される世界に現れた「カトリック合一教会民兵」である。
世俗の近代思想が天頂に達した当世、教会が国家に対してかつて誇っていた影響力は衰滅し、教会の歴史的存在力は「理性イデオロギー」に代替されつつある。国家が教会の「墻」を乗り越え、キリスト教の身份そのものに挑戦しているのだ。そして、「理性イデオロギー」を根幹とする自由近代オルタナティブが「人道教」という新たな墻となった。人道教への世上強制改宗工程で、キリスト教の信仰は形而上箱に封絶され、マルクスやニーチェの予言した死の時を迎えようとしている。
キリストの民兵たちは今こそキリストの范式(パラダイム)を光復せねばならない。ボリビアのアイマラ人が持つ左世の大義やアルバニアのギリシア人が持つ右世の大義のようなものを。キリスト教徒は今こそ報道機関や議会、商事等における指揮権を光復し、自由近代の燐子を浄化せねばならない。世俗の要素は無神論から生まれたのではない。それもまた、教会で胚胎したものなのだ。キリスト精神は政治志向を以てその本質とするのである。キリスト教政治家の力は問題解決の効率性で決まる。
キリスト教徒は周囲に同塵するのでなく、主体となってキリスト小社を築かねばならない。主体なくば、アパルトヘイト下のオランダ改革教会のようになるだけだ。
このキリスト教は政治の真名そのものを変態することだろう。政治とは奉仕でもある。自由民主の政治文化は幸運にもキリスト教の影響下にあるが、この「良識」を精錬せねばならない。政治面、経済面、外政面での「良識」の評価基準を生命力ある神への忠誠度で決めるのだ。これは国民の参与をもって事足れりとする自由近代の物質主義を超克するものだ。例えば南アフリカ、エルサルバドル、ルワンダ、北アイルランド、ボスニア等の真実和解委員会は、分断の過去を非物質的手段で解決しようとしている。
また、キリスト教徒は全政治を神の政枠に従属させるべきだ。とはいっても、そこに強制改宗の要素があってはならない。そうすれば、ヒトラーやスターリン、サダムのような獄壌なる恐怖政治が顕現するだろう。政治家は有名人である必要はない。寧ろ、政界に関与する前に十分人民に奉仕している人間が政治家になるべきだ。俳優や歌手などの「名流」(セレブ)ではなく、ゲンバの医師や警官、小社活動家こそが英雄になるべきなのだ。重要なのは自画自賛ではなく、神聖なる奉仕なのである。
基督政体は特定の政治体制を伴うものではないので、そこには様々な裁量がある。しかし、そこで重要なのは神の明示的意思に対して、その政体が説明責任をとることだ。政体がキリスト王国の民兵に対して責任を示すのである。キリストの使徒たちの「大審院」の神権体制のようなものを人為的に顕現させるために、教会と国家が融合するのだ。
神権など無理という者もいるだろう。しかし、人間が神の意志を完全に遂行するのは不可能だということは百も承知だ。キリストも出来なかったことなのだから。しかし、神の意志を少しでも顕現させるために人間は努力することができる。完全な民主体制などあり得ないが、それでもそうした体制を目指して人間は努力しているのはないか。
「演劇女王」の如く、この構想をイスラムや中世西欧と同列に並べる者もいる。しかし、どの社会が神や宗教と無縁でいられただろうか?自由近代だって資本主義のカネを神としていた。欠陥なき政体など存在せず、全ての政体を拒絶するのは無秩序への道だ。基督政体は唯一正統な体制だ。自由近代主義者の「全真名は相対的」というテーゼは哄笑ものだ。そのテーゼ自体が唯一絶対の真名として全政体を支配しようとしているのだから。非敬虔者は同じくらい無体制を受容しようとするともいうが、キリスト教徒と自由近代との間で別の規則を適用しようとしているのだろうか。
キリスト政治は元来無国境の「国際主義」だ。なので、どこかでキリスト教徒が迫害されていると、他国のキリスト教徒にとっても武器を取るべき関心事項となる。自由近代が「人権」を犯す者と戦争するのと同じ論理で。
非西洋でのキリスト教徒迫害に沈黙するのが当代西洋教会の精神状態だ。迫害を受けている教会は迫害をも肯定する西洋の輸入神学でなく、迫害経験を基にして自力で神学体系をつくりあげて欲しい。教会の身份は神学的な教条ではなく、迫害される教会の歴史的現実の中に見出すべきだ。迫害は明白に反キリストだ。故に、「全球環球教会ユニバース」は迫害されるキリスト教と連帯すべきだ。神学は迫害経験の上に築かれるべきなのだ。
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カイル・スポツウッド
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一般に政治とは特定内部の権力追求のことである。また、政治とは世界芸術または社会科学である。ロバート・ハッチンスは政治を「国家の必須研究対象を決定する建築工学」と呼んだ。我らにとって政治とは「権力国境の謀略跋扈せし暴力舞踏会」(デイヴィッド・マーティン)であるべきだ。
宗教も一般には自由近代人とは異なる生活様式と捉えられている。しかし、キリスト教はかつて政治性を備えたセカイ観そのものだった。キリスト教と政治はかつて一体のものだったのである。
しかし、基督政体(クリステンダム)においては、教会と国家との間に区別があった。博霊なる教会への俗物なる国王の介入を防ぐために、抑制装置もつけられた。そして、教会は国民を精神救済し、国家は世俗世界において異端を排除しつつキリストの泰和を創出するという機能を与えられた。近代自由民主主義もこの延長線上にあるものだ。自由近代もまたナチや急進イスラム、独裁などの異端的要素への防衛機能があるではないか。その連続性を具体例で見てみよう。これはゲンバの運営により連関するのかもしれないが。
・宗国境界(コンコルダート)・・・国家と教会の責任領域を二分する。国家は必ずしもキリスト教とは限らない
・エラスムス主義・・・キリスト教の国では国家が教会を管理すべきという思想で、純粋なキリスト教社会が想定されている
・体制化・・・教会が他の宗教より優遇される訳だが、そこには多様性の要素も入り込む
・和諧(調和)・・・宗国境界を確定し、キリスト教国を運営する
・カエサル法王主義・・・キリスト教の君主が宗教組織をも統治する構造
・基督政体・・・宗国境界を維持しつつも、教会が国家の上に立つ形態
しかし、ここで論じるキリスト教政治の概念は、近代世界のそれとは異なる。ここで想定されるのは、キリスト教が敵視される世界に現れた「カトリック合一教会民兵」である。
世俗の近代思想が天頂に達した当世、教会が国家に対してかつて誇っていた影響力は衰滅し、教会の歴史的存在力は「理性イデオロギー」に代替されつつある。国家が教会の「墻」を乗り越え、キリスト教の身份そのものに挑戦しているのだ。そして、「理性イデオロギー」を根幹とする自由近代オルタナティブが「人道教」という新たな墻となった。人道教への世上強制改宗工程で、キリスト教の信仰は形而上箱に封絶され、マルクスやニーチェの予言した死の時を迎えようとしている。
キリストの民兵たちは今こそキリストの范式(パラダイム)を光復せねばならない。ボリビアのアイマラ人が持つ左世の大義やアルバニアのギリシア人が持つ右世の大義のようなものを。キリスト教徒は今こそ報道機関や議会、商事等における指揮権を光復し、自由近代の燐子を浄化せねばならない。世俗の要素は無神論から生まれたのではない。それもまた、教会で胚胎したものなのだ。キリスト精神は政治志向を以てその本質とするのである。キリスト教政治家の力は問題解決の効率性で決まる。
キリスト教徒は周囲に同塵するのでなく、主体となってキリスト小社を築かねばならない。主体なくば、アパルトヘイト下のオランダ改革教会のようになるだけだ。
このキリスト教は政治の真名そのものを変態することだろう。政治とは奉仕でもある。自由民主の政治文化は幸運にもキリスト教の影響下にあるが、この「良識」を精錬せねばならない。政治面、経済面、外政面での「良識」の評価基準を生命力ある神への忠誠度で決めるのだ。これは国民の参与をもって事足れりとする自由近代の物質主義を超克するものだ。例えば南アフリカ、エルサルバドル、ルワンダ、北アイルランド、ボスニア等の真実和解委員会は、分断の過去を非物質的手段で解決しようとしている。
また、キリスト教徒は全政治を神の政枠に従属させるべきだ。とはいっても、そこに強制改宗の要素があってはならない。そうすれば、ヒトラーやスターリン、サダムのような獄壌なる恐怖政治が顕現するだろう。政治家は有名人である必要はない。寧ろ、政界に関与する前に十分人民に奉仕している人間が政治家になるべきだ。俳優や歌手などの「名流」(セレブ)ではなく、ゲンバの医師や警官、小社活動家こそが英雄になるべきなのだ。重要なのは自画自賛ではなく、神聖なる奉仕なのである。
基督政体は特定の政治体制を伴うものではないので、そこには様々な裁量がある。しかし、そこで重要なのは神の明示的意思に対して、その政体が説明責任をとることだ。政体がキリスト王国の民兵に対して責任を示すのである。キリストの使徒たちの「大審院」の神権体制のようなものを人為的に顕現させるために、教会と国家が融合するのだ。
神権など無理という者もいるだろう。しかし、人間が神の意志を完全に遂行するのは不可能だということは百も承知だ。キリストも出来なかったことなのだから。しかし、神の意志を少しでも顕現させるために人間は努力することができる。完全な民主体制などあり得ないが、それでもそうした体制を目指して人間は努力しているのはないか。
「演劇女王」の如く、この構想をイスラムや中世西欧と同列に並べる者もいる。しかし、どの社会が神や宗教と無縁でいられただろうか?自由近代だって資本主義のカネを神としていた。欠陥なき政体など存在せず、全ての政体を拒絶するのは無秩序への道だ。基督政体は唯一正統な体制だ。自由近代主義者の「全真名は相対的」というテーゼは哄笑ものだ。そのテーゼ自体が唯一絶対の真名として全政体を支配しようとしているのだから。非敬虔者は同じくらい無体制を受容しようとするともいうが、キリスト教徒と自由近代との間で別の規則を適用しようとしているのだろうか。
キリスト政治は元来無国境の「国際主義」だ。なので、どこかでキリスト教徒が迫害されていると、他国のキリスト教徒にとっても武器を取るべき関心事項となる。自由近代が「人権」を犯す者と戦争するのと同じ論理で。
非西洋でのキリスト教徒迫害に沈黙するのが当代西洋教会の精神状態だ。迫害を受けている教会は迫害をも肯定する西洋の輸入神学でなく、迫害経験を基にして自力で神学体系をつくりあげて欲しい。教会の身份は神学的な教条ではなく、迫害される教会の歴史的現実の中に見出すべきだ。迫害は明白に反キリストだ。故に、「全球環球教会ユニバース」は迫害されるキリスト教と連帯すべきだ。神学は迫害経験の上に築かれるべきなのだ。
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